2013年3月31日「枯れた骨からの新生」エゼキエル37:1-14

序−イースターは、私たちのために十字架にかかられたイエス様が復活された記念日です。私たちが救われて、イエス様が十字架の死からよみがえられたことによって、イエス様を信じる私たちも復活の命にあずかっています。それは、救われた者が新しい命に生きるためです。このことをイメージするのを助けるのが今日の箇所です。

T−枯れた骨からの回復−1〜3,11
 神の民にとって滅びることなど考えられないエルサレムが陥落し、神の民と呼ばれた彼らの国は完全に滅びました。そして、バビロン捕囚となった中で、預言者エゼキエルが見た幻を記しています。1~2節。夢の中なのでしょうか。彼が見た光景は、おびただしい数の骨が谷に満ちていたものでした。選民の夢は終わった、彼らは死んでしまった、ただ骨だけが残されたという光景です。これは、残された捕囚の民が、「自分たちは枯れた骨だ。全く望みのない者だ」とみずから言っていたのをあらわしているようです。11節。望みのない自分たちは、死んでいるようだというのです。
 人は何かしらに頼って生きています。それに頼ることができなくなると、人は絶望します。頼れないことは考えられないことだったので、たましいは死んだようになります。また、何を糧に生きてよいか分からず、空しさに沈むこともあり、死んだようになります。人生途上、家庭や学校のことで惑い、仕事や結婚のことで思い煩い、人間関係に悩み、問題や艱難で苦しみ、様々なことで失意と空しさに沈み込む時、「枯れた骨」のような状態になります。
 イエス様に出会い、救われる前の人々も「罪の中で死んでいた者だ」と言われています。エペソ2:1~3。もちろん生物学的には生きていました。自分の思いで生きていました。それは、人生の主人公は自分であり、世も自分を中心に回っているかのように考えていました。しかし、それは罪によって生きていた人生であり、罪の奴隷、サタンに支配されていた人生だったというのです。実際、何もかも自分の力で、自分の思いで生きることはできません。挫折や失意を味わいます。いや、少しも自分の思い、自分の力で生きることができないという人生もあります。自分を造られた神様を離れて生きるので、苦痛と不安、空しさの中に生きることになります。肉体的には生きていても、枯れた骨のような状態になります。
 人は誰でも幸せになることを願っています。しかし、多くの人が切実に願っている幸せを探すことができず、空しさや失意、不安や恐れに陥るのです。一瞬のうちにすべてを失い、頼るべきものが無くなった時、ひどい絶望状態に陥り、目指していたものが得られず、空しさで茫漠とした心となります。「枯れた骨の谷」は、そういう人々の心なのです。その枯れた骨の谷間にイエス様が来てくださいました。世に救い主が来られました。
 「この骨は生きることができるのか」と聞かれています。どうしてこんなことを聞いているのでしょう。彼らが、自分たちを「私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる」と言っていたからです。彼らが絶望だと思っていたから、絶望なのです。枯れた骨だ、生きることができないと思っていたから、枯れた骨状態だったのです。怖いのは、人が自分で、絶望だ、枯れた骨だと思い込んでしまうことです。
 私たちが聞かれたら、何と答えるでしょう。預言者は神の民です。信仰があります。自分に頼ろうとしても、捕囚の身としては何もありません。「神、主よ。あなたがご存じです。」これは、諦めや投げ出した思いではありません。私にはできない、私には分らないという謙遜であり、けれども、神様はすべてを知っておられ、神様は御業をなされるという信頼です。どん底で、絶望の中で、不安と恐れの中で、私たちも「主よ。あなたがご存じです」と言いたいのです。

U−御言葉によって新しく造られる−4〜8
 神様は「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。」と言われました。4節。御言葉に力があります。信仰は、神の御言葉を聞くことから始まります。ローマ10:17。神様が、枯れた骨に命じると、骨が生き返ると言われるのです。5~6節。そして、預言者が御言葉通り骨に命じると、映画の特撮シーンのように骨に筋と皮と肉が付いて、骨は生き返りました。7~8節。復活の確信を与えるための強烈なシーンでした。イエス様の十字架からの復活による救いは、私たちに霊の体での復活の約束を与えます。それだけなく、今新しい命に生まれ変わって生きるようになるというメッセージです。
 枯れた骨が肉と皮が付いて生き返るように、私たちも御言葉によって一つ一つのことが備えられて生きるようになります。福音という救いの御言葉を聞いて信じると、罪が赦され、心の傷が癒され、憎しみや怒りの要塞が崩され、価値観が変えられ、環境が整えられて、新しい命に生きるようになります。イエス様による救いは、罪の中に死んでいた者を生かすと約束されています。エペソ2:4~5。実際、御言葉によって、死んだような人が生き返るようになります。ですから、私たちが真実な信仰に生きて行くには、御言葉による養育が必要です。Tペテロ2:1~2。そうしないと、霊的には死んだようになり、罪に生きるようになります。妬みや争いの肉の人として生きるようになります。
 なぜ私たちが礼拝で御言葉のメッセージを聞き、セルで御言葉の分かち合いに養われ、弟子訓練で御言葉に整えられるのでしょうか。信仰は御言葉にはじまり、御言葉に養育され、御言葉によって造り変えられて行くからです。御言葉の養育によってイエス様に似た者となるまで成長します。エペソ4:15,Tヨハネ3:2。イエス様を信じたら、御言葉の乳を飲まなくなる人がいます。御言葉を聞くだけで知識で終わるなら、食べて養われないなら、枯れた骨になってしまいます。
 御言葉には力があります。信じて従うならば、神様の恵みと御力が注がれます。信じて、御言葉を食べて生きるなら、本当に生きる者になります。

