2013年3月17日「もっと神様を拠り頼もう」詩篇44:1-12

序−神様をよく信じている聖徒たちも、戦いに負け、厳しい状況に陥ることがあります。この詩人は、自分たちが敵に敗れて、奴隷として連れて行かれた時のことを記しています。私たちが試練や困難にある時にも、どんな意味や理由があるのか、私たちに教えてくれます。

T−困難の中でも−1-3
 この詩人の時代、戦いが起こり、彼らは敵に敗れて捕虜となりました。捕虜となれば、自信も希望も失い、肉体的、精神的自由がなくなり、死んだようになります。そのような困難で悲惨な状況において、神様が彼らの先祖に行われたことを聞くようになりました。1節。捕虜の中のある人が、昔、神様が神の民にどれほどのことをしてくれたかについて聞かせてくれました。捕囚となっていない普通の状態のときには、聞かせることができなかったようです。平時の時には、人々が忙しく、御言葉を聞こうとしていなかったのでしょう。ところが、むしろ捕虜となったので、聞くようになりました。それ以外に、希望を持つことができなかったからです。
 聖書の中の例をあげれば、ピレモン書のオネシモ、奴隷であった彼は主人のお金を盗んで逃げ出して、ローマに来ました。罪を犯して牢獄に入れられ、そこでパウロに出会い、福音を聞いてクリスチャンになりました。この詩人たちは、神様を信じていたにもかかわらず捕虜となりましたが、捕虜となって囚われの身とならなければ、神様の御業を聞くことがなかったでしょう。艱難や悲惨な出来事が、感謝と恵みにつながったのです。私たちが、どんな所に置かれようとも、神様だけ一緒にいてくださるのなら、そこが聖会となり、天国になることを私たちも体験するでしょう。
 神様は、一つのたましいを救うために、ご自分のしもべたちを送ります。捕虜となって売られて行く人の中にも、福音を伝える人を置かれ、御言葉を聞くようにされるのです。私たちは、私たちよりもっと苦しくて悲惨な状況にある人に福音の光を照らすために、私たちを困難に置くこともあるのです。Uコリント1:6。ですから、苦しみに会った時、誰かの慰めと救いのためでもあるのだな、と思うことです。
 彼らがそこで聞いたことは、神様が彼らの先祖にされた驚くべき御業でした。2~3節。先祖たちは何の力も持っていなかったのですが、ただ先祖たちが神様に信仰で従順になった時、神様が約束の地を得るようにしてくださったのです。捕虜となっている人々にこのような話を聞くなら、自分たちは終わりではない、と希望を持つでしょう。神様の御言葉には力があります。神様の御言葉を伝えるなら、効力を発揮します。捕虜となって、牢獄にいる人々にも変化をもたらします。彼らを敗残兵ではなくて、御言葉に武装された主の兵士に変えます。Uテモテ2:3。
 もし私たちが御言葉に出会わなかったら、罪の捕虜、サタンの奴隷となったまま、人生を生きるほかなかったでしょう。その私たちが御言葉を聞いて神様のしもべとなるだけでなく、世を変える神様の証し人となるのです。パウロがローマの親衛隊の中にある牢獄に入れられのですが、その中で最善を尽くして証しの生活をしたことで、ローマ皇帝の親衛隊の中にイエス様を信じる人々が起こされるようになりました。ピリピ1:13。
 また、預言者エリシャの時代、一人の神の民がアラムの略奪に会い奴隷にされてしまいました。その少女がアラムの将軍の召使となっていた時、病気で悩んでいたナアマン将軍に預言者エリシャのことを話し、彼は予言者に会って癒され、神様を信じる者となりました。U列王記5:1~15。神の民は、どこに行こうとも、主の御力が働くならば、主の使命を果たすようになります。聖徒は主の大使です。Uコリント5:20。

U−もっと神様を信頼する−4-8
 詩人は、神様の話しを聞いて、考えるようになりました。4~5節。先祖たちが彼らよりはるかに強い者たちに打ち勝ちその地に国を建てることができたのは、彼ら自身の力でなく神様の御力によることだったなら、自分たちが神様の御力を得ることができない理由があるのだろうか。それで、御言葉を聞いた後には、「神よ。あなたこそ私の王です。」と大胆に告白し、救いを求めて祈るようになりました。聖徒が神様を求めて、神様の御力があらわれる時は、何もない平時ではなく、もっとも困難な時です。
 人が困難に陥るなら、藁にもすがりたい心境になり、徹底的に神様に拠り頼むようになります。もっとも従順になり、神様と近くなります。6~7節。今聖徒たちの困難は、人の力ではどうすることもできないことです。だから、神様にだけ拠り頼むようになります。何もない平時の時には、人は自分の思い中心になり、自分の力を過信し、神様に拠り頼むことをせず、素直に御言葉に従うことがありません。しかし、艱難に出会い、どん底に落ちる時、神の民はただ神様だけに拠り頼みます。もう他に拠り頼むものがなくなって初めて主だけを頼みとするのです。Uコリント1:9。
 すると、驚くべきことは、艱難のどん底でも神様がともにいてくださることを明らかに感じることができたことです。このように、人生のどん底でも神様の御力が現れるのです。それは、聖徒たちが人生のどん底で艱難を経験する過程で、彼らの信仰が生活に根ざし、彼らが真理に生きるようになることです。彼らの生活に御言葉が生きて働くようになり、だれでも共感できる信仰生活となるのです。それ以前は、御言葉を口では言うものの自分の思いが中心であったのが、艱難の後では、御言葉を実践して生きるようになります。周りの人々がその真実な証しの生活を通して、主を知り、救いを求めるようになるのです。
 様々な状況にある人々に御言葉が届くためには、私たちも色々な経験をしてみる必要があります。それによって、御言葉の真理と現実がつながって、人々に真理が伝わるようになります。私たちの労苦や挫折も無駄でない、そのように用いられ、そのための経験かもしれません。聖徒たちも、そのような経験をしながら、人々を受け入れる度量を持つようになります。
 本当に驚くべきことは、人生のどん底でも、神の民を立ち上がらせてくださり、神の民であることの誇りを取り戻させてくれることです。8節。艱難の時が、神様の御力が現れる時となり、どん底が神様の回復が臨む所となります。そこが霊的戦いの最前線だからです。

