2013年4月28日「堅固な城、堅固な信仰」詩篇48:1-14

序−この時期、「春高楼の花の宴♪」と歌われるように、城跡の桜の花は一段と美しいです。美しい城と美しい花が相まっているからです。この詩篇も、エルサレム城の美しさと堅固さがほめたたえられています。1~3節。

T−大いなる神、堅固な都−1〜3
 「大いなるお方」と賛美され神、全世界を造られ、治めておられる神が、この小さい国イスラエルを選ばれ、その民を愛され、守られました。世の人々は、イスラエルは小さい力のない国だと考えました。それは、間違いであることは、都エルサレムを尋ねてみれば分ります。そこに神様が臨在しておられることを感じるのです。エルサレムの住民にとって、神様が実際的な存在だからです。目には見えないけれども、人々の人生の中に生きておられるからです。神の恵みがその生活全体にあらわれていました。教会でも同じです。私たちには、神様が臨在される礼拝、御霊の内住する生活があります。
 その国がただの小さい国でないことは、敵が攻撃する時に分ります。神様が直接この城を守られるからです。3節。エルサレムを攻撃するならば、雹や雷をくだされます。詩篇18:13,Tサムエル2:10。敵がやたらに触れることができない神様の城であることを見せてくださるのです。外見上は、2-3節で言うような華麗で堅固な城ではありません。しかし、中は堅固なのです。表から見れば、見るべき価値がなく、小さく見えるのですが、中身は強国であり、勇士なのです。イザヤ60:22, ヨエル3:10。神様がそうしてくださるからです。
 その城の人々の信仰は、華麗で堅固でした。城の中では人々は同等で、差別がありません。主の御前には、富貴、性、年齢の別なくすべての人が神の家族でした。人々の価値観、判断のよりどころは御言葉だったからです。主の前に、人々は誠実で正直であろうとしました。古代でそんな都市がどこかにあったでしょうか。古代の都市は、正しい価値観はなく、貪欲や罪が増長され、現代よりも酷いものでした。族長時代には、神の民は極力町に近づきませんでした。腐敗や堕落の影響を受けるからです。
 そして、この城には平和がありあました。人が集まれば生じてしまう妬みや争いが、神様の臨在の中で戒められていたからです。Tコリント3:3。神様の恵みと祝福が人々の心にあふれるばかりに注がれたからです。その城には、神様の命があふれていたのです。賛美されるように麗しい、喜びのある城でした。その絶頂期のエルサレムは、美しい都市でした。人の貪欲や罪が抑制されて、神様の恵みが満ちていた城でした。
 しかし、エルサレムの人々が利己心でその城を変質させる時には、弱い都市となり、妬みや争いが生じ、人々の心から希望が失われてしまいます。エルサレムという町は、外見上普通の小さな弱い町ですが、その中に神様の御言葉が入っていれば、神様に守られた堅固な美しい町となったのです。これは、教会もそうです。私たち自身の人生もそうです。神様は、このエルサレムの祝福を、イエス様の救いのゆえに今私たちに与えてくださるのです。
 教会こそ、「シオンの山の都」です。私たちも平凡な人々として教会に集められています。しかし、私たちの内にある御言葉と神様の恵みは平凡なものではありません。偉大な神様の栄光の御力です。イエス様の十字架のゆえに、信じる者に与えられた恵みです。私たちが集まって、神様に栄光を帰するなら、神様は恵みと力を私たちに注いでくださるのです。私たちの顔には喜びと光があるようになります。私たちの心も姿も変わります。Uコリント3:18。
 そのような人々が集まる教会も、聖霊の臨在されるところです。神様の御前に出て来て礼拝をささげるならば、恵みを受け、変えられるのです。御言葉と御霊の臨在に満たされた教会を体験するならば、なぜ人々が古代のエルサレムをそのように美しい城だ、と称賛して慕っていたか分ります。教会は、神様の臨在と力ある御言葉によって人々が変えられ、新しい人とされるところです。麗しい堅固な信仰共同体となります。そのような主の恵みの満ちる教会には、人々が集められます。
 ところが、人々が自分の高慢や欲心のために教会に集まるなら、そこには神様の恵みも光もありません。御言葉を食べても腐敗し、罪が出るところとなります。妬みや争いのあるただの人間の集まりとなります。私たちが神様の臨在の前に謙遜に出て行くならば、神様は私たちに恵みと祝福を注いでくださいます。教会が本来のその美しい機能を回復するならば、教会は世の希望となります。

