2013年5月19日「罪から私をきよめてください」詩篇51:1-9

序この詩篇は、有名なダビデの悔い改めの詩篇です。これは、私たちに人の罪の姿と罪を悔い改める人に関する新しい発見を与え、私たち自身の神様への悔い改めの思いをも変えてくれることでしょう。

T−神の御恵みによって−1〜2
 ダビデ王は、預言者ナタンによって自分の罪を指摘された後、神様の御前に悔い改め、赦しを祈っています。1〜2節。「罪をぬぐい去って、全く洗い去り、きよめてください」とは、その罪を無かったことにしてくれと言うことです。私たちが不思議に思わなければならないことです。恐ろしい罪を犯した後、情状を酌量してくれとは言えても、罪を無かったことにしろとは、誰も言えません。どうして、ダビデは、そう求めて、祈れたのでしょうか。
 バテ・シェバ事件を起こしたダビデ、罪に罪を重ねて大罪を犯した者なのに、王権も剥奪されず、神の民からも除かれてはいないのです。王権を剥奪された先王サウルよりずっと大きな罪を犯しています。ダビデの罪は、到底赦されるべきことではない、とそれを知る人々はいきり立つことになります。しかし、ダビデがナタンの例え話にいきり立って「そんなことをした男は死刑だ」と言うのですが、ナタンに「あなたがその男です」と言われてしまうくだりを思い出します。Uサムエル12:5〜7。
 私たちも、人生において少なからず罪を犯してしまった者です。自分の言動が引き起こした問題、自分の失敗や間違いの結果、自分の欲とわがままがもたらした事件等々で、良心の呵責にさいなまされたり、後悔の念に沈み込んだりすることもあるでしょう。それがゆえに、心病んだり、心が曲がったりもします。ですから、こんな大きな罪を犯しながら、悔い改めるダビデの姿に、私たちは習いたいのです。どうして罪を無かったことにしてくれと祈れるのか、赦しを乞えるのか、私たちは知りたいのです。
 ダビデは、「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください」と懇願しています。そうです。彼はただ「神様の御恵みとあわれみに訴えている」のです。私たちも、「神様の限りない御恵みと深いあわれみ」に訴えるのです。悔い改める罪人がそのまま滅亡され、捨てられてしまうことなく、救い出す責任を神様がとってくださいます。なぜでしょう。ご自分の民だからです。悔い改めるなら、赦し、救い出すと約束されておられるからです。U歴代7:14。
 恐ろしい罪があらわにされた後でも、ダビデは、どうして神様の御前に御恵みとあわれみを求めて、罪を無かったことにしてくれと要求できたのでしょうか。厚顔無恥なのか、罪を罪とも思わない者なのか。そうではありません。神様のあわれみと慈愛に信頼していたからです。私たちも、ダビデのように罪の赦しを懇願できる者とされています。なんという驚くべき恵みでしょう。罪の後悔や自己否定に陥っているべきではありません。
 「神様の御恵みをあわれみ」は、どんな鋼鉄よりも強く、どんな恐ろしい罪をも切ることができます。イエス様を信じた私たちは、自分を神様の恵みとあわれみに繋いだことになります。神様は、罪の赦しを叫び求めて来る者に赦しを与えなければならない責任を持っておられるのです。ですから、ダビデは、「ぬぐい去ってください、全く洗い去り、きよめてください」と、繰り返し懇願したのです。

