2013年1月6日「愛の方法」Tヨハネ4:7-11

序−クリスチャンは、他の人に対する関心を持っていて、困難にある人を助けたい心があります。これが、愛の心です。しかし、愛はどこから始まり、どういうことなのでしょうか。どのように愛するのでしょうか。

T−愛は、神様からはじまる−
 「愛」ということの定義ほど、複雑で多様なことはありません。普通は、人に対して良い感情を持っているとき、その人を愛する、言います。特に男女間で相手を人格的に自分のものとしたいという欲が出る時の感情を言います。もし相手が他の人を愛するなら、反対に怒りの感情が生じます。この嫉妬の愛と言われます。それらは、自分が好意を持つのだから相手も好意を示せという相互関係か奪う愛と言えるでしょう。
 聖書では、このように言っています。7-8節。本当の愛の源泉は神様にあります。ですから、人が持っている愛は、歪曲され変質されたものだと言えます。神様をわからない者は、愛もわからないのです。ですから、人を真に愛そうとするなら、イエス様を信じて聖い者にならなければならないと言うことです。愛の源泉は神様だということが強調されています。ここに深い理由があります。
 この神の愛から出て来る愛の姿は言えば、たとえば、人を好む時、その時の姿だけ見て好むのでなく、その人の根本的な姿も知って愛するでしょう。あるいは、その時は酷く醜い状態だとしても、以前の美しさを回復するために犠牲を厭わないと思うでしょう。どうでしょうか。
 私たちを本当に愛することのできる方は、ただ神様だけです。神様は私たちを造られた方ですから。神様は、人を造られた時、それを良しとされました。これが人の元来の姿です。それが、堕落した後は、外面は変わらないようだけれども、創造のはじめに比べてあまりにも惨めで、みすぼらしくなっています。神様は、この人の姿に御心を痛められ、哀れんでくださり、はじめの栄光の姿を回復させようと、御子イエス様を世に与えられたのです。イエス様を十字架に渡されるという大きな犠牲を払われました。これが、神様の愛です。10節。それで、真実に人を愛することのできる者は、イエス様に救われて生まれ変わった者だと言っているのです。神様は、人が罪の奴隷となって貪欲に生きていることに対して不憫に思われておられます。神様の愛を受けたクリスチャンこそ、人をあわれみ、愛することができる者ではないか、というのです。元の尊い姿に回復する助けをすることが、クリスチャンの使命だということです。
 「愛する者たち、私たちは互いに愛し合いましょう。」と言う時、互いに仲良く付き合おうという意味ではありません。必ず自分が何か犠牲を払い、損害を受けながらも、信仰の兄弟を幸いにさせ、有益にならせようという意味が入っています。クリスチャンは、互いに愛することができるようになったと言っているのです。聖書は、神様に属する者となったために、クリスチャンは人を祝福し、愛することができる資格があると言っているのです。
 ところが、私たちは自分には、そんな資格もない、愛そうとしてもその土台がないと思っています。決してそうではありません。私たちは神様の愛の通路に過ぎず、すべては神様から来るからです。自分の力で人を受け止め、愛せよと命じられているのではなく、神様ができるようにしてくださるのです。他の人をあるがままに見てあげることが愛の始まりであり、自分が何かできることで人にしてあげることが、尊い愛となります。

