2013年1月20日「全く愛は恐れを締め出します」Tヨハネ4:17-21

序−当時グノーシス主義と言われた混合宗教の影響を受けた人々は、頭だけの信仰生活をしようという特徴がありました。しかし、信仰は、実際の生活の中で実践されるものです。御言葉を学び、神様の愛を体験することで終わるものではありません。それを教えているのが、今日の箇所です。

T−愛が完全なものとなる?−17
 まず、「愛が私たちのうちにおいても完全なものとなります」というのは、どういうことでしょう。17節。神様から始まった愛が、それを受けた者を通して他の人に伝わって行くことを言います。一人から出た愛が他の人の反応を引き起こし、愛の実を結ぶことを言います。神様の愛は私たちを愛することで終わりではありません。神様が私たちに願うことは、私たちから始まって何かがなされていくことです。これが、神様が私たちを愛される目的です。
 愛という言葉は誤解され、独り歩きしています。私たちが、普通愛するという時、相手を好む感情を持つことを考えるでしょう。相手が自分に良い感情でもって気分をよくしてくれるのを愛と思うようです。これは、自分のための愛と言えるでしょう。神様の愛は、罪に滅んで行く私たちをイエス様の十字架のゆえに、神の子どもとして回復してくださった愛です。神様が私を好きだからではなく、神様から好まれる資質も私にはなく、反抗し、失望させる私を忍耐して、哀れんで救ってくださったのです。この愛を受けた私たちも、他の人に対して好き嫌いではなく、相手を受け止め、何かを実践して行くのです。これが、愛です。
 神様が私たちにされたように、私たちもこの世で他の人に愛を実践する時、神様の愛が全きものとなるということです。ですから、神様の大きな愛を受けていることをしっかり考えなければなりません。まず、私たちは大きな神様の愛を受けているので、自分の幸福ばかり考えていてはならないということです。これからは、人の幸福を願う者になるということです。罪に陥っている人が罪から出て正しい道に行けるように、自分の価値を失ってさまよっている人が自分の価値を取り戻せるように、そうしてあげることが私たちにとって重要です。これは、クリスマスにいただいたメッセージでもあります。
 もちろん、私たちも幸いを求める権利はあります。人の幸福を願って生きて、誰が自分を幸福にしてくれるのだろうか、心配するでしょう。しかし、私たちが人の幸福をもとめて労苦するなら、神様が私たちの幸福のために労苦してくださいます。ですから、クリスチャンは、あんまり自分の幸福のために心配するのはよくないと主は言われました。マタイ6:31-34。
 では、どのように助けることができるのでしょう。私たちの周りに助けを必要としている人々が多くいます。自分に助けることができるでしょうか。このことについて、私たちは神様の導きを信じるのです。神様は私たちに多くのことをしろとは言われません。神様が私たちに要求されるのは、とても小さいことです。神様のくださる恵みはとても大きいのですが、私たちが人々と分かち合えるものは小さいものにすぎません。それは、私たちの器が小さいためです。しかし、神様はその小さい働きを大きいことに使われます。まさに五千人の給食の奇跡のように用いてくださいます。