U−私は神様に罪を犯した−3〜6
 不思議なことに、ダビデの告白は、「私は神様に罪を犯した」と言っています。3~4節。えっ、ダビデの罪はウリヤやバテ・シェバという人に対して罪を犯したのではないのですか。もちろん、良心の呵責も、人に対して犯した罪の重荷も知っています。ただまず、神様の御前に罪の解決が大事だということです。もし罪をそのままにして置くならば、罪に誘われ、同じような罪を繰り返すことになるからです。
 果たして私たちは、人に対しての罪意識を持つとともに、「私は神様に罪を犯した」という意識を持つでしょうか。それがないために、私たちは罪の繰り返してしまうのです。ですから、罪を意識したら、神様の御前に罪の赦しを求めなければなりません。裁きを神様に委ねなければなりません。4節。そうすれば、罪の赦しを確信することができ、罪の縄目からの解放を覚えることができます。Tヨハネ1:9。ほんとうに知恵があるのは、犯した罪をそのまま神様に持って行って、赦しを受けることです。そういう信仰を持っていることが、本当の知恵です。6節。
 罪は心の中まで腐敗させてしまうものです。「心のうちの真実」を神様は喜ばれます。私たちも、神様に対して真実な思いを持ちたいという思いです。罪を隠そうとすることは、愚かなことです。神様はご存知であり、誠実な心を喜ばれます。犯した罪を悔い改めて、神様の御前に出るならば、法的な責任はなくなります。つまり、神様の御前には罪がないことになり、緋のように赤い罪もきよめられるということです。イザヤ1:18。サタンの勢力も、私たちの罪を再び責める事ができなくなります。黙示録12:10。
 しかし、人々に対する道義的責任は残っています。果たすべき責任、支払うべきことがあります。一部の家来や息子の一人がダビデの王権を廃しようとしました。様々な恥と辱めは受けることになりました。そして、心の中に良心の痛みを遺されました。罪の痕跡を見ながら、高慢にならないように、神様に感謝して、誠実に歩むようにさせるのです。そうして、大罪を犯した彼を王座に据え続かせて、生涯神様に仕えさせました。私たちが罪を悔い改めるならば、神様は再び機会を与えてくださいます。これが、どんなにありがたいことでしょうか。人生新しくやり直せるのです。
 私たちは、失敗した過去を取り替えることはできません。それを考えていては、何もできません。後ろのものを忘れて、ひたむきに前のものに向かって行くのです。ピリピ3:13。そうすれば、進展と状況変化が生じます。ダビデは、肉の自分を信じたことを徹底して後悔しています。5節。これは、生まれた時から罪の塊だったと言っているいのです。そのままでは、ずっと罪の勢力に心の根本まで覆われてしまうというのです。罪に陥らないようにするには、自分中心にならないようにしなければなりません。
 驚くべきことは、ダビデという人がとても信仰の良い人だったことです。それなのに、大罪を重ねてしまったのです。これが人の罪の姿です。ダビデは、このような恐ろしい罪に陥ってしまったのは、一瞬のことでも、昨日今日のことでもありません。Uサムエル11:1〜2。ダビデが相当前から神様の御旨から外れていたということです。だから「そむきの罪」なのです。3〜4節。すでに彼の不信仰に罪を犯す元があったのです。私たちは、自分の心の状態を覚えなければなりません。神様に対してどうでしょうか。

V−私の罪を除いてきよめてください−7〜9
 7節に、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください」という表現があります。ヒソプは、古代のイスラエルで、聖めの儀式に使われた植物です。民数記19:6。悔い改めのいえにえをささげた後、祭司がヒソプに水を浸して、振りまきます。そうして、再び神の民の中に加えられ、聖徒の身分を回復されたのです。王であるダビデも、その過程を経たのでしょう。聖徒、クリスチャンという身分がどれほど重要であるか分かりません。神様の民、イエス様に属する者とされているのです。
 ヒソプが登場するところを引くと、あること、あるお方につながります。エジプトから脱出する時、神様から命じられた通り、子羊の血をヒソプに付けて鴨居や柱に塗ることで、滅びは過ぎ越され、助けられました。出エジプト12:21〜23。これは、イエス様の十字架の御業をあらわしています。ヘブル9:19〜20。聖餐式の時、エス様の流された血が、私たちの罪を赦し、御国へ続く命を与えるための「契約の血」だと言っています。マタイ26:28。イエス様を信じて救われた者は、主の民とされた者です。イエス様の血潮でもって聖められた者です。だから私たちも、ダビデのように罪の赦しを懇願し、きよめられた新しい人として生きることができるのです。
 イエス様が十字架にかかって、私たちの罪の身代わりとなってくださいました。エペソ1:7。今もイエス様がその十字架の御業のゆえに罪の赦しをとりなしていてくださっておられます。ローマ8:34。だから、私たちは、ダビデのように罪の赦しを懇願し、神様に祈るべきです。罪を犯したことに留まり、罪意識にさいなまれているなら、イエス様の犠牲を空しくすることになります。罪を言いあらわすなら、罪から解放されます。神の民として回復されます。神様の御前に礼拝をささげることができることは、本当に感謝なことです。8~9節。この世で最高の喜びは礼拝の喜びです。
 悔い改める以前は、神様がその骨を折られていた状態だった、と喩えています。ダビデの苦しみ、悩む心をあらわしています。赦しを与えられた後は、神様の恵みと祝福を聞くことができるようになりました。教会で聖徒たちと共に信仰にある恵みと喜びを体験できるのは、御国の前味と言われます。世のどこにもない喜びです。私たちは、イエス様の血潮によってきよめられ、新しく生まれた神の民、聖徒となっていることを感謝し、喜びます。そして、犯した罪を神様に言い表し、罪の赦しを得て生きたいのです。罪の自分は、イエス様の十字架と共に死んで、今は新しい命で第2の人生を生きることができるのです。ガラテヤ2:20。



詩篇< 51 > 指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき
51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。
51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。
51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。



U歴代 7:14 わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの
         地をいやそう。

イザヤ 1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と【主】は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

Tヨハネ1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

ヘブル 9:19 モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、
ヘブル 9:20 「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。

エペソ 1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

ローマ8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

マタイ26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

ヘブル13:20 永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、
ヘブル13:21 イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくだ
        さいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のために
        ご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

戻る