V−主の霊が内に住んでくださる−9〜10
 骨に肉や皮が付いて体ができたとしても、生きた人にはなりません。8節。神の息が吹き込まれて、生きる者となります。9~10節。人が創造された時も、アダム、ちりから造られた人は、神の息を吹き込まれて、生きる者となりました。創世記2:7。預言者は、言われたとおり言っただけで、このリバイバルは、すべて神様の御業だということです。私たちが御言葉を証しし、伝えることで御言葉が生きて働きます。
 「息」は、「風、霊」とも訳されることばです。四方から吹いて来いとは、まさに風です。神様、御霊の存在は、目に見えませんが、風が見えないからと、風を否定する人はいません。草木が揺れ、肌に感じるからです。神の御霊、聖霊の存在も、信じて救われた人が、新しい命に生きる者となって行くことでその働きと存在を知ることができます。
 イエス様を信じる時、主の御霊が私たちの内に住んでくださるようになります。ヨハネ14:16~17。イエス様による救いは、罪の中に死んでいた者をイエス様と共に生かすということです。主の御霊は、「もう一人の助け主」と言われています。救い主イエス様が、信じた私たちの内に、御霊となって住んでくださるのです。どんなに素晴しいことでしょう。私たちの人生の旅は、同行一人、イエス様が共に歩んでくださるのです。
 しかし、御霊の内住はあっても、御霊に満たされて生きるのでなければ、空しさと問題の中で、「ああ、私は枯れた骨だ。望みは失せた」と嘆くことになります。心の王座に主をお迎えすることです。これがないと体は動いているが、その中に命がない状態となります。
 「彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった」と言います。枯れた骨が満ちた谷間、荒れ果てた地が、一変し,リバイバルし、再生します。荒れたこの地にイエス様の救いの福音が語られるなら、信じて救われ、罪に死んでいた人々は生き返ります。それは多くの集団になるというのが、神様の見せてくださったビジョン、幻です。枯れた骨の谷間は、この地であり、家庭や学校、職場でもあります。その荒れた地が再生し、死んでいた魂が生き返るのです。私たちが、そのために用いられます。用いられるために、先に救われたのです。
 最後の部分では、死者の復活をさらに表現しています。12~14節。直接的には、70年後のエルサレム帰還の予言ですが、イエス様の復活を予表したものと言われます。ヨハネ20:9,ルカ24:26。そして、イエス様の復活のゆえに、救われた者も御霊のからだをもって復活することが約束されています。Tコリント15:42~44。この復活の約束にある私たちは、今すでに新しい命にあるのです。イエス様が私たちの罪と滅びの身代わりとなってかかられ、復活されることによって、私たちに罪の赦しと復活の望みを与えてくださいました。Tコリント15:20。
 たとえ私たちの心が枯れた骨のような心だったとしても、荒れ果てた地のような人生だったとしても、イエス様の十字架と復活を信じるなら、天国への命をいただき、今新しい命に生きることができます。イエス様の救いに与る者は、みな新しく造られた者となるのです。Uコリント5:17。それは新しい希望へつながっています。苦難も労苦も、私たちを再び生き返らす過程だったということになります。詩篇71:20。



エゼキエル
37:1 【主】の御手が私の上にあり、【主】の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
37:2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。
37:3 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」
37:4 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。【主】のことばを聞け。
37:5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
37:6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが【主】であることを知ろう。」
37:7 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。
37:8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
37:9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。
37:11 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる』と言っている。
37:12 それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。
37:13 わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが【主】であることを知ろう。
37:14 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、【主】であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。──【主】の御告げ──」


エペソ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──

ローマ10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

Tペテロ2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

ヨハネ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

Tコリント15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

詩篇71:20 あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。

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