2013年2月10日「私たちの確信」Tヨハネ5:14-21

序−クリスチャンは、もっと確信をもって生きて行くことができます。クリスチャンは、世的に見れば、不安定で弱い人のように見られますが、私たちは神様とつながっているのです。この書を読む人々が、「永遠のいのちを持っていることをよくわからせるため」と言っていました。13節。この命は、神様につながっている命だということです。神様にある命は、神様の御心を悟って、大胆に祈ることができる信仰です。

T−神様の祈りの応答を得る者−14-15
 私たちに重要なことは、私たちが神様の御心に沿う祈りをすれば、神様が必ず応えてくださると確信を持つことができることです。14-15節。私たちは神様の子どもとされました。神様が子どもの祈りを聞いてくれないということがあるでしょうか。ただ、私たちの祈りの大部分は、神様の御心を知らないで勝手にささげているのです。神様は、私たちの祈りについて、最もよい方法で応えてくださいます。応えてくれないのではなく、私たちの時間や思いと違うだけなのです。ですから、神様が自分のささげる祈りに応えてくださるという確信をもって、祈ってみてください。そうしたら、神様が驚くべき応答をされるのを発見するでしょう。
 重要なことは、神様の御心に合った祈りをささげるとき、神様は応えてくださるということです。神様の御心と合わないならば、その答えを待つ時間を通して、私たちを神様の御心に近づくよう導かれます。その過程で自分の肉の思いを棄て、ただ神様の御心だけつかんで祈るなら、神様の応えがあらわれます。Tヨハネ3:21-22。祈りの答えがない時、落胆しないでください。聞かれないのではなく、神様の時が来れば、必ずなされます。
 私たちが祈らなければならないことの重要な一つは、祈れば神様が働いてくださるということです。神様の恵みの回復です。私たちの祈りの要請に対して、神様が事を起こしてくださるのです。その時、神様の用意された祝福が聖徒たちに注がれます。恵みとあわれみを受けるために、大胆に祈らなければなりません。ヘブル4:16。永遠のいのちを持っている者の姿勢は、まだ暗闇と滅びにとらわれの身になっている者に真理が注がれるように大胆に祈ることです。神様が喜んでくださいます。とりわけたましいのために御言葉の働きにあたる者のために、大胆に祈らなければなりません。エペソ6:20。たましいの救霊に関心をもって、たましいの収穫のために祈ります。教会が存在するのは、地域のたましいの収穫のためです。そのために祈れば、教会が生きます。イエス様にあって救われた者は、大胆に確信をもって祈り求めるのです。ヘブル10:19。
 神様は、どんな方ですか。その御心に従って祈るなら、必ず応えてくださる方です。神様の御心を知って、大胆に神様の御前に出て行くことです。15節に何と書いてありますか。「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」祈りは、自分の思いを神様の御心に合わせることです。自分の思いが神様の御心に合うまで、祈りの応えを待つことになります。
 祈りは、私たちに大胆さをもって最後まで執拗に祈れといいます。マタイ7:7。これが神様の御心だという確信が持てるまで、しつこく祈るならば、応えてくださいます。終わりまで諦めないで、大胆に祈る者は、神様の御業を見ることになります。私たちは、祈りたくない時や祈りに対する確信がなくて、神様の臨在を感じることのできない時にも、祈らなければなりません。私たちが祈るならば、もう神様は何かをし始められるからです。

U−とりなし祈る者−16-17
 神の御子を信じている者は、「永遠のいのちを持っている」のに、こんな素晴しい恩恵を受けているのに、このいのちに生きてない者が大勢います。肉の人となって、世に流され、罪のままにいるのです。永遠のいのちに生きる者は、そのような者のために、とりなしの祈りをするように命じられています。16-17節。主のしもべである私たちは、主の命令を熱心に行います。兄弟姉妹のために祈ることは、兄姉を愛することになります。
 「死に至らない罪」とは、何でしょう。私たちは、どんな罪であろうと、犯せば一時的にいのちの供給は遮断されます。しかし、悔い改めれば、どんな罪も赦されて再び神様のいのちの恵みが供給されます。それなのに、悔い改めないことが多いのです。それは、神様の恵みから出てしまうことです。イエス様の救いを否定して、神様の御業を否定することになります。それゆえ、神様のいのちを供給されなくなってしまいます。ですから、そういう人々のために祈らなければなりません。
 ペテロは、イエス様を知らないと三度否定しました。イエス様は、それを死にいたる罪に陥ったとはご覧になりませんでした。そして、ペテロのために祈ってくださいました。ルカ22:32。ペテロは悔い改めて、素晴しい主のしもべとして用いられるようになりました。自分の周りに、自分を悩まし、自分の心を痛める者がいて、憎んで敵対したら、失敗します。その人のために大胆に祈らなければなりません。それまで、悩みや苦しみのために大胆に祈ることがなかったことを知るようになります。
 私たちは、神様のいのちを供給されているので、神様の民として生きることができます。永遠のいのちは、自分のことに埋没するのでなく、他の聖徒が健康な信仰生活が送れるように助け、励ますことが求められます。神様の御心を求めて、従順に生きることができるのです。