U−愛する者の特徴−7-8,10
 「愛する者たち」とは、神様から生まれた者、すなわち生まれ変わった者ということです。7節。イエス様を信じて神の民となった者たちの特徴は、人の価値を知ることです。人は神に似せて造られている尊い存在だということです。そうであるなら、どんな人も、可能性があります。その人は、自分の可能性を知らないために、汚れた貪欲の自己中心の中で生きているだけなのです。神様の愛で造り変えられるなら、新しい人となります。神様の恵みは、獣のような人を天使のように変える力があります。
 神様は、人を救うために、最も大切な御子を犠牲にされました。ですから、神様の御前に評価されるのは、どれほど成長したとか成功したかではなく、どれほど犠牲になったかを評価の基準として仕えるのです。イエス様がなぜ最も素晴しいと賞賛されるのでしょう。それは、ご自分の尊い身分を棄てて、ご自分を犠牲にされ、このように低くなられた方が他にいないからです。
 そして、大事なことは、人を愛する時、それは自分からではなく、すべて神様から来るということです。その愛する心も、その努力もすべて神様から供給されます。ですから、愛そうとすればするほど豊かにされます。私たちは、自分が人を祝福できる機会がいつもあるわけではありません。できる時しなければ、機会は失われます。私たちは、人を助けるなら、自分ももっと豊かにされます。神様は豊かに御力を注いでくださいます。それは、私たちの犠牲という通路を通してです。
 さらに、この愛は先にあることが重要です。10節。私たちのほうが先に神を愛したのはなく、神様が先に私たちを愛してくださったと強調されています。ですから、救われて生まれ変わった人は、神様に似た者となるのですから、先に相手を愛するということが特徴となります。神様は、私たちが愛される資格がないにもかかわらず愛してくださいました。私たちが人を愛する時も、愛するに値するからではありません。肉の愛は、先に愛してくれれば、願い通りにしてくれれば、愛するのにということです。あやまる時も、先にさがして言葉かけ、許しを求めるようになります。私たちが愛することに失敗するのは、信仰の量が足りないためです。何事も、「信仰の量りに応じて」すべきです。ローマ12:3。信仰の量り以上にすると、不満や批判が生じて来るでしょう。

V−愛の方法−
 神様が私たちを愛してくださったということを愛の手本として、私たちは愛するべきだと言っています。11節。では、神様はどのように私たちを愛してくださったのでしょうか。神様は私たちを生かすために愛してくださいました。9節。私たちに新しい命を与えて、私たちを生かすことが神様の愛の目標です。罪のために死んだような私たちを、イエス様を通して新しい命に生きる存在としてくださいました。エペソ2:4-5。神様は、その目標のために、ご自分の御子を身代わりとして犠牲として世に送られたという方法をとられたのです。10節。私たちが他の人に究極的に願うことは、私たちに起こったこの驚くべき同じ神様の恵みが、彼らにも臨むことです。つまり、その彼らもイエス様を信じて救われることです。
 人は、自分に対してくれる態度を通して自分を量るものです。人が自分を愛してくれて、大事にくれるなら、自分を評価してみるようになるものです。私たちは、人に対する時、自分の気分や欲心で対してなりません。真実に対することが重要です。愛されず否定された人は、心が荒く、反抗的で、攻撃をして来ます。しかし、真実に自分を認めて信じてくれる人が世に一人でもいるなら、素直に生きる力が出てきます。
 私たちがクリスチャンとなる時、神様は私たちに新しい命を与えてくださいました。私たちが人を愛する時、助けるための具体的な計画を持つようになります。それぞれ置かれている立場や持っている技能を通して助けるようになり、また必要な技能を身につけるようにして行きます。
 互いに愛するために必要なことがあります。一つは、私たちが生まれ変わった者だということです。真実に生まれ変わった者でないなら、人を哀れに思ったり、同情したりできるでしょうか。本来のその人の価値を知ることができるでしょうか。御霊によって、他のたましいに関心を持ち、人の痛みに関心を持つのです。私たちは、自分が生まれ変わった者かどうか、点検してみる必要があります。
 二つめは、教会が生きなければならないということです。人にこのような使命があったとしても、教会が病気であるなら、力を失います。私たちの必要な力は、信仰の友との交わりからも与えられるからです。教会で御言葉を供給されないなら、人を愛し、助けることが長く保てません。教会は、いつも生きていて、聖霊に満たされていなければなりません。
 三つ目は、主に祈ることです。私たちは、人の必要が本当は何であるかわかりません。神様に祈るなら教えてくださいます。人を愛する力を注いでくださいます。イエス様も父なる神様から力を得ておられ、そのために祈られていました。求めるなら与えられると約束されています。マタイ7:7-8。この働きにはサタンの攻撃があります。祈らなければ倒されます。自分の力でやろうとしたら失敗します。私たちができることは、神様に愛された者として、イエス様の犠牲によって救われた者として、神様の愛と恵みに押し出されて、人を助け、愛し、救いに導くことです。主の御胸の中で安息するまでこの道を走って行くのです。ピリピ2:17, 使徒20:24



Tヨハネ
4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。


ローマ12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

ヨハネ13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

エペソ2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──

マタイ7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

ピリピ2:17 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

使徒20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
ピリピ3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

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