2013年1月27日「新しい人生を生きる」Tヨハネ5:1-5

序−イエス様を救い主として信じるとは、どういうことなのか、クリスチャンとは、どういう生き方をするのか、この箇所は、私たちに重要なことを教えています。私たちがイエス様を信じた後、世での生活の適用がよくできなかったり、自信を失ったりするようになるのではなく、勝利の人生を送れるように学びます。

T−新しい人−1
 人を人とならせるのは教育だと言われます。人は教育だけで作られるのではありません。神様によって新しく生まれなければならない、と言っています。1節。神様から生まれた者とは、神様の御言葉を信じることによって、そうなった人のことです。普通、子どもは親に似たものを受け継いで生まれます。そうならば、「神様によって生まれた者」も、神様に似た性質を受けていると言えます。信じて救われた人も、神様の作品として新しい人として造り変えられ、新しい人になるということです。
 私たちは、救われる前は、世を造られた神様がどういうお方か知りませんでした。ただ、目に見える世だけを見て生きていました。どうやって世に生き残って行くのか考えながらも、世に流されるままに生きるほかありませんでした。しかし、神様に出会ってからは、この世も神様の創造のもとにあり、神様が私たちとこの世を造られた目的があることを知るようになります。これは、大変なことです。イエス様を信じて終わりではありません。信じた者の中には、神様の御心と性質と御力が入るようになります。それは、以前の人とは大きく違うようになるので、「新しく生まれた」と言っているのです。Uコリント5:17。私たちは、新しく生まれた者として生きているでしょうか。大事なのは、新しく創造されることです。ガラテヤ6:15。
 では、私たちがどのようにして、新しく生まれるのでしょうか。聖書が教えている条件は、「イエスがキリストであると信じる者」ということだけです。神様の御子イエス様が自分のために十字架にかかって死なれたということを信じて、驚くべき変化がはじまったのです。私たちがすることは、他に何もありません。「神の御子イエス様が自分の救い主だ」と信じるだけです。そうにさせてくださるのも、神様の御力です。神様が要求されたことも、一つだけです。私たちが神様の御前で自分はどうすることもできない罪人だと認めることです。そして、謙遜になることです。罪人だと認めなければ、救いを求めることもしないし、謙遜でなければ、新しい人として造られません。
 それでは、私たちは、イエス様を信じてどのようになるのでしょうか。私たちの外なる人はそのままですが、私たちのすべての罪が赦されて、神の子とされる新しい身分を受けます。過去の罪とは関係なく、新しい人生を生きることができるようにしてくださったのです。私たちの内なる人は、イエス様に似た者となって行くのです。神様がどのように考えられるかを考えるようになり、神様が喜ばれないことは喜べないようになるのです。ただ、造り変えの途中にあっては、残っている肉の性質と御霊の性質が戦うことになります。Tコリント3:1-3。
 イエス様を信じることによって私たちには、過去が清算されて、新しい人生が始まるのですが、気質や考えは、むしろ葛藤が生じるようになります。それも、祈ることで神様からの御力と祝福を受けるようになります。世の人々とは、価値観や考えが違って来ます。そのため、人々から憎しみや反発を受けるようになるでしょう。損をすることもあるでしょう。しかし、神様の下さる恵みと力で生きて行くようになるのです。

