2013年2月17日「真理にとどまろう」Uヨハネ1:1-13

序−この手紙は、使徒ヨハネがある信仰的な女性聖徒に送ったものです。純粋に信じていたのですが、間違った教えの影響を受けて、信仰がおかしくなっていたようです。よく知っていた人なので、信仰の回復を願って、この愛と信頼に満ちた手紙を書きました。

T−手紙が書かれるべき状況−1-3
 ヨハネの手紙の書き出しは、正しい信仰からそれていたある婦人とその子どもたちに対して、愛にあふれたものです。1-2節。ヨハネとこの婦人は親しい信頼関係にあり、ヨハネが福音を伝えたか、御言葉を教えたようです。ところが、この婦人が、霊知主義とかグノーシス主義と言われた教えの影響を受けて、少しずつ信仰がおかしくなったようです。コロサイ2:8。それは、ヨハネの心をひどく痛めるようになりました。遠くにいるヨハネは会いに行けなかったから手紙を書いたと思われますが、ひょっとしたら、その婦人が会うのを避けていたのかもしれません。また、会うことができたとしても、傷を与えてしまうおそれもあったでしょう。
 それで、その婦人と子どもたちに「私はあなたがたをほんとうに愛しています」と書いているのです。人に忠告をするというのは、とても細やかな心遣いと注意を要することです。ヨハネのような心を持つことが大切です。忠告は、肉の心や耳に痛く感じるものです。忠告や誤りの指摘は、気をつけて、話を切り出さなければなりません。多くの人は、忠告を聞くと聞きたくないとばかり、反発し攻撃的になります。親しい関係でも、怒ったり、感情的になったりして、話ができなくなります。間違いを指摘されたり、非難されたりすれば、防御して声を荒立てるようになります。
 たとえば、間違った道に進んでいる子どもが立ち返って来るようにする時、どれほど愛して信頼しているか、最初にそういう話を多くしなければならないでしょう。はじめから大声で叱るならば、もっと間違った道に追いやってしまうことになります。これは、大人でも同じです。誤った教えから救い出すのには、真実な愛と心遣いが必要です。罪人に対するイエス様の言葉や態度を思えば、分りますね。
 反対に、婦人たちからすれば、自分のしたことはヨハネたちを怒らせ、自分たちは憎まれていると考えていたでしょう。ですから、ヨハネは、自分だけでなく、あなた方を知っている他の人もみな変わりなくあなたがたを愛していますよ、と伝えています。1節。婦人はこれを読んで安心し、少しずつ心が開かれて行ったことでしょう。
 この時、ヨハネは教会の人々を「真理を知っている人々」と言っています。これは、間違った教えを意識した言い方のようです。彼等は、哲学の影響から自分たちこそ真理を知る者だと言っていたからです。しかし、聖書こそ唯一の真理であって、聖書を知っている者は、真理を知る者だということです。「私たちのうちに宿る真理〜真理はいつまでも私たちとともに」と言っているのは、愛する婦人たちが真理の御言葉の中に戻って来るようにという願いです。私たちを一つにするのは、神様の真理だからです。クリスチャンを一つにするのは、真実な御言葉の真理です。
 真実なキリスト教の愛は、真理と一緒にあります。3節。愛とは、イエス様の救いに与った者が、神様の御心に従い、御言葉を行うことだということをTヨハネで学びました。真理を離れようとしているこの婦人の心を元に戻すのは、変わりない教会の人たちの愛です。人は、いざという時、自分を変わることなく愛してくれる家族のもとへ戻るものです。

U−神様の命令−4-6
 この婦人の子どもの中には、はじめに受けた信仰そのものを堅く持っている者もいたようです。それに、まだ婦人も他のこどもたちも完全に間違った教えにのまれていたわけではないようです。そこでこう伝えます。4節。ギリシャ哲学の影響を受けた「間違った教え」は、自分たちの知識を自慢し、知識を多く持つ者が救いに近いと主張していました。しかし、真実な信仰は、神様の命令を守ることです。Tヨハネ2:7-8。現代の「間違った信仰」は、聖書は知識だけとなり、肉の考えと肉の心で生きており、霊的造り変えを望みません。
 イエス様の十字架の福音を信じれば、救われます。神様の御心に従って、御言葉を守って生きるなら、神様の恵みと祝福を享受できます。神様から受けた命令、御言葉の通りに歩むなら、新しい人生を生きることができるのです。
 ヨハネは、関係回復をお願いしたいと言っています。5節。それは、これまで、この婦人たちとの霊的交わりが絶たれていたのでしょう。間違った教えの影響を受けてから、だんだんと疎遠になっていったようです。真理から離れれば、考えも心も違って来るので、信仰にある愛もなくなってしまいます。ですから、もうこれ以上、遠のかないで、信仰にあって一つとなろうと言うのです。この婦人も、使徒ヨハネと親しいくらいですから、以前は、教会にも忠実に仕えていたでしょう。その信仰を取り戻そうというのです。主にある関係を回復させたいと願ったのです。
 6節。「初めから聞いているとおり、愛のうちを歩む」とは、「はじめの愛を取り戻そう」ということです。このことには、誰しも共感を覚えます。みなイエス様の福音を信じた時には、神様の愛を受け、人を愛する者になりました。それなのに、やがて肉の知識と高慢のゆえに、真理からそれ、愛を失い、肉の人となって怒りや妬みにほんろうされるようになってしまいます。黙示録2:4-5。もし信仰がそれて行くなら、どこから落ちたのか、悔い改めて「愛のうちを歩もう」と、私たちを導かれます。
 私たちが御言葉を学んで、御言葉のままに生きようとすることが、神様の愛の中を生きることです。単純に心新たに、御言葉のままに生きてみようとすることが、はじめの愛を取り戻すことです。聖書は、神様の愛の手紙だからです。御言葉のままに生きようとすれば、神様の愛が私たちの中にあふれるようになります。