U−愛の祝福−17-18
 私たちが神様の恵みを受けて人を助けて、仕えて生きる時、神様が私たちに与えてくださる幸いについて教えておられます。17節。一つは、人を助けて愛を多くなした人は、裁きの日に対して恐れることはないということです。私たちが、世において主の愛で人を愛するなら、裁きの日を恐れることはありません。人がやがて審判台の前に立つ時が来ます。イエス様がそれについて言われたことがあります。マタイ7:21-23。「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る」ということをしっかり心に覚えておかなければなりません。自分のためにしたことは、考慮にされていません。しかし、人に愛を多くなした人は、裁きの前に全く恐れることはないというのです。
 自分の欲心で生きると、死はより恐ろしいものです。しかし、人を助け愛して生きる人は、死をひどく恐れたり、さびしく思ったりする必要はありません。それは、自分の死を一緒に思ってくれる人がおり、自分が死んでもその愛はなくならないからです。痛みを負いながら人生をさまよっている人々を主に導いてあげたり、落胆して自分の価値を失っている人が主にある価値観を回復するようにしてあげたりすることは大切な働きです。そのように人を愛することがとても重要です。クリスチャンが体で人に仕える時天使の体に変わり、御霊の力が注がれます。
 二つめは、愛には不安や心配がないということです。18節。私たちが人生で恐れることは、間違った選択をしないか、ということです。未来を知ることはできません。最も良い道だと選択した道が、とんでもない方向へ行ってしまうこともあります。私たちは、様々なことについて心配し、恐れます。しかし、「愛には恐れがありません。」私たちの前には多くの選択肢があります。その中から、神様を愛し、人々を愛する心で選択すれば、誤ることはありません。私たちには、色々な不安があるでしょう。しかし、神様が心配してくださり、責任を取ってくださいます。Tペテロ5:7,詩篇55:22。私たちが判断する基準は、このことを自分の欲心でするのか、主を愛し他の人を愛する心でするのか、ということです。
 信仰生活で重要なことは、多くのことを学んだり、幸いを多くを受けたりすることではなく、一つを学んだら、一つを実践するということです。一つずつ実践するならば、神様の奇跡があらわれ、祈りの答えも出て来るからです。信仰生活での自信も出て来るでしょう。不確実の時代であっても、神様を知るために、大胆に出て行くことができます。今日も、ヨハネの時代のように不安定であり、信仰が頭の中でとどまり、実践されないことで弊害が起きています。信仰をもって取り組んでみる経験も必要です。
 「恐れる者」とは、真理を学ぶけれども、恐れて実践しない人です。行動しないで考えるばかりでは、生活に力がなくなり、心配と悩みが増すばかりとなります。しかし、愛の動機で行っていく者は、神様の導きを感じながら、生きることになります。完璧にしようとすれば、前進しません。神様は、完璧さを要求されません。私たちができることで何かするなら、神様は喜んで祝福してくださいます。もし、私たちが他の人を愛さないなら、私たちが病気になります。自分のことばかり心配していたら、心配はなくなりません。私たちの生きる道は、絶えず人のことも考えて、仕え助けて、愛して生きていくことです。

V−憎むのでなく愛すること−19-21
 愛は神様から始まり、私たちはその通り道です。19-20節。私たちは、神様から憎しみをいただいたのでしょうか。私たちが神様の愛をしっかり受けて人々に対して行くなら、憎しみは少なくなります。愛は好き嫌いの感情ではなく、神様から受けたことを人に出すことです。神様の愛で人に仕え、人を助けて行くのです。感情は後から付いて来ます。
 20節では、目に見えない神をどのようにして愛することができるのか、と言っています。目に見える兄弟を愛することを通してというのです。私たちの信仰が現れるのは、兄弟姉妹を助け、仕えることで確認されるのです。私たちが神様を愛して、神様に会おうとするなら、飲み物をさしあげるのでしょうか。私たちの助けを必要として人々にしてあげるなら、神様にしてあげることになります。イエス様は、譬え話の中で「兄弟たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と言われました。マタイ25:40。
 ですから、「神様を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者」となります。目に見える兄弟を憎むなら、その人の受けた恵みは偽りだというのです。神様の愛は、認識の変化をもたらします。私も同じ罪人だという思いが生じます。御子を十字架に渡された神様の愛を知ると、一人の存在の大切さが分かって来ます。よくしてくれれば認めるけど、お利口になれば愛してあげるけど、と言っているのは愛ではありません。どのようにしてあげれば人が幸いに生きられるだろうか、と考え行動することが愛です。人を愛し、助けるためには、体を動かすことも知識や技能も必要です。そのために経験を積み、勉強することになります。
 私たちは、争い憎む者との間に壁を築いたり、交わりを絶ったりします。しかし、私たちは、そんな人々と違わないのに、神様に愛され救われた者です。それで御前に謙遜になるなら、人を否定したり、憎んだりすることはできません。人は虚勢を張るものです。しかし、神様の愛を受けた人は、その必要はありません。自分を主張する必要もありません。神様が自分を認め、大切にしてくださるからです。イザヤ43:4。
 神様を信じていますか。イエス様の十字架によって救われていますか。そうであるなら、人を受け止め、人を助け、人に仕えなさいと命令されるのです。21節。私たちは、他のたましいについての責任を負っているのです。私たちは、この命令に従うだけです。愛は後で発生して来ます。頭だけで信仰する者は、結局尊い神様の愛を失ってしまいます。秘訣は、小さいことで実践してみることです。後には大きいことを成し遂げるようになります。ルカ16:10。小さな愛を流して、大きな祝福を受ける者となれます。

 

Tヨハネ
4:17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
4:21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。


マタイ7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

Tペテロ5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

マタイ25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

ルカ16:10 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

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