2013年4月14日「主が共におられる幸い」詩篇46:1〜11

序−今日の詩篇は、エルサレムが敵に包囲されて、陥落しそうになるほどの危機の中で、神様に助けを求めて助けられた時に作られたものです。神様が助けてくださった時、聖徒たちが経験したことが記されています。艱難や憂いに出会う私たちへのメッセージです。

T−神はわれらの避け所、また力。−1〜3
 危険なことが起こる時、災害が起こる時、必要なことがあります。ひとまず安全なところに避難することです。1節。敵の攻撃を受ける時、神様が聖徒たちの避難所になってくださったと証ししています。私たちは、困難や問題に出会った時、いたずらに動き回ったり、闇雲に戦ったりするでしょう。いつもその事ばかり思い、悩み心配し憂うることもするでしょう。そうして、倦み疲れ、絶望し、自分を追い詰めてしまうのです。しかし、避難することを考えてみましょう。神様の御前に身を置いてみましょう。神様は、私たちが問題や憂いで「苦しむとき、そこにある助け」なのですから。
 神様が私たちの避け所、避難所です。他のどこに行くことができなくても、神様のところに避難することができます。イエス様を救い主と信じて救われた者は、神様の子どもとされています。避難して来るのを喜んで待っていてくださいます。神様が私たちの疲れた心を憩わせてくださり、渇いた心に命の水を注いでくださり、傷ついた心を癒してくださり、疲れた体に元気を取り戻してくださいます。大預言者エリヤが倦み疲れて、絶望し恐れた時、神様のもとで休ませてくださいました。T列王19章。私たちも倦み疲れた時には、憂鬱になった時には、多くの聖徒たちが口ずさんで来た詩篇23篇を思い出して口ずさんでみましょう。
 私たちは、神様の助けがなければ、世にあって勝利することはできません。神様は、どんな困難な中でも、必ず私たちを助けてくださるお方です。これを信じるなら、私たちも聖徒たちのようにこう言うことができます。2-3節。これは、戦いが起こって、国が揺れ動いていることが、大きな地震による大地の変化に喩えられています。大きな艱難は、それを受けた人にとって、まさに天変地異のような衝撃なのです。
 それでも、神様に避難する者は恐れないというのです。預言者エリシャを捕らえに敵の軍勢が取り囲んで、召使が恐れてエリシャに訴えた時、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」とエリヤは言いました。彼の目が開かれると、敵軍を取り囲む火の馬と戦車が見えました。U列王6:14-17。私たちも、艱難の中で、憂いと失意に沈む時、神様のことを考えないで、自分には何もないように思い、問題の大きさだけ恐れます。神様を避け所とする者には、神様が味方なのです。
 私たちは羊であり、イエス様は羊の門と言われます。ヨハネ10:7。私たちが様々なことで心乱し、心配の洪水におぼれそうになる時、私たちは、イエス様の門の中に避難しましょう。困難な時こそ、救われている者の価値観を取り戻し、本当の平安を回復する機会となります。

U−神様を避難所とする方法−
 それでは、私たちは、どのようにすれば神様を自分の避難所にできるのでしょうか。どうすれば、神様の力を自分のものとできるのでしょうか。火の戦車や羊の門は私たちには、見えません。避難所はどこにあるのでしょうか。イエス様こそ、その身を犠牲にして私たちのために与えてくださった避難所、避けどころです。マタイ11:28。イエス様の御前に憩うことができます。聖徒たちが神様の御言葉に信頼する時、勝利することができました。私たちにとって、御言葉が生きて働く教会こそ、避難所となります。
 教会と言っても、正しい御言葉が宣言され、聖徒たちが御言葉を受け入れ、御言葉に生きている教会です。そこには、必ず悔い改めがあり、人々の変化があるからです。その上には、人々の見えない神様の力が覆っているので、神様の守りを受けることができます。アッシリヤが攻めて来た時、神の民には御言葉も生きており、悔い改めがあり、守られました。しかし、バビロンが攻めて来た時には、人々の心に御言葉がなく、悔い改めもなく、そのために神様の御手の力もありませんでした。教会も同じです。ですから、私たちが憂うべきは、何か世事のことではなくて、どれほど私たちが御言葉を真実につかんで生きているかいうことです。主の前に謙遜に信仰に生きているかということが、本当に重要です。そうであれば、世が襲い掛かって来ても、私たちは守られます。神様が私たちの避難所となるからです。
 自分の思いでいっぱいになると、神様から離れて、霊的に沈滞してしまいます。神様の御許に来て考えてみることです。そうすれば、神様が私たちの進むべき道を明らかにしてくださいます。御言葉をくださいます。一緒に戦ってくださいます。祈りが大切です。頭で信じるだけでは艱難に勝てません。「苦しむとき、そこにある助け」と言っています。1節。ですから、私たちも艱難に会うことがあり、危機に陥ることがあるということです。それは、神様が私の助けとなってくださる機会です。どんな艱難であろうとも、私たちをその中に一人で置かれることはありません。信仰を持って出て行くならば、危機は幸いに変えられます。

