2013年3月24日「謗(そし)りと嘲(あざけ)りの中で」詩篇44:13-26

序−今週は、受難週です。イエス様の受難とは何でしょうか。私たちの身代わりの受難は、十字架だけではありません。鞭打ちや十字架という肉体的な痛み、苦しみばかりか、イエス様は人々から多くの罵(ののし)りやあざけりを受け、精神的な苦難を受けられました。それも、私たちためでした。私たちが人生の中でそのような苦難を味わうからです。

T−周囲から嘲られる−13〜6
 私たちは、周りの人々から認められ、いつも愛と尊敬を受けられたらどんなにいいでしょうか。しかし、中々そうは行かないないでしょう。反対に憎しみやあざけりを受けることもあるのではないでしょうか。それも、クリスチャンとして受けることがあるでしょう。戦いに負けて捕虜となり、奴隷となった神の民は、多くの侮辱やあざけりを受けました。13〜14節。私たちも、神の民となった瞬間から、周りの人々のそしりとあざけりの対象となるということを聖書は教えています。なぜでしょう。
 その理由は、信じた者の人生観や価値観が変わり、考えや行動が変わるからです。世の人々にとって重要なことは、目の前の現実の物です。人々の幸福は、富とか権力とか名声などという世のものを多く握ることです。自分の肉の思いのまま生きることです。ところが、クリスチャンは、そういうものより、目に見えない神様に従い、その御心を求めて生きることが幸いとなるからです。信じない人にとっては、非現実的な愚か者と見え、物笑いの種となるのです。
 そればかりか、自分たちと違う価値観が気に障り、誹謗(ひぼう)中傷するということになります。人々が神の民をそしり、あざけるのは、自分たちにとって都合の悪い存在と映るからです。世のものが全部だという価値観でなく、損と見えることも受け止め、自分たちと同じように悪口を言ったり悪意を持たったりしない、そういう神の民の姿は、富を求め欲のまま生きる者にとってどうも都合が悪い、自分の方が旗色が悪い、それは脅威にすら感じのです。それで、そしり、あざけるのです。イエス様が、パリサイ人に憎まれ、あざけられたのも同じ理由です。ルカ18:32〜33。
 さらには、クリスチャンの存在は、この世の体制を揺り動かすものだからです。間違いや肉の行為に対して反対し、世の悪い体制に従わない者だからです。クリスチャンとなった後、以前のように一緒に酒を飲んだり、噂話をしたり、悪い冗談を言ったりしないからです。そういう要求に従わないから、気に入らなくなります。そして、あざけり、憎むようになるのです。辱(はずかし)めさえ受けます。価値観の変わらないクリスチャンからも同じように見られ、疎まれ、あざけられるかもしれません。
 聖徒たちに対する謗(そし)り、嘲りは、一時ではなく、続けられます。減るどころか増えて行きます。それに加わる者も増えます。15〜16節。彼らの心の中にあった心の傷や要塞のように築かれた憎しみ怒りが、哀れな無抵抗の捕虜にぶつけられることになります。詩篇35:15〜16。彼らの心の痛みや憎しみの直接の原因でもないのに、ぶつけるのです。悲しいことに、私たちも周りの人々からこのような辱めや罵りを受けることがあります。私たちが原因であれば、甘んじて受けようものの、謂(いわ)れのない罵りや嘲りを受けるのは悲しく、辛いことです。余計に私たちを苦しめることになります。職場、学校、地域や親族等あらゆる人間関係で起こることです。
 しかし、そのような人々の姿は、イエス様を十字架刑につけろと叫ぶ者たちの姿であり、重い十字架を背負って歩くイエス様を罵(ののし)り、あざける人々の姿です。マルコ15:19〜20。エルサレムの人々は、イエス様から攻撃されたり、ひどい目に会わされたりしたわけでもありません。彼ら自身の心にある痛みや不満、憎しみ等をイエス様にぶつけたのです。二つのことを思います。ああイエス様も受けられた痛みや悲しみなら、私たちもと少しは癒され、軽くなります。もう一つは、十字架につけろと叫ぶ者や通りであざけり、罵(ののし)る者の中に肉と罪の私もいたのだと気付かされます。

U−神様が守ってくださる−17〜18,20〜21 
 人は、謂(いわ)れのない中傷や誹謗を浴びせられたら、どうなるでしょうか。心が揺れ動き、ますます落ち込み、心痛め、怒りや憎しみさえ生じて来るでしょう。捕虜となった彼らはどうだったでしょう。17〜18節。ところが、驚くべきことに、聖徒たちはそのような悲惨な状況と人々からのあざけりの中でも、「神様を忘れませんでした。」それで、人々のそしりやあざけりに「心がたじろがながず」、心が右往左往しなかったので、落ち込んだり、怒ったり、憎んだりしませんでした。御言葉に従い続けたのです。
 人々の心の傷や内なる憎しみが、何の抵抗もできない捕虜や十字架のイエス様に向けられました。同じように、反抗したり、攻撃してきたりしないクリスチャンに、苦い根のような心の痛み、要塞のように築かれた憎しみや怒りがぶつけられるのです。ぶつけられた者の内にも、奥底にも少なからず苦い根のような心の痛み、要塞のように築かれた憎しみや怒りがありますから、反応してやり返す可能性はあります。しかし、捕虜たちは、神様を忘れることなく、御言葉に従い続けました。私たちも、イエス様の姿を思い、ののしり返さず、主の御手にゆだねたいのです。Tペテロ2:22〜23。やり返したら、サタンが喜ぶだけ、攻撃が増幅されるだけです。
 この詩を書いている人は、戦争に敗れて捕虜となって引かれて来た人のようです。生き残るためには、敵が要求することに従うほかないでしょう。その中で聖徒たちが最も悩んだのは、敵の国で行われていた偶像崇拝だったでしょう。しかし、ところが、このような環境の下で神様との誓約を棄てて偶像礼拝などしなかったというのです。20〜21節。戦争捕虜にどんな自由があるでしょうか。敵たちは聖徒たちを思いのままあざけり、痛めつけました。そういう時が、信仰の試みの時です。
 人々からそしり、あざけりを受ける時は、私たちの信仰が試みられている時です。苦しく、辛い時、自分の肉の思いを中心にするのか、神様以外の他の何かを頼りとするのか、試みられます。そしり、あざけりを受ける時、「ほかに手を差し伸ばしたなら」ますますひどくなるでしょう。試みの時だからこそ、神様を信じる者は、神様以外により頼むことはしません。ただ、すべての力と権力にまさる、すべての国々とすべての宝より尊いイエス様を礼拝します。
 このような聖徒たちの姿を通して、神様は世の人々に真実な信仰、イエス様の救いをあらわしておられるのです。私たちは、試みに対している時、このことをも忘れてはなりません。証しのときでもあるのです。