U−都を守られる神様−4〜7
 その美しい城を見ると、国々の王たちが攻撃しました。4節。その理由は、妬みと高慢のためです。エルサレムのために王たちの悪や堕落が目立ち、心が落ち着かず、攻撃せずにはいられなかったのです。この城が光の城であり、真理の城であったために、悪い王たちの悪があらわとなるからでした。世には外見の立派な大きな城や宮殿があっても、その中には人の高慢と欲望が渦巻いており、腐敗や混乱がありました。世には、大きな建物や経済的繁栄があっても、人の罪と欲による腐敗と混乱が渦巻いています。同じく聖徒たちも、妬みや高慢のために人々から攻撃されます。驚き、嘆いてはなりません。麗しく堅固な信仰に対する妬みや高慢の故なのです。Tペテロ4:16。
 彼らがエルサレム攻めた結果は、どうなりましたか。5~7節。悪い王たちがエルサレムをどんなに攻撃しても、滅亡させることができませんでした。なぜなら、彼らがエルサレムを攻撃すればするほど、エルサレムの人々はもっと神様の前に悔い改めて、正しく、誠実になろうとしたからです。普通は、自分たちの間違いや罪も省みないで、怒り、争い、憎みます。そこに付け入られ、争いが増長されます。しかし、悔い改めて、正しくなろう、聖くなろうとするので、付け入ることができないのです。そして、攻撃して来る者に神様が稲妻と雹をくだして守ってくださいました。さらには、攻撃する者の中にも良心が痛む者があらわれ、反対したり、逃げ出したりするようになります。
 教会も聖徒たちも、同じように守られます。私たちが、神様に御言葉だけ握って聞き従うなら、神様は私たちにこのような栄光をくださいます。どんなに霊的に沈滞していたとしても、真実な礼拝をささげて、霊的に生きるようになります。私たちがただ純粋に御言葉にだけ握って生きるならば、教会を守り、家庭を守り、艱難に耐えるようにさせてくださいます。
 しかし、教会が、クリスチャンが御言葉の前に立つことができなければ、本当に危険です。世の興味や自慢の種を教会まで持ち込もうとするのは、危険です。悔い改めることをせず、困難な状況を恨み、神様に背を向けることも危険です。困難や攻撃は、いわば私たちをもっと純粋に御言葉を信じさせ、神様に素直により頼ませるためでもあります。エルサレムへの敵の攻撃がそのように用いられたからです。御言葉で自我に死のうすれば生きるようになり、自我に生きようと神様から離れれば霊的に死ぬようになります。しかし、聖霊の働く教会や御霊に導かれる聖徒たちが、たとえ攻撃や艱難で外面的には倒れそうに見えても、内面的には命の泉が絶たれることはありません。ですから、敵は私たちの内にあります。私たちがどんな心でいるかということです。妬みや高慢に囚われないようにしなければなりません。

V−神様に信頼し、御言葉をそのまま信じる−8〜14 
 神様の御言葉をそのまま信じる者は、どんな幸いを受けるようになりますか。8節。「聞いたとおりを、そのまま見た。」彼らは、先祖たちから聞いていました。それは、神様の民が御言葉を守るなら、神様が祝福をして、敵の攻撃から守ってくださるということです。御言葉通り信じてみたら、その通りの出来事が目の前で起こったのです。5-7節。御言葉そのまま素直に信じる者には、御言葉は生きており、神様の力が働きます。
 聖書はただ印刷された本ではありません。神様の生きた御言葉です。御言葉をそのまま信じて行うなら、神様の力と恵みがあらわれるようになります。ですから、私たちの心配すべきことは、御言葉を素直に信じないことであり、御言葉に聞き従わないことです。私たちが御言葉を純粋に信じて従うなら、神様が私たちのことを心配してくださいます。神様は、私たちの救いのために、イエス様を十字架に渡されました。神様の御言葉をつかむ者には、堅固な人生が築かれます。9節。「あなたの宮の中で」というのは、「礼拝をささげながら」ということです。御言葉により頼む者には、礼拝をささげる中で、神様が慈愛に満ちた御言葉を通して悟らせてくださいます。
 そのような信仰で生きるようにされたので、神様を賛美しています。10-14節。賛美するということは、御言葉を宣言することです。証しして、確信をもって信仰生活をするということです。礼拝で悟ることは、生活で実践されます。生活で感じることは、礼拝で確信するようになります。この両輪がなければ、信仰は成長しません。
 「シオンを巡り歩け、やぐらを数えよ」とは、どういう意味でしょうか。今までエルサレムが守られたのは、やぐらの数や城壁の高さではないということです。神様の義と愛の力が守ってくださったのです。私たちた守られたのも、私たちの力ではありません。御言葉を信頼して、御言葉に聞き従うなら、守られ、祝福を受けます。エルサレムのどこに力があったのか。それは軍事力や見張り台の数にあったのではなく、神様の御力、御言葉にあったのです。14節。私たちが、ただ神様に信頼し、純粋に御言葉に聞いて生きて行くなら、神様は、変わりなくずっと私たちをその御力でもって守り、祝福してくださるのです。マタイ8:13、Tコリント1:27-31。
 


詩篇< 48 > 歌。コラの子たちの賛歌
48:1 【主】は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。
48:2 高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。
48:3 神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。
48:4 見よ。王たちは相つどい、ともどもにそこを通り過ぎた。
48:5 彼らは、見るとたちまち驚き、おじ惑って急いで逃げた。
48:6 その場で恐怖が彼らを捕らえた。産婦のような苦痛。
48:7 あなたは東風でタルシシュの船を打ち砕かれる。
48:8 私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た。万軍の【主】の都、われらの神の都で。神は都を、とこしえに堅く建てられる。 セラ
48:9 神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。
48:10 神よ。あなたの誉れはあなたの御名と同じく、地の果てにまで及んでいます。あなたの右の手は義に満ちています。
48:11 あなたのさばきがあるために、シオンの山が喜び、ユダの娘が楽しむようにしてください。
48:12 シオンを巡り、その回りを歩け。そのやぐらを数えよ。
48:13 その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。
48:14 この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。



詩篇18:13 【主】は天に雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。雹、そして、火の炭。
18:14 主は、矢を放って彼らを散らし、すさまじいいなずまで彼らをかき乱された。

Tサムエル2:10 【主】は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。【主】は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。

イザヤ60:22 最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、【主】が、すみやかにそれをする。

ヨエル3:10 あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。

Tコリント3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

Uコリント3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

Tペテロ4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。

マタイ8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

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