2013年3月10日「私を導いてください」詩篇43:1-5

序−私たちは色々な出来事に出会いながら、気落ちしたり、意気消沈したり、不安や恐れを抱きます。それが、続くと霊的沈滞に陥ります。今詩人は霊的沈滞病に罹っています。この沈滞の原因は、自分の力で事を成し遂げ、解決することができないことです。試練と艱難があり、葛藤と惑いがあり、悪の勢力との戦いがあります。どうしたら回復され、癒されていくのか学びます。

T−霊的沈滞に打ち勝つ方法−5 
 詩人は、42篇と同じく、自分自身にこのように言っています。5節。「なぜ、おまえはうなだれているのか。」これは、困難なことで不安や恐れを覚えているという程度ではなくて、まったく自分の力でどうすることもできない、意欲も失われているという状態のことです。それで、自分のたましいはうなだれるほかないというのです。霊的沈滞というのは、不安や恐れが並みの段階を超えているということです。困難をどうすることもできず、うなだれるしかできないのです。たとえば、普段おしゃべりの人がうなだれるならば、霊的沈滞に陥っていることがよく分かります。
 詩人の霊的沈滞の原因は、三つ考えることができます。一つは、長い間神様の御言葉を聞くことができなかったり、聖徒の交わりができなかったりする状態です。42篇の詩人が、まさにその状態でした。そのような状態では、どんな信仰の勇士だとしても、沈滞に陥ってしまいます。御言葉は私たちの霊的糧です。御言葉を食べなければ、栄養失調になってしまいます。私たちは、どれほど他の聖徒たちの助けや祈りに助けに支えられていることでしょうか。それがなければ、霊的沈滞に陥ってしまいます。今自分の霊的状態はどうだろうか。御言葉をしっかり食べているでしょうか。聖徒たちとの健康な信仰の交わりがあるでしょうか。
 二つ目は、一人の力でできることではない重荷を負っているためです。人生は多事多難です。家族のこと、仕事のこと、健康のこと、生活環境のこと等について重荷があります。特に現代のように急変する社会では、ことのほか多くなります。一つの重荷だけでも困難なのに、幾つも負いながら人生歩まなければなりません。もう逃げ出したくなります。家庭の問題に加え仕事の問題がある、自分の精神のことに加え家族の病がある、生活の不安に加え人間関係に苦しめられる。多くの人々がそういうことを抱えています。この詩人も、幾つもの困難を抱え、攻撃や批判を浴び、苦しんでいます。到底、自分の力ではどうすることもできません。私たちも、しばしばそのような状態になることがあります。
 三つ目は、困難の期間が長いということです。伸びすぎたゴムは元に戻らないように、私たちも困難が長く続くと、重苦しい心で過ごし、すっかり喜びが失われ、病気にさえなってしまいます。それこそ、霊的沈滞の姿です。べテスダの池でイエス様に出会った38年間病気だった人が、イエス様から「よくなりたいか」つまり、治りたいかと聞かれたのに、治りたいと答えることができませんでした。言ったのは、他の人が先に池に入ってしまうという恨み、悪口だけでした。ヨハネ5:5-7。長い病気が彼の性格までだめにするのです。心に長く不安や怒りがあると心の病になると言われます。感情の機能が働かなくなってしまうのです。
 このように、深刻な霊的沈滞でも、治療して、打ち勝つことができる方法があります。神様への祈りです。それも、涙を流しての祈りです。この詩人も、涙を流しながら、神様に叫び祈っています。涙は心の中にある怒りを抜き取る力があります。心行くまでたっぷり泣いたなら、再び立ち上がる力が出て来るのです。困難で重苦しい時には、思う存分泣いて祈るなら、心の中にある不安や怒りは確実に引いて行くでしょう。泣く人の方が回復が早いです。
 もっと霊的沈滞が深いなら、従順に御言葉に浸り、癒される必要があります。御言葉に立ち返って、じっくり御言葉から霊的栄養を供給されるのです。そして、神様の御許へ導かれ、心憩わせ、神様の御手の中で平安と潤いを与えられ、癒しと回復へと導かれるのです。その変遷を見ていきましょう。

