2013年5月12日「感謝のいけにえをささげる人」詩篇50:1〜23

序−IT用語に無限ループというものがあります。聖書の士師記に、無限ループに陥っている神の民が描かれています。士師記3:7-12。@自分勝手に歩む⇒A困難が起こる、外敵が来る⇒B主に助け求める⇒C士師が立てられ、助けられる⇒@穏やかになるとまた自分勝手に⇒。詩人の時代の神の民は、礼拝をささげているのに、この無限ループに陥っていました。神様が、この無限ループから神の民を引き上げようと語られます。

T−堂々巡りからの引き上げてくださろうと−1〜6
 士師記の堂々巡りで描かれていた民の自分勝手な姿は、「主の前に悪を行った」と記されています。確かに、自分勝手に歩む姿は、神様に背を向けて、肉の思いで歩んでいるのですから、悪も行うでしょう。誤った信仰の堂々巡り、空しい自分教の無限ループに陥ってしまうクリスチャンも実に多いです。そこで、ご自分の民を愛される神様は、その状態に陥っているその民を助け出すために、御前に召喚されます。1-6節。
 「神の神、主」とは、みな違う言語で表現されています。公式的名称で、神様の力とさばきと救いが表されているようです。神様が審判官となって、自分の民を裁判に召喚しています。こうでもないと、気づかないのでしょう。今まで、お父さんと思って高を括っていたら、裁判官として登場した、という観です。イエス様の愛をいいことに、神様を恐れることなくわがままに振舞って、堂々巡りに陥っていたので、裁判に召喚しておられるのです。私たちも、襟を正して、主の前に出たいと思います。
 詩というものは、短い言葉の中に多くのことを含み、印象深く強調して伝えようとしているものです。この詩篇では、裁判のイメージで伝えています。6節で「神こそは審判者」と言われているのですから、神様の裁判に召喚されていることが分ります。召喚されている者は、5節で「わたしの聖徒たちを集めよ」と言っているので、神の民です。証人は、「天と地」です。1,4節。天地の創造主が裁判官ならば、これまで神の民の歴史を見て来た天と地を証人とする、ごまかせないぞということです。
 2節の「光」も、隠れたものを明らかにする、ということです。3節の「火、嵐」は神様の顕現であり、とりわけ裁き主をあらわします。「黙ってはおられない」というように、聖徒たちの思い違いや誤り、肉の思いや悪を見過ごさない、そのままにしておけないということです。5節に「わたしの契約を結んだ者たち」を召喚されていますから、召喚の理由は、神様との契約違反です。神様は、神の民をエジプトから救い出される時、契約を結びました。「いけにえにより、契約を結んだ」と言っているのは、救ってくださった神様が民に律法を守るように求められ、民は神様にいけにえをささげて感謝し、罪のための宥めの供え物をするというものです。出エジプト20章。新約の民にすれば、イエス様の十字架による救いとその恵みに応えて生きるという恵みの契約です。

U−神の民の間違った思い、御言葉に聴き従わない姿−7〜15
 では、裁判の内容です。7~15節。とりわけ、誤った民の考えを正そうというのが、裁判官である神様の御心です。「戒めよう」と言っていても、「わたしは神、あなたの神である」というように、ご自分の民に対する愛と優しさが込められています。自分勝手に歩むわがままな民は、「そのままでいいよ、恵みを与えるよ」だけ聞きたい、戒めは聞きたくないと言います。しかし、そのために無限ループに陥っているのですから、御言葉を聞かなくてはなりません。
 それも、神様は「いけにえのことで、あなたを責めるのではない」と言われます。「いけにえは、いつもわたしの前にある」と民が熱心にいけにえを奉げていることは認めておられます。神様は、私たちが忠実に礼拝をささげる、その熱心は認めてくださっておられます。なぜ、いけにえの動物を「取り上げはしない」と言い、「すべてのものは、わたしのものだ」と言われているのでしょうか。奉げ物は、すべては神様のもの、神様の恵みであるから、その一部を感謝してお返しするものでしたが、民の中には、神様から「取り上げられている」という思いでしている者もいたようです。これだけあげて、礼拝して、祈っているのだから、願った通りにしてくれということだったようです。
 いけにえは、民の罪の赦しを求める身代わりでした。神様がいけにえの動物そのものを求めたわけではありません。無限ループに陥っていた民には、大事なことが欠落していました。いえにえをささげる、その礼拝に大きな思い違いがありました。神様が求められたものは何でしょう。14節。「感謝のいけにえ」を神にささげることでした。肉の熱心や形ではなくて、心からの感謝を求められたのです。ホセア6:6。罪を赦され、天国への命を与えられることより、大きな恵みがあるでしょうか。神様は、救いの恵みに対する応答を私たちに願われるだけです。礼拝には、神様の恵みに対する真実な感謝の思いが必要です。
 「あなたの誓いをいと高き方に果たせ」というように、恵みに応える真実な心、私たちの神様に対する心のあり方が大事だということです。それなのに、感謝を忘れて、恵みに応える思いもないと、これだけしているのに、祈っているのに、私の思うようにしてくれないと文句を言い、別なものに心を向けていく、無限ループに陥ってしまうのです。それでは、士師時代の民よりまずいです。苦難の時には神様を呼び求めるのです。神様は拠り頼む者を助けてくださるのですから。15節。