V−圧迫を受ける聖徒たちの姿−19,22〜26
 聖徒たちが真理を守ったならば、敵から多くの痛みを受けます。19,22節。捕虜としてあちこち引かれて行って、ひどい傷を受けるようになります。「死の陰に覆われる」つまり、生きて行く目当てがほとんどないという意味です。あちこちに引き回される捕虜は、あたかも引かれて行って屠殺(とさつ)される動物のようだと言っています。引かれて行けば、そこで奴隷として売られて、再び戻って来ないからです。反抗できず、ただ家畜のようにされるだけです。ところが、彼らは、そのような状況で神様を覚え、神様に信頼を回復しました。敵の前で神様を信じる者が真理の正しいことを命をかけて証しすることが神様の御心だということです。そうすれば、かならず彼らの中から悔い改めて、信じる者が生じて来ます。
 それは、人の目から見れば、最も哀れで惨めで、愚かな姿に見えたことでしょう。しかし、神様の前でのこのような苦しみ、苦難は、神様からの慰めと哀れみを受けます。イエス様の十字架への姿は、哀れで惨めで、愚かな姿に見えたことでしょう。しかし、それが、人々の救いの御業となりました。Tペテロ2:24。真実な中でそしりとあざけりを受ける聖徒たちの姿は、最も尊い慰めと哀れみとなります。イエス様を信じた者のすべては神様のものとなり、自分の人生と命も神様に用いられるものとなります。そこには、思うままに使えない、奪われるという憂いはありません。
 世は、決して平穏な所ではなく、熾烈(しれつ)な霊的戦いの場です。私たちがイエス様を信じて神の民となった時から、人々からのそしりとあざけりの対象となり始めるのです。苦しみ助けの声をあげる捕虜たち、そこには彼らの信仰の回復と成長、かの地での宣教という神様のご計画がありました。神様は、聖徒たちに不必要な苦難を与えることはしません。一羽の雀も神様の許しなく地に落ちることがなく、頭の髪の毛さえもみな数えられています。マタイ10:29〜30。
 私には分らなくても神様はご存知だという信仰が、艱難の中で私たちを支えます。外から見える苦難の状況は、あたかも神様が私たちを忘れ、見捨てておられるかのようです。23-25節。私たち自身の心も揺れ動くでしょう。しかし、神様は、苦難に会っている聖徒たちに御顔を隠されることはありません。なぜなら、私たちが受けるすべての苦難をイエス様が受けられました。イエス様は、私たちが受けるすべてのあざけりと侮辱を受けられ、十字架にかかられ、私たちの贖い主となられました。ですから、私たちは、最後の瞬間まで望みを持ち、神様の助けを求めることができるのです。26節。私のために十字架にかかってくださったイエス様は、決して私を見捨てない、そしりとあざけりの中で私を支えてくださると確信して、祈りながら最善を尽くして証しの生活を続けます。Tペテロ2:21〜24。



詩篇
44:13 あなたは私たちを、隣人のそしりとし、回りの者のあざけりとし、笑いぐさとされます。
44:14 あなたは私たちを国々の中で物笑いの種とし、民の中で笑い者とされるのです。
44:15 私の前には、一日中、はずかしめがあって、私の顔の恥が私をおおってしまいました。
44:16 それはそしる者とののしる者の声のため、敵と復讐者のためでした。
44:17 これらのことすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れませんでした。また、あなたの契約を無にしませんでした。
44:18 私たちの心はたじろがず、私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。
44:19 しかも、あなたはジャッカルの住む所で私たちを砕き、死の陰で私たちをおおわれたのです。
44:20 もし、私たちが私たちの神の名を忘れ、ほかの神に私たちの手を差し伸ばしたなら、
44:21 神はこれを探り出されないでしょうか。神は心の秘密を知っておられるからです。
44:22 だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。
44:23 起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください。
44:24 なぜ御顔をお隠しになるのですか。私たちの悩みとしいたげをお忘れになるのですか。
44:25 私たちのたましいはちりに伏し、私たちの腹は地にへばりついています。
44:26 立ち上がって私たちをお助けください。あなたの恵みのために私たちを贖い出してください。


ルカ18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。

詩篇35:15 だが、彼らは私がつまずくと喜び、相つどい、私の知らない攻撃者どもが、共に私を目ざして集まり、休みなく私を中傷した。
35:16 私の回りの、あざけり、ののしる者どもは私に向かって歯ぎしりした。

マルコ15:19 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。
15:20 彼らはイエスを嘲弄(ちょうろう)したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。

Tペテロ2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

戻る