2013年2月3日「イエス・キリストの証しのゆえに」Tヨハネ5:6-13

序−私たちの信仰の基礎はどこにあるのでしょうか。どこにあれば、満たされて落ち着いた信仰生活をすることができるのでしょうか。初代教会の時、信じたばかりの人々の証しによってしだいに福音が広がって行きました。それは、イエス様についての証しでした。

T−イエス・キリストの三重の証し−6-8
 使徒ヨハネは、イエス様について言うとき、「水と血とによって来られた方」と言っています。6-8節。水と血でもってイエス様を証ししているということです。さらには、御霊もあわせて三つがイエス様を証ししていると言います。イエス・キリストの証しのゆえに、聖書は書かれています。黙示録1:2,9。このように表現されていることは、初代教会時代の人々は、これがどんな意味かよく分かっていたということです。
 「水」とは、洗礼のことです。バプテスマのヨハネによる悔い改めのバプテスマを施されていた時、イエス様が来られて水による洗礼を受けています。マタイ3:11,16。水は、罪からの聖めを象徴しています。キリスト教で大事なことは、自分の罪を神様の御前に告白し、罪の赦しを受けて、洗礼を受けることです。新しい創造の始まりだと学びました。
 そして、「血」とは、命の象徴です。申命記12:23。人となって来られた神の御子イエス様が、私たちの身代わりに十字架に死なれ、血を流されました。イエス様がご自分の命を犠牲にされたことを血の贖いと言います。エペソ1:7。血によって私たちの命を救ってくださいました。神の御子が人となって世に来られ、私たちの救いを成し遂げてくださったことが、「水と血によって来られた方」と強調しているのです。
 私たちの救いにとってイエス様の十字架より力あることはありません。ですから、「血」は重要な鍵です。聖徒たちの集りで聖餐式が行われるのは、そのためです。イエス様を通して自分が大切な存在であることを知るようになり、神様の祝福の豊かさを知るようになります。このように救われた後、真理を教えて、たましいを養い、守ってくださるのが、聖霊、主の御霊です。聖霊が私たちのうちに注がれ、宿り、住んでいてくださいます。ヨハネ14:16-17。聖霊は、私たちの信仰が固く立つようにしてくださいます。
 聖霊は、私たちが神様の御言葉を聞く時、悟るように内的な働きをします。たとえば、説教がされる時、説教者の口だけで御言葉が証しされるわけではありません。聖霊が私たちの心中でともに証ししてくださるのです。ローマ8:26-27。その時、心に御言葉を受け入れながら、その真理に対する確信を持つようになるのです。私たちは、繰り返し真理を聞き、確信する必要があります。私たち自身の主観的な確信は、一時的なものです。私たちの感情と感じ方が変われば、主観的な信仰も変わってしまうものです。
 自分の弱さを知るならば、聖霊の助けを求め、兄弟姉妹に祈りを頼むことができます。神様に声を出して祈るようになります。そうすれば、一人で悩んでいた時には、不可能に思えた困難も、祈りの後には以外にも克服されるようになるのです。このように三つの証しによって、イエス様による救いが明確に語られています。ここに私たちの信仰の基盤があります。