U−私の訴えを取り上げてください−1-2
 詩人の痛みは、自分ひとりでは到底取り去ることはできない重荷でした。そこで、こう祈ります。1節。「さばいてください」とは、「弁護してください」ということです。詩篇26:1。「私の訴えを取り上げ」とは、「私と争う者と争い」ということです。詩篇35:1。神様が私を守ってくださり、神様が代わりに戦ってくださるからです。だから、霊的沈滞に陥っている者は、神様に心の痛みと苦しみを訴えるのです。
 たとえば、ダビデがサウル王から逃げていた時は、まさにこのような祈りをささげました。王の軍隊と戦うことはできません。神様に訴えるしかできませんでした。いや、戦うことをせず、戦うことを避けました。とにかく困難や悪の勢力と対峙している場合、このように神様に訴えて、そして、悪の勢力を避けることがよい方法です。立ち向かう力がないからだけでなく、悪の勢力と戦う方がおられるからです。神様の時を待たなければなりません。
 神の民には、基本的神の民権というものがあります。イエス様の十字架による救いを受けたのですから、神様によって守られるということです。とかく、うまく行かない時、困難に会う時、「神様が私を拒まれた」と思いがちです。でも、神様に訴えるのです。なぜなら、神様は、「私の力の神であられるから」です。2節。悪の勢力が私たちを攻撃する時、試みに出会っている時、すべてを裁かれる神様に訴えることができるのです。これは、神様を恨んで言っていることではありません。神様の御前に悪者たちを告白しているのです。
 神様の時には、神様が事を行われます。私たちのすべきことは、悪者の手にかからないように注意することです。どうすることもできない侮辱や嘲り(あざけり)を受ける時、あえて立ち向かって苦労する必要はありません。「敵のしいたげに嘆いて歩き回る」のは、サタンの思う壺です。人々を捉まえては、あれこれ恨みつらみを言い回るのは、罠に落ちている姿です。
 私たちが試練を受ける時、多くのことをしようとすると、いたずらに動き回ると、霊的沈滞に陥ります。そのような時、自分ができるだけのことを熱心にすればいいのです。与えられた範囲内でできることに最善をつくせばいいのです。パウロは、ローマで獄中にある時、何か無理することなく、諸教会に手紙を書きました。私たちは、困難のときは困難の時と認め、困難な時には平常とは違う仕方で過ごせばいいのです。そして、そこを抜け出したら、積極的に活動し、働けばいいのです。

V−私を神のみもとに連れて行ってください−3-4
 神様に祈り訴えるうちに、詩人の心はもっと肝心なところへ向いて行きます。3節。「あなたの光とまこと」とは、神様の臨在と真実です。神様に訴えるうちに、詩人の心は、神様の変わらない愛と真実さへに向けられるようになりました。73篇の詩人は、悪者が栄える不当と矛盾を神様に繰り返し訴え、考え悩んだあげく、「神の聖所に入って、悟った」と証ししています。詩篇73:17。ですから、霊的沈滞の中で、試練によって信仰が揺さぶられる時、文句でも懇願でも、神様に訴え祈るべきなのです。
 この光とまことがイエス様によって具体化されています。ヨハネ1:4,9,14。神様の愛と真実さが、救い主によってあらわされています。イエス様こそ、困難や悪の勢力に苦しみ、不安と恐れを抱き、失意と落胆でうなだれていたたましいを救ってくださった方です。イエス様の十字架の御業による罪の赦しが、私たちを神様のもとへと導いてくださいます。「神様の聖なる山、神様のお住まい」とは、神様の臨在されるところ、神殿、教会です。葛藤する心、さまよう心が神様から離れ、悪に翻弄(ほんろう)されたままでないように、神様のところへ「私を導いてください」と祈るのです。
 葛藤して、迷わされるからこそ、「私を礼拝へ連れて行ってください」と祈るのです。神様の臨在される礼拝こそ、私たちを神様に立ち返らせるものです。礼拝こそ、私たちの霊的状態を悟らせ、霊的沈滞から回復へ導いてくれるものです。4節。言うなれば、私たちは、試練の中から引き出され、悪の攻撃から守られて、礼拝に導かれているのです。礼拝に来られることがどんなに恵みであることでしょうか。礼拝に導かれて、どれほど癒され、どれほど喜びが回復されていることでしょうか。
 ですから、私たちは、礼拝において神様を喜び、褒め称えるのです。私たちも詩人の問いを聞きます。「なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。」5節。そうです。「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえ」ます。あれこれと揺れ動くことは無駄です。愚かです。はっきりと確信すべきです。イエス様の十字架が私たちを罪と滅びから救ってくださいました。創造主なる神様の愛と守りを受ける子どもとされました。この信仰の恵みから来る確信が、様々な試みと困難、攻撃と迫害を克服させ、勝利を得させてくれるのです。恐ろしい霊的沈滞から回復されるには、神様に訴え祈り、主の臨在される礼拝に導かて、連れて来ていただくことです。慰めと癒しがあり、回復と成長があります。喜びと賛美へと導かれます。詩篇103:1-5。



詩篇
43:1 神よ。私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、神を恐れない民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。
43:2 あなたは私の力の神であられるからです。なぜあなたは私を拒まれたのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩き回るのですか。
43:3 どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。
43:4 こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ。
43:5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。


詩篇73:16 私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には、苦役であった。
73:17 私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。

出13:21 主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
15:13 あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。

詩篇103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。

戻る