V−クリスチャンの確信−18-21
 最後の箇所に三度、「知っています」という表現が出て来ます。18-20節。「知っている」とは、クリスチャンが必ず知らなければならない最も重要な真理であって、決して失ってはならないということを強調しています。クリスチャンは、この三つの確信を持っていなければなりません。
 一つ目、クリスチャンは、「罪の中にいない」ということです。「罪を犯さない」の直訳は、「罪を犯し続けない」ということであり、「継続的に罪の中にいることはない」ということです。まったく罪の誘惑に陥ることなく、悪い考えをしないということではありません。主の祈りでも、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」と祈らせています。マタイ6:13。罪の中に居続けない!という確信が大事です。
 神様の子どもとされた者は、失敗や誘惑に陥ることがあっても、そこに居続けない者だということです。罪の生活を続けることができないのです。主が守ってくださるからです。悪いものが私たちをそそのかすことはできても、罪の奴隷にならせることはできません。弱くて倒れることはあっても、罪を好まないためです。ずっと罪の中にいるなら、それは「神から生まれた者」ではないということです。Tヨハネ3:9。イエス様を信じて新しく生まれたなら、御霊が働いているはずです。私たちは完全ではなく失敗するけれども、悔い改めるならば、神様は治療して、回復してくださいます。
 二つ目、私たちが神様に属している事実です。19節。クリスチャンは、この世に生きていますが、所属が違います。神様の子どもとされています。人々と同じような状況だとしても、その中身や意味は全然違って来ます。イエス様にあって必ず守られます。ローマ8:35,39。クリスチャンは患難にあっても、その体験を通して恵みを受けます。
 私たちは、世の中で生きてはいますが、別ものだという事を現していません。時には、クリスチャンであることを隠そうとします。表すことで不便を思うのか、敵対されないようになのか、いろいろあるでしょう。しかし、私たちは、クリスチャンであることを現すのは、世の人々のためにも、しなければなりません。世の人々が私たちの助けを必要としており、イエス様に出会うようになるからです。マタイ5:13-14。
 三つ目、私たちが神様を知っているという事実です。20節。重要なことは、真実な神様を知ることができたということです。真実な神様を知ると、世のすべてのことが、謎が解けるように見えて来ます。自分が誰であるか、何のために生きなければならないか、分らなかったのに、神様を知った時から、その意味を悟るようになるのです。サタンの策略も知るようになります。人は確信がないために疑い迷いますが、クリスチャンは神様が悟らせ、導いてくださるので、確信を持って生きることができます。
 21節の偶像とは何でしょう。それは、いのちのないものです。そんな偶像によって、人は、自分で考えない者、判断できない者、盲目的な者にされます。しかし、永遠のいのちを持っている神の民は、自覚を持つ者であり、健全な価値判断を持っている人です。最も偉大なことは、神様を知っていることです。御言葉を聞き、御言葉を黙想しましょう。
 この書は、他の手紙のような祝福と問安の代わりに、確信の言葉で終わっています。その理由は、揺れ動かされる時代にあって、確信の言葉こそが、聖徒たちを幸いにさせるためです。いたずらに歳月を過ごしていませんか。偶像やサタンに翻弄されていませんか。私たちを取り巻く環境もまた、私たちを揺さぶり、私たちを救いの恵みから引き離そうとするものに満ちています。私たちは、イエス様を信じて救われているので、永遠のいのちを持っています。神様から生まれた者として、新しいいのちで生きることができます。罪と滅びから解放され、神様に大胆に祈って、祈りの応えをいただくことができ、神様の恵みの生活を体験して、証しして生きて行くことができるのです。ヘブル6:11。
 


Tヨハネ
5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
5:16 だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。
5:17 不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。
5:18 神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
5:19 私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。
5:20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
5:21 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。


Tヨハネ3:21 愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、
3:22 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。

ヘブル4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

マタイ7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

ルカ22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

ローマ8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

Tヨハネ3:9 だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

ヘブル6:11 そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。

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