V−肉の人、世の価値観で生活してしまう−16〜23
 十戒も主の祈りも、前半は神様に関してですが、後半は人に対してです。神様に対して心が伴っていなかった神の民は当然、人に対しても肉の人となっていました。16-20節。何と、神様との契約を破っていた彼らは、律法は口にはしていたのです。16節。御言葉は知っていても、従おうとしない姿が問われています。ローマ2:17-23。御言葉に対しては、守れるかどうかではなく、従おうとするかどうかが求められています。
 礼拝はきちんとして、御言葉を知っている者を、どうして「悪者」と呼んでいるのでしょうか。いけにえをささげる、礼拝するというのは、御言葉に生きるためだったのに、そうしないからです。17節。「戒めを憎み」というのは、戒めなんかいらない、恵みだけでいい、御言葉の訓練は受けたくない、という姿勢です。「うしろに投げ捨てた」というのは、気に入らない御言葉は、聞きたくない、目にもしたくないと反発している姿です。これが、不の連鎖に続く原因でした。
 そうすると、神の民であるのに、どんな者になってしまうのでしょうか。18節。「くみし、親しくなる」とは、世の悪いことに同意して、交わるということです。世の罪の姿、肉の人が価値観となってしまうということです。私たちは、世に住んで、世の人々を見ています。もし、私たちが聖書の価値観に立たないならば、肉の人となって、同じように罪や悪を犯すようになるのです。ローマ8:6~7。言葉の悪は、行為ではないので、罪の意識もなく、さらにひどくなります。19~20節。「口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる」ようになります。口を制御できなくなり、噂話、中傷、侮辱を言い放ち、欺き、裏切ります。同じ神の民に対してさえ、悪口を言い、欺きます。信仰共同体において、どうしてこのような悲惨な姿になるのでしょう。神様に背を向け、御言葉を無視したからです。
 どうして信仰を持つ者が、このような悲惨な無限ループに陥るのでしょうか。自分を神とするからです。21節。信じて、礼拝している者がひどい姿になってしまうのは、自分を神に等しい者としていた自分教のゆえでした。自分中心、御言葉よりも自分の思いを中心にすることは、自分を神とする姿です。そこに罪の根源があります。人間関係における悲惨な姿の原因があります。
 感謝がない、真実な心からの礼拝がないと、心が荒れ、肉の人となります。罪の考えに囚われ、文句や批判が口から出て来ます。当然、信仰による対処がないため、物事がうまく行かず、困難に対処できません。礼拝はしているのに、御言葉は知っているのに、真実な従順な心が伴わないため、うまく行かない、喜びがないとなります。空しい形だけの信仰は、無限ループに落ちてしまいます。そこから抜け出しましょう。
 最後に、判決です。22~23節。これは、神様の愛とあわれみに満ちた執行猶予です。なぜ、執行猶予になり、罰を免れるのですか。イエス様が代わりに罪を負い、十字架にかかられたからです。Tテモテ2:6。イエス様が十字架にかかり、私の身代わりに刑を受けられたからです。ローマ3:24。イエス様の十字架という尊い犠牲によって救われたのに、その救いの「神を忘れる者」となっては、無限ループに落ちたままです。己の思いが中心で、自分の望むように神様がしてくれることだけ願い、御言葉に聞き従おうとしない、神様により頼まない姿は、救いも神様も忘れています。
 「感謝のいけにえをささげる」これが、神様の勧めです。もう空しい不信仰と罪の無限ループに落ちないように、赦され、救われていることを忘れてはならない、感謝しなさいということです。Tコリント6:20。私たちは、イエス様が十字架という代価を払ってくださったので、罪の囚われから解放され、滅びという裁きを免れ、今新しい命を与えられています。ただ感謝して、神の栄光を現しながら信仰の生涯を生きたいのです。Tテサロニケ5:18。



詩篇< 50 > アサフの賛歌
50:1 神の神、【主】は語り、地を呼び寄せられた。日の上る所から沈む所まで。
50:2 麗しさの窮み、シオンから、神は光を放たれた。
50:3 われらの神は来て、黙ってはおられない。御前には食い尽くす火があり、その回りには激しいあらしがある。
50:4 神はご自分の民をさばくため、上なる天と、地とを呼び寄せられる。
50:5 「わたしの聖徒たちをわたしのところに集めよ。いけにえにより、わたしの契約を結んだ者たちを。」
50:6 天は神の義を告げ知らせる。まことに神こそは審判者である。 セラ
50:7 「聞け。わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。わたしは神、あなたの神である。
50:8 いけにえのことで、あなたを責めるのではない。あなたの全焼のいけにえは、いつも、わたしの前にある。
50:9 わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。
50:10 森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。
50:11 わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。
50:12 わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。
50:13 わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。
50:14 感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
50:15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
50:16 しかし、悪者に対して神は言われる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にのせるとは。
50:17 おまえは戒めを憎み、わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。
50:18 おまえは盗人に会うと、これとくみし、姦通する者と親しくする。
50:19 おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる。
50:20 おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、おのれの母の子をそしる。
50:21 こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれを並べ立てる。
50:22 神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。
50:23 感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」



ホセア6:6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

ローマ2:23 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。

ローマ8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。

Tテモテ2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

Tコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

Tテサロニケ5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

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