U−神様の民の特徴−2-3
 人は誰しも、自分の思うままの人生を生きたいと思っています。私たちは、この世で神様の民として生きるように造られました。イエス様が私の罪と滅びのために死んでくださったことにより、神の民となるようにしてくださいました。2節。私たちが神様から学ぶ重要な言葉の一つは、愛です。私たちが知っていた愛とは、自己中心の愛で、自分の好き嫌いの感情、よくしてあげるからよくしてくれという損得感情でした。重要なことは、神様が私を愛してくださったということです。その愛は、ご自分の御子を十字架の死に渡されるほどでした。イエス様を信じた者は、それゆえに自分自身の自尊心を回復するようになります。
 人は、この神様の愛を知らないために、欲心に振り回されて人を傷つけ、憎み合い、自分を否定してしまいます。神様の愛で人を見るならば、違って見えて来ます。神様の御前には私もこの人も同じ罪人だ、この人のためにもイエス様が十字架で死んでくださった大切な存在だ、というように見えて来るのです。人は、このことを知らないので、互いに争い、否定し合うのです。空しいものを追求して生きるのです。
 クリスチャンが世を生きて行くのに最も大切ことは、現実生活において、人生を豊かに生きて行くことです。と言っても、成功体験とかということではありません。かえって人々が、世での成功を目指して争い、妬み合う姿に心の痛みを覚えなければなりません。私たちが世の人々と違う点は、生きておられる神様を信じていることです。人が生きておられる神様を否定する時は、黙っていてはいけません。「神様はおられます。あなたを愛しておられます。イエス様の救いによって、新しい命と人生を与えてくださいます。イエス様があなたの身代わりに十字架で死ぬことによって救いを用意してくださいました。」と明らかに言わなければなりません。
 私たちがこの世で信仰生活をするためには、三つのことをしなければなりません。2-3節。一つは神様を愛することです。神様に愛された者たちは、集まらなければなりません。神様がその中におられ、私たちを互いに信仰を整えるようにされるからです。二つ目は、神様が臨まれる集まりになるためには、必ず神様の御言葉がなければなりません。御言葉を守る者たちの中に神様の祝福が臨みます。そして、三つ目に、集まる神の民が互いに愛さなければならないということです。そのようなところに、神様の祝福と奇跡が臨みます。
 神様の命令を守るとは、何でしょうか。どんなことでも、自分の肉の思いのままするのでなく、神様の御心を求め、御言葉に従ってすることです。すでに、自分の欲望、利己心、怒り、憎しみといったものは、イエス様の十字架とともにかけられました。ガラテヤ2:20,5:24。

V−世に勝つ者−4-5
 私たちは、神様の言葉を守って、古い人を十字架につけて生きるなら、世の中で消極的に生きるのではないかと思うかもしれません。しかし、決して消極的に生きるようになるのではありません。4-5節。勝利の人生です。私たちは、世にあって最善を尽くして生活をしなければなりません。学校でも職場でも、家庭でも最善を尽くします。世で最も偉大な働きをするのは、イエス様を信じる人々だということを記憶しなければなりません。なぜならば、神の民は人々を滅びから救いへ導き、のろいを祝福に変える働きをするからです。自分のためにも世の人々のためにも、熱心に集まって、礼拝をささげ、世で証ししなければなりません。
 世は腐敗と罪で翻弄され、悲惨な滅びに向かって行くのですが、クリスチャンは世で塩と光の役割を果たさせられています。マタイ5:13。クリスチャンといえども、誘惑には弱く、罪の性質は残っています。しかし、内住する聖霊によって罪の誘惑から守られ、主の御心をなすように導かれます。御霊の満たしがなければ、人を傷つけ、罪に陥ってしまいます。
 現代社会は、政治も経済も人の心も混乱し、荒れ果てています。社会はどうなるのか、人の生活はどうすればいいのか。その答えは、神様を信じる人々にあります。救われて新しい人として生まれた者が備えられて、世を導いて行くのです。信じて生まれ変わった者には、霊的分別力があります。戸惑っている多くの人々が、間違った情報に流され、サタンの誘惑に振り回されています。しかし、クリスチャンは、変わることのない真実な生き方、神様に守られ、導かれる道を示すことができます。
 世に多くの混乱と傷みと悲惨があるのは、御言葉がないからです。このような世で人々の心をおおう思いは、疑いと否定、不安と恐れです。疑いの目で見て、否定的な思いで考えるなら、すべてを疑いすべてを否定的に受け止めてしまいます。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」と言っています。イエスを神の御子と信じる者は、神様の御力で生きる者です。
 私たちは、神から生まれた者だという自尊心を持ち、世のものを恐れてはなりません。イエス様が世にある時、苦難、誤解、非難、嘲りを受けられても、凛とされておられた姿に倣いましょう。イエス様が十字架の死から復活され、死と滅びに勝利されました。ヨハネ16:33。イエス様が世に勝ったので、私たちも勝利しているのです。ローマ8:37。イエス様の十字架を通して私たちは神様の愛を受けました。この愛で人を受け止め、助け、仕えて行くのです。そのような者こそが、世に勝つ者です。


Tヨハネ
5:1 イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
5:2 私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
5:3 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
5:4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。



Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ガラテヤ6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

ガラテヤ5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

ローマ8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

戻る