V−主の時に出て行く−9-12
 聖徒たちは、自分たちがどうしてこのように敗北し、捕虜となって引かれて来たのか、反省してみました。9~10節。自分たち神の民が敗れることはないはずだと思っていました。その時も、弓や剣だけに頼らず、神様にも頼ろうとしたのでしょう。それなのに、神様が一緒に戦ってくださらないと思えたので、彼らは自分たちの力で戦い、敗れてしまい、捕囚となりました。ヨシュアの時、割礼を施して、主の軍を待ちました。ヨシュア記5章。しかし、サウル王は、神様の導きを待たないで、自分たちの考えで行って、王統を失うことになります。
 私たちには、いつも神様の時があります。霊的戦いを軽くみてはいけません。神様に拠り頼んで、神様に従って取り組まなければなりません。どんなに小さなことでも、主に従って最善を尽くさなければなりません。私たちの力だけでできることは何もないからです。たとえば、アイという小さな町を攻める時、アカン一人の罪がイスラエル全体を無力にして、惨めな敗北を喫するようになりました。ヨシュア記7章。もちろん、ただ一度敗北したからと言って、すべてが終わったわけではありません。悔い改めて主に依り頼み、従うならば、神様が助けてくださいます。
 ですから、神様に立ち返ったこの敗北した民も、神様が一緒におられる体験をすることができます。11~12節。戦いに敗れて捕虜となった神の民は、あちこちの国に奴隷と売り飛ばされてしまいます。それも大変な安値で売られました。しかし、それがすべてのことの終わりではありませんでした。奴隷となった地で再び主のパン種となるようにされるのです。
 ローマ時代においては、帝国の支配階級の家で奴隷として働いていたのが、クリスチャンでした。彼らはずるい怠け者の奴隷根性ではなく、厳しい主人の下で、主の奴隷として忠実に仕え、福音を証しする生活をしました。やがて、クリスチャンの奴隷たちから主人たちに信仰が伝わり、支配階級に信仰が広がり、帝国のキリスト教公認となって行くことになります。捕虜となって、奴隷とされたとしても、終わりではありません。それが、信仰の回復と信仰の証しの新たな始まりとなります。
 人は、病に陥ったり、挫折や失敗を経験したりしてこそ、神様の御前に立ち返り、信仰が回復され、家族や周りの人々への救霊の思いが新たにされるのです。この詩人の時代、神の民は捕虜となり、奴隷とされてしまいました。いったんは死んだような存在となりましたが、再び生き返ることになります。ルカ15:24。それまでよりも、もっと力強く信仰に生きて、証しして、世を変えて行く人になります。
 イエス様は、十字架で死なれましたが、よみがえって、信じる私たちに罪の赦しと天国への命を与えてくださいました。神様のあわれみは、イエス様を十字架の死からよみがえらせることによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。Tペテロ1:3。私たちは、イエス様の御業を信じることで、罪に死んでいたような者が、新しい命に生きるようになったのです。エペソ2:5。



詩篇< 44 >
指揮者のために。コラの子たちのマスキール
44:1 神よ。私たちはこの耳で、先祖たちが語ってくれたことを聞きました。あなたが昔、彼らの時代になさったみわざを。
44:2 あなたは御手をもって、国々を追い払い、そこに彼らを植え、国民にわざわいを与え、そこに彼らを送り込まれました。
44:3 彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。
44:4 神よ。あなたこそ私の王です。ヤコブの勝利を命じてください。
44:5 あなたによって私たちは、敵を押し返し、御名によって私たちに立ち向かう者どもを踏みつけましょう。
44:6 私は私の弓にたよりません。私の剣も私を救いません。
44:7 しかしあなたは、敵から私たちを救い、私たちを憎む者らをはずかしめなさいました。
44:8 私たちはいつも神によって誇りました。また、あなたの御名をとこしえにほめたたえます。 セラ
44:9 それなのに、あなたは私たちを拒み、卑しめました。あなたはもはや、私たちの軍勢とともに出陣なさいません。
44:10 あなたは私たちを敵から退かせ、私たちを憎む者らは思うままにかすめ奪いました。
44:11 あなたは私たちを食用の羊のようにし、国々の中に私たちを散らされました。
44:12 あなたはご自分の民を安値で売り、その代価で何の得もなさいませんでした。


Uコリント5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

Uコリント1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

ピリピ1:13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、

Uコリント1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

ルカ15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

Tペテロ1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

エペソ2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──

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