U−人の証しと神様の証し−9-10
 なぜ、そのような証しの基本を取り上げているのでしょうか。使徒ヨハネがこの手紙を書いた時の教会の事情は、どうだったのでしょうか。9-10節。人々が、人の言葉、すなわち人の体験談や証しばかり好んで聞いていたようです。それは、どこまで真実かどこが脚色されているのか分かりませんが、興味を持ち、関心を引くことも多かったようです。現代で言えば、クリスチャンの集りで、御言葉を聞くより、社会の話題や個人の噂話を聞くのを好むようなものです。
 当時このような傾向がかなりあったようです。それで、多くの人の信仰が、人の言葉によって揺さぶられていました。彼らの信仰の基盤とするところはあいまいとなり、罪の赦しと天国への命が与えられている事実さえ、確信できなくなったのです。ここで、「人間のあかし」と「神のあかし」を比べているのは、そのためです。「神の証し」が御子イエス・キリストに関する証しであり、「人の証し」が人の様々な体験談ということです。
 私たちは、時々具体的な信仰生活の体験を聞く必要があります。なぜなら、信仰は必ず具体的な人生の生活を通してあらわれるものだからです。私たちは、信仰の生涯の証しを聞いて、励ましや慰めを大いに受けます。人の証しを通して、それまで悟ることのできなかったことを悟ったり、信仰の知恵が与えられたりします。セルなどで、私たちは信仰の体験を分かち合っています。分かち合いを聞いて、感動を受けたり、御言葉の適用を理解したりしています。
 しかし、それが御言葉に変わるものとなったり、御言葉から離れた話となったりする場合、どうなるのでしょう。ある人の信仰は、何かことがある時、御言葉を考えることなく、人の言ったことだけ考えて騒いでしまいます。また、証しの多いことを自慢したり、少ないことを卑下します。当時はまだ新約聖書が完結されていない時代で、手紙や口伝状態で伝えられていました。そして、人々は、イエス様についての証しを聞くことより、人の具体的な体験談を聞くことを好んだのです。御言葉の講解より、事件や体験を盛り込まれた話しを好んだのです。
 そのような問題のために、この箇所が書かれました。人の信仰の証しも有益だけれども、御子イエス様についての証し、すなわち御言葉の方がはるかに重要だと言っているのです。人の証しに心奪われるのではなく、神様の御言葉の上に信仰の基礎を据えなさいと言うのです。あくまでも、人の証しはその人の個人的体験であって、一般化できるものではありません。神様の恵みは広くあらわれ、信仰の実も多様なはずです。
 重要なのは、人の体験ではありません。自分がどこでどんな御言葉で主に出会ったか、その御言葉でどのように変えられたのか、ということが大事なのです。派手な人の言葉や体験に心を置くのではなく、神様がくださる御言葉に信仰の基礎を置きなさいというのです。人の証しと神の証しの間には明らかな違いがあります。人の証しは感動を与えてくれるけれども、神の証しは人の心に何らかの証しを残してくれます。10節。イエス様についての証しは、必ずある霊的変化を心の中に残してくれるのです。神の御子についての証しには力があります。信じた者の心に変化が生じます。
 私たちは、福音を伝える時、不安があるかもしれません。私は信じているけれども、人は信じてくれるだろうか、ということです。救い主イエス様に関する証しは、人の体験話とは違います。そこには、必ず聖霊が一緒に働いてくださいます。御霊が話させてくださいます。ルカ12:11-12。その時、ある人は反発するでしょう。イエス様に関する証しを拒否するものは、神様を偽りものとしています。私たちは、証しするだけです。
 クリスチャンの証しは、私たちの人生を豊かにしてくれます。しかし、どんなに敬虔な人だとしても、その敬虔の上に私たちの信仰を立てることはできません。信仰の適用を教えてくれることは感謝です。

V−キリストの与える豊かな命−11-13
 神様の御言葉は、私たちの人生を根本的に変えてくれます。11-12節。これから春を迎えると種の中から植物の命が芽生えます。そのように、御言葉の中に命があります。イエス様による救いの証しを信じた者は、新しい命を得ています。新しい命に生きていますか。それは、世での確かな人生を導いてくれます。イエス様が世に来られたのは、私たちに豊かな人生を与えるためです。ヨハネ10:10。豊かな人生は、御言葉が与えてくれる救いの確信から得ることができます。イエス様に関する証しを信じた人には、計り知れない祝福が用意されています。Uコリント4:7。
 イエス様の十字架は、私たちに何を与えてくださいましたか。神様は私たちの罪を赦し、私たちを受け入れてくださいました。御子を十字架に渡されるほど私たちを愛してくださいました。私たちは、この世で神様の御力で生きることができます。心配や不安をかかえてではなく、豊かな人生を生きることができるようにされました。マタイ6:33-34。
 今日、人々は多くのものを持っていながら、使うことができません。自分に与えてくださり、自分を生かしてくださる神様を知らないからです。どんなに高い地位にあっても、何をしなければならないかが分からなければ、役に立ちません。お金がどんなに多くあっても、どのように使うかが分からなければ、ないも同然です。それでは、豊かな人生を生きることはできません。私たちが、イエス様の証しを信じて救われたなら、自分が大切な存在であることと知り、他の人を大切に思い、すべてのことを価値あるように用いることができるようになります。
 これが豊かな人生であり、人生の満足を与えてくれます。13節。使徒ヨハネは、イエス様を信じている私たちが「永遠のいのちを持っている」と強調しています。神様から無限の力が供給され、神様の祝福と恵みの中で生きることができるということです。イエス様のあかしを聞いて救われた私たちは、力ある豊かな人生を生きることができるのです。ヨハネ5:24。今私たちは、この世に「神のことばとイエスのあかしとのゆえに」世に置かれています。イエス様の救いの証しを聞いて救われた私たちは、このイエス様の救いを証しをしないではいられません。黙示録1:2,9。



Tヨハネ
5:6 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
5:7 あかしするものが三つあります。
5:8 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
5:9 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
5:10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。


黙示録1:2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

ヨハネ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

ルカ12:11 また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。
12:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。

ヨハネ10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

Uコリント4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

ヨハネ5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

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