V−神様が共におられる幸い−4〜11
 私たちが神様を避け所とする時、受ける幸いがいくつか語られています。その一つは、豊かな恵みの川です。4節。避難所に必要なのは、水です。イエス様が命の泉です。イエス様をたましいの避難所とし、救い主と信じるなら、渇いたたましいが救われ、潤わされます。ヨハネ4:14。新しい命に生きるようになります。力が注がれます。ですから、私たちは、自分自身が考えるよりはるかに大きな潜在的力を持っているのです。仕事でも学びでも潜在的な力が出て来ます。ただ、霊的沈滞のために、力を出すことができないのです。イエス様を避け所とするなら、出て来ます。
 二つ目は、揺るがない幸いです。5節。私たちよりはるかに力がある敵が押し寄せて来た場合、自分の力ではどうにもならない問題に出会うなら、恐れて、揺れ動いてしまいます。困難な事が起これば、人は心配し、悩むようになります。しかし、信仰で受け止める人は、祈りの中で揺るがない心を求め、心が安らかにされます。困難な事もよくなっていくことを見ます。困難の解決は、神様が与えてくださいます。ですから、私たちには心配するよりも、神様に祈ることが必要です。「揺るがない霊を私にください」と膝をかがめて祈ります。詩篇51:10。
 三つ目は、平和という幸いです。9節。神様は、武器をだめにして、戦えなくします。平和をくださいます。私たちが神様に避難し、助けを求める時、神様は平和という幸いをくださいます。神様に避難することで、私たちを不毛な戦いから退かせてくださいます。聖徒たちが大きな試練に会って、神様に絶対に信頼するという信仰を持つならば、祝福と守りを与え、信仰の成長を導いてくださいます。神様は、私たちを理由無く悩ませるお方ではありません。私たちを信仰の本道に戻すために、困難の中を通らせるという意味もあります。困難の後に、必ず平安を用意してくださっておられます。御言葉をしたい求める者に信仰のリバイバルを与えてくださいます。
 教会が平安を与えられ、信仰がリバイバルしていくことは、とても重要なことです。それは、御言葉をしっかり握って進んで行く姿です。信仰を持って行くのでなければ、長く忍耐することはできません。正しい目標をもって出て行くなら、持続的な幸いを受けるようになります。
 四つ目は、神様が先立って助けてくださる幸いです。11節。「やめよ」というところは、「静まれ、力を捨てよ」とも訳されます。「あなたがたは、静かにしていなさい」と神様が言われる時は、いつでしょう。たとえば、神の民が紅海を前に絶望していた時です。出エジプト14:14。神の民の前には海、後ろにはエジプトの軍隊が迫って、民は一斉にモーセと神様に文句を言いました。そのような状況の中で、神様は「黙って、静かにしていなさい」と言われました。なぜなら、すでに神様の救いが用意されていたからです。海の中に通るべき道が用意されていたからです。
 時々神様は、私たちにもそのように語りかける機会があります。もうすでに神様は準備しておられるという意味です。私たちの目には悲観的に見える時が、心配や憂いで揺さぶられる時です。なぜなら、私たちが静かにして、神様の驚くべき救いの御業を見るようにさせるためです。「やめよ、静かにしていなさい」と言われるのは、神様が私たちのために事を行われるからです。私たちは、いたずらにしゃべり過ぎです。騒ぎ過ぎです。静かに神様の御声を聴き、神様の御業をみるべきです。
 そして、この詩篇で繰り返され、強調されていることは、主を避け所する者に「万軍の主はわれらとともにおられる」と言われる励ましです。7,11節。様々のことで心揺れ動き、右往左往し、苦しむ私たちに、イエス様は「あなたのために十字架にかかりました。すでに勝利しています」と言われます。ヨハネ6:33。イエス様が「もうひとりの助けぬし御霊」として、私たちの内にともにすんでくださっています。ヨハネ14:16-17。イエス様は、インマヌエルと呼ばれましたが、その意味は「神は私たちとともにおられる」という意味です。マタイ1:23。どんなに大きな励まし、安心でしょうか。



詩篇46 指揮者のために。コラの子たちによる。アラモテに合わせて。歌
46:1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
46:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
46:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。 セラ
46:4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
46:5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。
46:6 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。
46:7 万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。 セラ
46:8 来て、【主】のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。
46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
46:10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
46:11 万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。 セラ



詩篇62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。 

イザヤ25:4 あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

詩篇51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

戻る