2013年2月24日「凛として生きよう」Vヨハネ1:1-15

序−ここに二人の人が比較されています。一人は影響力を持ち、世で成功しているように見え、一人は地味で、目立ちません。しかし、その中身は違います。「悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。」というのが、この部分のキャッチフレーズと言えるでしょう。そのように生きる人の姿を端的に言えば、「凛として生きる」ということになるでしょう。ここに登場するガイオという人の生き方を学び、見ならいたいと思います。

T−God bless you!−
 ガイオはある教会のリーダー、長老のような人物だったようです。使徒ヨハネは、この人を大変称賛しています。1節。「愛するガイオへ。私はあなたをほんとうに愛しています。」という表現は、ヨハネがどれほどガイオのことを心にかけていたか見せています。それは、ヨハネにとって、ガイオが霊的に生んで育てた信仰の息子だからです。
 私たちは、人生において多くの人々と出会い、別れますが、価値ある残る関係はそうは多くありません。しかし、自分に御言葉を伝えてくれて、自分を霊的に愛して、生んでくれた霊的父母は、そうしてもらった霊的子どもにとって、どんなに月日が流れても、忘れることのできない存在です。イエス様を信じて救われて、御言葉による養育をされることは、どんなに素晴しい体験でしょうか。そして、霊的に成熟して行って、やがて他のたましいに仕えるようになり、自分も霊的父母として用いられるのです。
 ヨハネは、ガイオを次のように祝福しています。2節。「すべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」「愛する者よ」という呼びかけは、神様の祝福を受けることができる権利があるということです。神様が信仰の父アブラハムに「祝福の権能」を与えられました。彼が祝福する者を神様が祝福してくださるという権能です。創世記12:3。ですから、この信仰を受け継ぐ私たちもまた、人を祝福するなら、神様がその人を祝福してくださるのです。「God bless you」の賛美ようにです。ある人に対して、幸いを得ればいいのになと思っただけでも、祝福が臨んだ経験をします。ヨハネがこのように書いているだけで、ガイオに祝福が臨んでいます。ですから、他の人の幸いを願い、祝福の心を抱くことが、どれほど大切かを悟ります。「きょう礼拝に来られたお一人お一人を主が祝福してくださいますように」祈ります。
 ここでヨハネは、もう一歩踏み込んで、ガイオのたましいがまず良くなるように祝福しています。何よりもたましいの祝福を受けることが重要です。私のために十字架にかかってくださったイエス様が私の救い主だという福音を聞いて、最初にたましいが幸いになるからです。たましいが健康で美しくなるなら、心が神様の恵みで満たされ、主にある自分の価値観を回復します。そして、体の癒しや生活の整えに進んで行くでしょう。ですから、たましいの救いが全人的な癒しと人生の変化のはじまりになるのです。私たちも神様の作品として造り変えられるようになるのです。

U−ガイオの生き方−
 続いて、ガイオについての感謝が述べられています。3-4節。ガイオは、後に出て来る人に比べれば、外見的にも目立たず、世で成功している人ではないようです。でも、彼と交わりを持った人々は、「真理に歩んでいるその真実を」知るようになります。純粋に信仰に生きている、福音をつかんで生活しているということです。クリスチャンといえども、自分の思いが中心になると、御言葉に基づいた言動でなくなってしまいますが、彼は、堅実に御言葉に生きていたというのです。
 出世、高収入、見た目が価値観の世にあって、真理を知って真理によって生きるなんて、地味だし、損だし、かっこ悪いでしょうか。勝ち組負け組み、利己主義の横行する時代にあって、純粋に信仰に生きるなんて、時代遅れの人という扱いを受けるでしょうか。しかし、ガイオは、人々がどのように評価するかなどに全く左右されず、悪口に屈することなく、御言葉の真理をつかんで生きていたのです。信仰者にとって、これより偉大なことはありません。凛として生きていた人です。
 御言葉の中には、素晴しい神様の祝福があります。聖書は、甚大な量の原油が埋蔵されている油田のようなものです。人は、見てくれや付属しているものが重要ではなく、その中心に何があるかが重要です。
 ガイオの素晴しさは、伝道者や宣教師を積極的に助けていたことです。5-7節。当時は良い旅館やお店などありませんでしたから、福音を伝えて旅をしていた伝道者たちをガイオが助けていました。Tテモテ5:10。どれほど尊い働きであったことでしょうか。その働きは、目立たず、その周りでは知られていなかったようですが、その真実な行いは、助けられた人々を通して、ヨハネの教会でも知られていたということです。良い働きは、地味で知られなくても、神様はご存知です。神様が報いてくださいます。
 ヨハネは、牧師や宣教師を助ける働きは、その働きに一緒に参加しているようなものだと称えています。8節。伝道者を助けることをもって、その同労者となるのです。「行く宣教師、送る宣教師」という言葉があります。牧師や宣教師の働きのために祈り、支援し、支えることが宣教していることになり、牧会の同労の働きとなります。そのような助けがあってこそ、牧師や宣教師が働くことができるのです。会社の仕事であれ、家族を助ける働きであれ、同じような思いをもって、仕えて、働くことができれば、目立たない地味な働きも素晴しいと思います。ローマ15:2。
 今や、「もてなし」ホスピタリティーとは、観光やホテルなど接客の専門用語ではなくなり、健全な人間関係を築くのに必要な概念となっています。人間関係が崩れ、仕事にも支障が出て来た会社でも、社員教育で学ばれています。私たちも、「人をもてなす心」をもって、人々を助け、人間関係を築いて行きたいと願います。Tテサロニケ5:11

