2013年3月3日「神様の恵みを待ち望む」詩篇42:1-11

序−詩篇42篇は逃亡者の祈りです。逃亡している期間が長かったダビデの詩かもしれません。とにかく困難の中でさまよいながら、苦しみの中でやはり神様を慕い求め、渇いたたましいの叫びの祈りです。表題は、「コラの子たちのマスキール」です。コラの子とは、その時代賛美を担当していた人々です。マスキールとは教訓詩という意味ですが、嘆きの歌です。私たちが体験する心をこの詩人が表してくれています。

T−神様の恵みを慕い求める−1-2
 人が渇望するものは、さまざまでしょう。しかし、聖徒たちが他の何よりももっとも渇望するものは、神様です。1節。鹿は、体温が高い動物で、渇きに耐えられないそうです。いったん咽が渇いたら、水を求めて荒い息をしながら駆けて行くそうです。水を飲まなければ死んでしまうように水を渇望するのです。
 赤ちゃんもお母さんの乳を求めて、そのように泣きます。聖徒たちも、飲まなければ死んでしまうものがあります。神様の純粋な乳である御言葉です。Tペテロ2:2。もし、聖徒が御言葉を飲むことができなくなれば、心が荒くなり、不安定になり、理由もなく怒りだしたりするでしょう。御言葉に渇いて、慕い求めなければなりません。しばらく御言葉を聞くことができないならば、霊的長患いをするようになります。心の中に少しも喜びがなく、何をしても意欲がわかないのです。霊的沈滞が始まっています。周りの人は、その人を理解することができません。その人がどんなことにも満足できず、怒りだけ出すからです。さらに進めば、うつ状態になり、体も具合悪くなりかねません。
 しかし、ある日生きている神様の御言葉を聞くようになると、その人は変わります。神様の愛に立ち返り、イエス様の十字架に御前に崩おれて、泣いて、喜ぶようになります。今まで、沈滞して怒っていた人とは、まったく違います。これが、谷川の水を慕いあえぐ鹿と同じ渇望なのです。
 御言葉を聞くと言っても、御言葉を心で聞くことがないと、熱心に奉仕をしても、御言葉をデボーションしても、たましいは病んで来ます。不安定となり、怒り易く、意欲が失われて来ます。肉体まで具合悪くなってしまいます。私たちクリスチャンから他のものを奪ったとしても、悲しみや苦しみを与えたとしても、致命的な打撃とはなりません。しかし、クリスチャンが、御言葉を失ってしまうならば、何もすることができなくなります。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」私たちは、この御言葉がよく理解できなければなりません。これが理解できないと、他の糧を食べて満たそうとし、霊的に飢え渇き、たましいは病んでしまいます。
 鹿は、水のにおいを嗅ぐと、水だけ渇望します。他のことは気にしません。渇いたたましいであるならば、のどが渇いている鹿のように、いのちをかけて飛びつくのです。2節。私たちの信じる神様は、生きておられる神様です。人が頭で作り出した偶像ではありません。神様は、感情があり、私たちと対話をされる方です。神様は、私たちのすべての事情を知っておられます。主の前では、私たちの問題は、絡んだ紐が解けるようになります。
 詩人は言います。「いつ、私は神の御前に出ましょうか。」困難を覚える時いつでも、試みられる時いつでもです。いつ、どこに行けば、生きておられる神に会えるのでしょうか。渇いたたましいが神様にお会いするのは、どこでしょう。礼拝ではありませんか。礼拝こそ、渇いたたましいが、生ける神を求めて集うところです。

