2013年5月5日「あなたの人生を考えてみなさい」詩篇49:1〜20

序−私たちは、日ごろ人生について考えてみることがあるでしょうか。どんな思いで生きているでしょうか。人は神様の似姿に造られた尊い存在なのに、動物のように生きている人々もいます。どんな価値観で人生を生きるのか、それが問われています。生き方で、人生が違って来ます。

T−なぞを解き明かそう−1-4
 神様は、盲目的に生きている人々を招いて、御言葉を聞くようにされます。1-2節。神様は、世のすべての人々に対して、人生をよく考えるように言われます。大抵の人々は、人生について考えることなどなく生活しています。しかし、ときおり起きる事件を通して、私たちは人生の根本的なことへ思いを向けさせられのです。大きな病気、身近な人の死、災害や事件に会う時、人生について考えるようにさせられるのです。
 大過なく過ごせればいいと考えても、人は誰でも、苦闘を経験し、もがくことがあります。そうして、自分の人生の意味を探し、見出さなければなりません。私たちの人生自体、神様が考えるように与えられたものだと言えるでしょう。神様はこの詩を通して、「あなたの人生を考えてみなさい」と、招いておられるのです。3~4節。自分の人生についてあまり考えることがないですか。考えるのと考えないでは全く人生が違って来ます。こうして御言葉に触れる時、人生について考えてみましょう。
 もし、人が永遠に生きることができる教えや薬があるならば、世界の果てまでも探しに行くでしょう。徐福伝説のようなものがたくさんありました。でも、地の果てまで言っても、見つけることはできません。ところが、ある時から誰でもいただけるようになりました。それは、ただ御言葉を聞く機会があれば、永遠の命を得ることができるというものです。それは、人の力で得ることができるものではなくて、神様が一方的に分けてくださる救いのプレゼントです。ローマ3:24。なぜ、神様がくださるこの福音というプレゼントが本物と言えるのでしょうか。福音を受けとって信じた人が変わるようになるからです。確かに新しい命に生きるように、美しく変えられるからです。
 詩人は、「なぞを解き明かそう」と語り始めています。なぞなぞは好きでしょう。人生のなぞ、永遠の命をどうして得るのか、という重要なテーマの答えを教えてくださるというのです。興味をもって、いや真剣に御言葉に聞きましょう。

U−命を買い戻すことができるのは−5-12
 人が世で生きるのに最も頼りとするのは、多くの財産があることです。財産を多く築くことができれば、何でもできると思うからです。しかし、財産の力でできないことがあります。5-7節。「わざわいの日」とは、やがて死んで裁きを受けることです。人生を財産に頼って生きて行く人々も、その財産が通用しない時が訪れます。地上の生涯が終わる死の時です。重要なことは、どんなに財産を持っている人でも、死を避けることはできないということです。財産で死後の神様の裁きを免れることはできません。「兄弟をも買い戻すことはできない」と言うのは、財産を信じて生きて来た人を裁きから救い出すことはできないと言うことです。
 「私を取り囲んで中傷する者の悪意を恐れない」と言っています。財産を信頼する者たちが、神様に信頼する神の民を嘲(あざけ)り侮(あなど)るのですが、それに惑わされないと言っているのです。悪意をもって中傷する者たちのように、財産に信頼するのでなく、神様だけに信頼するということを言っています。
 お金で様々なものが買えても、永遠の命だけは買うことができません。8-9節。人生の価値は大変尊いものです。全財産を投げ出しても、自分の命を救うことはできません。人のたましいは、それほどに尊いものだからです。私たちは、無限の可能性をもって世に生まれて来ています。しかし、それはただ神様がくださる聖霊の力を受けてこそ、可能性があらわれるようになります。それは、神の一人子イエス様が自分の罪と滅びのために十字架に死なれた、という救いを信じることで得られます。
 財産や権力よりも、まず自分のたましいの救いが先です。そして、その他のことを考えるようにするのです。人が救われて神様にだけより頼む人になることが先決です。そのような人が財産を持つことになっても、高慢になりません。財産を神様がゆだねてくださったものと知って、それを神様に喜ばれることに尊く用いるようになります。
 しかし、財産でもって自分の人生を守ろうとする人は、道を間違って永遠の命を失ってしまいます。10-11節。人は誰でも、死に至ります。それにもかかわらず、愚かな人々は、死を考えないのです。そして、人の死を見ても、自分は永遠に生きられるかのように富を握り締めるのです。死んだ後は握ることができないのを知っているのに。その理由は、何が本当に価値あることなのか知らないためです。愚かな人々は、富を備えても自分の死のための備えをしないのです。ルカ12:16-20。
 人が死ねば、そのお金はみな誰か他の人のものとなります。なぜ死の前に備えができないのでしょう。死を考えたくないからです。しかし、神様の民は、死を頭の中において生きるのです。人が死んで何が残りますか。建造物?業績?何も残りません。ただその人が世に生きて人と交わり、人を愛したことだけ残ります。ですから、人を愛さない人生は空しいのです。人から愛されることだけ考えて、人を愛そうとしないのは、空しいことです。12節。人は「栄華」や尊厳さの可能性を持っていたのに、獣のようになって滅びるということです。私たちが栄光や尊さを持つことができないのは、欲や怒りのせいです。怒りが出るならば、動物のようになります。そのために多くの人々が人間関係を壊し、争い、悲惨な状態になります。
 イエス様が来られたのは、人がそのような罪の病を癒すためです。イエス様を信じると、罪赦され、怒りの病が癒されるようになります。狂った怒りの発作がなくなります。それは、自分が神様の前にどれほど尊い者であるか悟るようになるからです。イザヤ43:4。そして、自分自身を愛するようになります。自分を愛する人は、人を愛することができるようになります。マルコ12:33。この狂気を治療されない人は、動物のままです。20節。サタンに衝動を唆されると、人間性は吹き飛んでしまいます。