V−悪を見ならわないで、善を見ならいなさい−
 さて、ガイオとは正反対のデオテレペスというリーダーもおり、ガイオを困らせていたようです。9-10節。大変傲慢で利己的で権力欲の強い人でした。「かしらになりたがっている」という説明が名前に冠されています。政治的野望のある人です。権力を振るう者になりたいと活動しており、人々を抱きこみ、従わせます。ヨハネのような伝道者に対しては、仕えて、従うことはせず、かえって反抗し、敵対して、意地悪い言葉でののしり、受け入れませんでした。
 それだけでなく、ガイオのような働きをする人々の邪魔をし、追い出すこともしていました。こんなに悪い人がリーダーかと思われますが、会社にも、地域にも、学校にもいます。実際、悪い人とはあまり思われていないのです。力や知恵があり、活動的で、人を従えます。人の悪口を言い、気に入らない人を蹴落とそうとします。残念ながら、勝ち組負け組み、損得勘定で動く社会では、多くの人々がこのような「頭になりたがる」人に組してしまうのです。ガイオのような人よりも、影響力があり、目立つからです。でも、やがて彼のような人は人々から忘れられ、ガイオのような人が人の心に残り、尊敬を受けるようになります。
 デオテレペスのような人は、ガイオのような人が気に入りません。ガイオのような人の前では、自分の悪やでたらめが明らかになるからです。自分になびかないからです。ヨハネのように聖書的な伝道者ならなおさら気に入らず、ののしるのです。素晴しいイエス様がののしられ、憎まれたように、私たちも正しく誠実に生きても、憎まれ、悪口を言われるなら、主の名のゆえに迫害されたと思い、受け止めましょう。Tペテロ4:16。
 問題は、ガイオがデオテレペスの悪い影響を受け、揺さぶられる恐れがあったということです。それで、命じています。11節。デメテリオのような人が世間では幅を利かせ、影響力があり、勝っているように見えるので、ガイオのような者は、自分は不利で損に思え、これでいいのかと不安になります。でも、ガイオも私たちも、「悪を見ならわないで、」善を見ならわなければなりません。ガイオのように真実に信仰に生きる者は、神から出た者であり、心にキリストを見ている者です。良いことをするのは、神から生まれたことの証しです。悪いことをするのは、神を見ていないし、知ってもいないことのない証拠だというのです。Tヨハネ3:6。
 善を見ならうようにと、一人の真実な信仰の人を紹介しています。12節。デメテリオという人も、ガイオのように生きていました。この人は、見ならうべき人としてあげられています。11節。デメテリオの真実な人となりに、御言葉の真理が生きていたからです。デオテレペスは目立っていたけれども、争い、妬み、悪口を言い、勢力争いをし、意地悪する人でした。会社でも回りの人間関係でも、このような人々が多く、私たちは影響を受け、揺れ動き、罪の生活になる恐れがあります。
 ガイオのような生き方を学び、地道に人々を助け、励ますことの大切さを思います。デオテレペスは、ガイオに対抗して、余計悪くなったようです。妬みや敵愾心(てきがいしん)に駆られると、心は暗くなり、言動も悪くなります。「ならぬものはならぬ」です。人が悪賢い生き方、ずるい生き方をしていても倣わない、評価されなくても、人を助け、仕える。誠実を尽くして神様に従い、御言葉に生きようとする。イエス様を信じて、神様との交わり、救われたことを感謝して、凛として生きましょう。テトス1:8。



Vヨハネ
1:1 長老から、愛するガイオへ。私はあなたをほんとうに愛しています。
1:2 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。
1:3 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。
1:4 私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。
1:5 愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行っているいろいろなことは、真実な行いです。
1:6 彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。
1:7 彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。
1:8 ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。
1:9 私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。
1:10 それで、私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです。彼は意地悪いことばで私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです。
1:11 愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者です。
1:12 デメテリオはみなの人からも、また真理そのものからも証言されています。私たちも証言します。私たちの証言が真実であることは、あなたも知っているところです。
1:13 あなたに書き送りたいことがたくさんありましたが、筆と墨でしたくはありません。
1:14 間もなくあなたに会いたいと思います。そして顔を合わせて話し合いましょう。
1:15 平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たちひとりひとりによろしく言ってください。


ローマ15:2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

Tテサロニケ5:11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

Tテモテ5:10 良い行いによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。

テトス1:8 かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、

Tペテロ4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。

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