U−心の痛み−3-5
 聖徒が神様の御言葉を失うのは、幾つかの理由があります。3節。「涙は、昼も夜も、私の食べ物でした」というのは、とても涙が流れたことを言っています。涙がいっぱい出れば、口を伝って、入ります。このように聖徒に涙を流させる原因はどんなことでしょう。
 まず、他の人と意思疎通がなくなる時、心が傷つきます。周りの人々がその人を理解できず、「おまえの神はどこにいるのか」と批判するのです。聖徒が信じる真実を他の人が信じない時、「あの人は変な人だ」と言います。心が傷つきます。時が来れば、神様の御心が現れ、私たちの問題が解決するという約束があります。しかし、時間が経っても、神様の御心が何一つあらわれず、困難が続くとき、信仰のない人や信仰の不足した人は、聖徒たちに言うのです。「あなたの言う神様ってどこにいるの。あなたを放っておく神様なんて、やめちゃいなさい。」そんな攻撃に一言も言い返せず、心が痛んで、涙が流れます。
 二つ目は、大切な聖徒の交わりを失うために、心が痛みます。4節。この人も、以前には聖徒たちと一緒にささげた礼拝に感激し、分かち合った聖徒たちとの交わりがありました。聖徒たちとともに、喜びと感謝の声をあげて賛美しました。賛美チームで奉仕していたのでしょうか。その時は、賛美も、御言葉もあり、祈りもありました。共に集り、共に涙を流し、共に喜び合いました。しかし、それらが今はなくなっています。寂しさと空しさで心は痛みます。今それを思い出して自分を励ましています。
 三つ目は、心の中にしばしば不安と落胆が生じて、心が痛みます。5節。うなだれは、霊的沈滞から来るものです。5節。この人は、長い間神様の御言葉が聞けなくて、心が沈滞しています。心が沈滞するというのは、思い煩いや不安が常態化して、自分では回復できない状態を言います。いつも気落ちしていると、しまいにそのままでいいというようになってしまいます。今は、何の意欲もなくて、力もないのです。もうすべてのことを放棄してしまいたい、すべてのことから逃げ出したいという思いに陥り、ただ被害者意識だけが残っています。あのことであいつのせいで今こうだと。
 その時、私たちが自分自身を励ます言葉があります。「神様は私たちを決して棄てない、絶対に手放さない」ということです。Uコリント4:8-9。この人は、だから神様へ訴えろと言うのです。渇いて、慕い求めるなら、必ず聖霊の注がれる恵みがあります。

V−神様の恵みを待ち望む−6-11
 この詩人は、あちこちさまよいながら、行く先々で神様に出会い、交わろうと努力しています。6節。彼は、ずっと逃亡していなければならなかったようです。ところが、彼は行く先々で落胆だけするのではなく、神様を覚えるようになりました。つまり、神様に望みを持つようになりました。多くの詩を作ったダビデは、特別な恵みがありました。神様に訴える時、いつでもどこででも神様についての御言葉が思い出され、賛美がわいて来ました。それは、神様が共にいてくださることを覚える体験です。そして、神様が彼を尋ねて来るのです。
 ヨルダンはヨルダン川、ヘルモン山はその源流地です。まさに水の豊かな場所です。そこには豊かな泉があふれ出て、滝となってながれます。7-8節。詩人は、滝の音を聞いたとき、神様の答えを感じることができました。滝の姿が、神様の恵みが注がれる姿に見えました。その滝のしぶきと霧で包まれる思いがしました。渇いて神を慕い求めたたましいは潤い、平安に導かれました。神様の恵みが彼の心を満たしていたのです。昼には神様の恵みが、夜には賛美の歌が彼の心にありました。彼の心には、もう寂しさはありません。みなさんにも神様を渇望してほしいです。詩篇70:4
 ただし、そのように心は大きく変化したとしても、困難な状況は変わりません。困難は残っています。9-10節。心に神様の恵みが訪れたとしても、困難がすべて解決されることはありません。まだ敵の圧制によって、悲しい辛い逃亡をしなけれならず、敵がその信仰をあざけり、批判するのです。詩人は、それを神様に訴え続けます。失望落胆するより、敵を恨むより、解決されない困難を神様に訴えることです。詩篇62:8。困難のために、神様から離れたり、祈らなかったりするのは、すでに手にしている恵みを奪われることです。サタンが狙うところです。
 しかし、私たちは、解決されない大きな困難のために、小さい恵みを奪われることはありません。大きな困難は、小さな恵みによって、崩れ始めます。小さな春の訪れが大きな氷をとかし始めるのと同じです。大きな氷が解けなければ春が来ないわけではありません。ですから、勝利はすでに神様に訴える心の中に起きています。心の中に、確信と勝利があるなら、外的困難に、思うよりはるかに打ち勝つことができるのです。
 ですから、何よりも神様を信頼し続け、心が守られることが大切です。11節。私たちが失望落胆するのは、不信仰であり、罪です。なぜなら、イエス様が十字架の死からよみがえり、勝利してくださったからです。ヨハネ16:33。主がすべてに勝利してくださいました。イエス様の十字架を信じた者が、イエス様の勝利を無にしていいのでしょうか。そんなことはできません。私たちが霊的沈滞に長く留まること自体、神様の御力を信じていないことになります。
 私たちは、困難であればあるほど、神様を待ち望まなければなりません。そうすれば、神様は、私たちの顔に喜びと平安を与え、感謝するようにされます。主は、主を待ち望む者を恵もうと待っておられ、あわれもうと立ち上がられるのです。イザヤ30:18。



詩篇
< 42 > 指揮者のために。コラの子たちのマスキール
42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
42:3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。
42:4 私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。
42:5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
42:6 私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。
42:7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。
42:8 昼には、が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。
42:9 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」
42:10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と私に言っています。
42:11 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。


Tペテロ2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

Uコリント4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

詩篇62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。 セラ

イザヤ30:18 それゆえ、はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

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