V−死後のこと−13-18
 人は、舞台の後に起こることを見ることができないために、目の前のことだけ見て、拍手喝采するものです。同じように、人々は、お金持ちが葬式まで派手にするのを見て、うらやましがるのです。しかし、それは人生の舞台を降りた後の世界を見ることができないからです。13節。「愚か者どもの道」とは、死ぬ時まで財産を握っていることです。財産により頼む人の中には、世ですでに身を滅ぼしている人も多いです。あまりにも度を越して我欲を働かすためです。
 どうしてそのようになるのでしょうか。彼らは死んだ後どれほど恐ろしいことになるか知らないために、滅んでもいいと言って我欲に走るのです。14節。富により頼む者と死の関係は、彼らが羊のように滅びに引かれて行くようなものです。世にある間は、悪者も神様の恵みを受けます。健康も富も栄華も受けます。しかし、神様の恵みを奪い取っていただけで、結局滅びに向かうというのです。イエス様は、富める者が天国へ入るのが、ラクダが針の穴を通るよりもっと難しいと言われました。マルコ10:25。財産を目標として生きる人は、永遠の命を受けることができないという意味です。富める者でも、天国へ入るのは、富を神様のしもべとして用いた人です。信仰の金持ちは、決して富を目標に生きる人ではありません。
 それでは、正しい人はどうなるのでしょう。15節。神様は貧しい義人がよみに落ちないようにし、神様の御手の中で永遠の命を享受できるようにしてくださいます。イエス様の例話に貧しく死んだ人が天国へ入って、世のすべてを享受した金持ちが地獄に落ちて苦しんでいる姿が描かれています。ルカ16:19~31。イエス様は、富と神と二つに同時に仕えることはできないと言われました。マタイ6:24。
 貧しいから大丈夫だということもありません。貧しい人たちも、金持ちがよく生きて自分が貧しくなる時、心が大変傷つき、妬み、羨みます。それは、その人の心と生き方を曲げてしまします。貪欲に富を求めて欲を満足させて生きる方がいい、と考え違いをするようになります。それで、諭しています。16~17節。大切なことは、この世で多くのものを得ることではなく、イエス様を信じて永遠の命をいだだき、ただ神様により頼んで平安に生きて、天国に入ることです。信仰がないなら、どんなにお金があっても、どう使っていいか分りません。重要なのは、財産よりも信仰です。
 お金がなくても、人を愛し、奉仕することはできます。お金があると何をするでしょう。財産を積み上げ、盗まれないように守ることです。18節。お金で人がすることは、自分を祝福して、人の称賛を得ることです。お金をあげるなら、人はそのようにするからです。自分が貧しくて神様だけをより頼んで生きるしかないことは、不幸だ不運だということではありません。そのように生きることが幸いなのです。
 私たちは、我欲に振り回されて動物のように生きるのでしょうか。尊い存在として自画像を回復して、神様の御前に生きることを享受できることが、大きな幸いです。Tヨハネ5:11-13。



詩篇
49:1 すべての国々の民よ。これを聞け。世界に住むすべての者よ。耳を傾けよ。
49:2 低い者も、尊い者も、富む者も、貧しい者も、ともどもに。
49:3 私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。
49:4 私はたとえに耳を傾け、立琴に合わせて私のなぞを解き明かそう。
49:5 どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。私を取り囲んで中傷する者の悪意を。
49:6 おのれの財産に信頼する者どもや、豊かな富を誇る者どもを。
49:7 人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。
49:8 ──たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない──
49:9 人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。
49:10 彼は見る。知恵のある者たちが死に、愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、自分の財産を他人に残すのを。
49:11 彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。
49:12 しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。
49:13 これが愚か者どもの道、彼らに従い、彼らの言うことを受け入れる者どもの道である。 セラ
49:14 彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝は、直ぐな者が彼らを支配する。彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。
49:15 しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。 セラ
49:16 恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。
49:17 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。
49:18 彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。
49:19 あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。
49:20 人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。



ローマ3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

ルカ12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

マルコ10:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。

マタイ6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

Tヨハネ5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

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