V−主の教えにとどまろう−7-13
 ここで、ヨハネは、婦人たちに影響を与えた、間違った教えがどんなものか明らかにしています。おそらく、この婦人たちは、それがどんなに危険なものか、どんなに間違っているものか、分らなかったのでしょう。7節。間違った教えの者たちは、「神の御子が人として来られた」というイエス様の人性を否定したのです。肉体は汚らわしいというギリシャ哲学の影響を受け、肉体を持っているなんて神ではない、としました。人間の知恵を一番においているので、自分の頭に入らないものは拒むのです。イエス様が人として来られたのでなければ、十字架の贖いはなく、罪の赦しも滅びから救いもありません。現代も聖書の誤りない神様の御言葉だという聖書信仰に立たないなら、聖書は道徳等の参考文献になってしまい、信仰生活も自分の知恵でします。そして、福音的な信仰者を惑わしました。この時も間違った教えの者たちは、彼等自身が迷っていただけでなく、他の「人を惑わす者」となり、「反キリスト」でした。
 8節は、ヨハネの残念な思いが出ているように見えます。自分の労苦が無駄になるという人間的な思いも感じられます。しかし、それよりも、せっかく信じたのに、真実な信仰の恵みを味わってほしい、救われた福音の豊かさを体験してほしい、という切実な思いから書いたのでしょう。私たち一人一人、真実な信仰の確かさ、素晴しさを享受してほしいと切に祈ります。
 さらに深刻なことがあります。9節。間違った教えは、自分たちが進歩的だと主張していましたが、「行き過ぎて」福音からそれてしまいました。真実の信仰の基本は変わりません。保守的です。近代も、自由主義と言われる神学は、真実の信仰から行き過ぎてしまいました。私たちの信仰は、キリストに留まらなければなりません。私たちを救うために、人となって来られた神の御子イエス様だけが私の救い主、私の神です。
 どんなに進歩的、自由だと言っても、人の知恵に合うと言っても、そこにイエス様がいなければ、福音がなければ、救いはありません。それは、間違った教えどころではなく、キリスト教ではありません。避けるように、と強く勧めています。10-11節。似て非なるものの方が危険です。「同じ聖書を〜」と言いながら来るものがあります。ある人は論戦しなければと考えますが、取り合わないで避けなさいと勧めています。
 素晴しい愛と配慮に満ちた手紙でしたが、ヨハネは、これだけで十分だとは思いませんでした。12節。やっぱり、「顔を合わせて語りたい」と言っています。顔を合わせて語れば、再び真理で一つとなるでしょう。メール全盛の今の時代に大切な教えです。メールだけでは偽りもそのまま通り、誤解も生じます。人格的な交わり、分かち合いは大変重要です。御言葉、福音が伝わるのも、関係ができて伝えられるものです。Tテサロニケ3:10。
 私たちも、信仰にあって互いに注意し合い、しっかりイエス様の福音にとどまり、ともに真実な信仰に生きていきたいと願います。ヘブル10:24-25



Uヨハネ
1:1 長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです。
1:2 このことは、私たちのうちに宿る真理によることです。そして真理はいつまでも私たちとともにあります。
1:3 真理と愛のうちに、父なる神と御父の御子イエス・キリストからの恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。
1:4 あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。
1:5 そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。
1:6 愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。
1:7 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。
1:8 よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。
1:9 だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。
1:10 あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
1:11 そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。
1:12 あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。
1:13 選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。


コロサイ2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。

黙示録2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

Tテサロニケ3:10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。

ヘブル10:24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

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