2013年6月9日「恐れのないところで恐れた」詩篇53:1-6

序−53篇の背景の一つには、アッシリヤがエルサレムを包囲して、神の民の信じる神様を否定したことがあります。U列王18:28〜30。お前たちの神なんて当てにならないぞ、と罵倒したのです。しかし、聖書は、彼らのような者が愚かだと教えています。ここから、聖書的世界観、価値観と生き方を学びましょう。

T−愚か者とは−1
 まず、アッシリヤのような者を「愚か者」と言っています。1節。面白いことに、愚か者とは、ナーバールという言葉ですが、ナバルという名の人物が聖書に登場しています。Tサムエル25:3,25。この人は「頑迷で行状が悪かった」「その名のとおり愚か者です」と言われています。しかし、この詩篇で言う愚か者の特徴は、「神はいない」と言っていることです。「心の中で」言っているというのは、言葉に出さないで心の中で言っているというのではなく、心の中心で言っているということです。すなわち、神を否定する価値観、世界観で生きているということです。
 聖書の教える世界観は、この世を神様が創造され、統べ治めておられるということです。創世記1:1,2:17。私たちを造られ、命を与えたのも神様です。この世の中のすべてのことは、神様の摂理の中で動いています。事実、私たちは、神様の守りと保護がなければ、一日も生きることができません。神様は、良い人であろうと悪い人であろうと変わりなく恵みをくださいます。それなのに、愚か者は神様の恵みを享受しながら、神様を認めないのです。太陽の恵みを享受して太陽を認めないのと同じです。
 人が神様の存在を認めないの理由は何でしょう。科学的でないからというのは当を得ていません。そのようにいう科学的?な人が迷信や占いに動かされているからです。世のものを自分のものにしたい、人生を自分勝手にしたいためです。それには、神様にいてもらったら困る、神様の干渉を受けたくないからです。この美しい自然、素晴しい宇宙を考えたら、神様を覚えずにはいられないのに、「神はいない」と言い張るのです。
 「神はいない」と考える者の姿は、「彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない」と描写されています。神はいないと言って、神から離れてしまった人間は、霊的に腐敗して、完全に罪に堕落してしまいました。ローマ3:11〜12。これが、神学的に言う「全的堕落」です。そこから救い出そうと、神様がご自分の御子イエス様を救い主として世に送られ、十字架に渡されました。神様のあわれみと慈愛の御業です。神の御子イエス様が私たちを罪と滅びを救うために来られたという明確な神様の御業が示されているのですから、神はいないなどと言うことはできません。
 神様を否定する心の中は、罪と腐敗が中心となってしまいます。人は心の中に入っているものが、そのまま言葉や行動として出て来るようになっています。マルコ7:15。神はいないと言っている大部分の人々は、一般的には人より頭が良くて、自信をもって生きているために、「愚か者」とは呼ばれてはいません。しかし、神様の目には、彼らの考えと行動があまりにも愚かに見えるのです。ルカ12:16-21。
 人とは一体どういう存在でしょう。考えてみれば、人は世に来るのに、何も持たないで世に来るのです。ヨブ1:22。そして、世を去る時には、空手で去るしかありません。結局世にある間、神様が人々に委ねてくださった贈り物であって、彼らのものではなかったのです。神様はそれらのもので互いを愛して仕えるように望まれたのに、愚か者は、自分のものでないものすべてを自分のものにしようと、人を傷つけ、奪い合ったのです。アッシリヤは、そのような国でした。

U−愚か者の行い−2〜4
 救いの歴史を通して人々に恵みとあわれみを与えられた神様は、人が神様を求め、御旨を悟ることを期待されました。2節,。神様は、私たち人間に無関心な方ではありません。天からご覧になって、私たちのすべてを知っておられます。詩篇94:8〜9。天から「神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうか」ご覧になられましたが、いませんでした。病人が自分の病気を認めなければ、医者は治療することができません。人間のそのどうしようもない罪の性質と腐敗のために、イエス様が来られ、十字架にかかって下さったのです。人を愛して、そうして下さった神様を否定することは、病気だと認めないで、治療を受けないでいる病人と同じです。
 神様がご覧になられた愚か者の姿は、神様にそむき、悪を行う姿です。3節。人の心は、罪で壊れていて、自分の力では到底善を行い、滅びから抜け出ることはできませんでした。それで、慈愛の神様は、御子イエス様を世に送ってくださいました。イエス様が救い主として来られたということは、人間は罪と滅びの中にあることを認めなければなりません。すぐに悔い改めて、救いを求めなければなりません。
 しかし、そのようにする者はいませんでした。4節。狼のような愚か者たちが、羊である神の民を痛め付け、蹂躙したということです。神様が愚か者の満ちる世に神様を信じる者、神の民を置かれた理由は、何でしょう。愚か者を正しい道、救いの道に導くためでした。誰でもイエス様を救い主と信じれば救われる、ということを見せてくださるためでした。神様の民の特徴は何でしょう。神様の民の特徴は、自分を信じないで神様を信じることです。神の民とは、狼が羊に変わった者たちなのです。この神の民のように悔い改めて神様に従う者となりなさい、という神様は求められました。しかし、愚か者たちは、神を呼び求めようとはせず、パンを食べるように神の民をむさぼり、奪い取ったのです。貪欲で獰猛なアッシリヤは、神様を否定し、神の民を蹂躙し、多くのものを奪い取りました。
 イエス様の例え話にぶどう園の主人の話があります。収穫を得ようとしもべを次々送るのですが、悪い農夫たちはそれを袋叩きしてしまいます。ついに一人息子ならと送ると、ぶどう園を我が物にしようと殺してしまうのです。神様が預言者を送り、ついに御子イエス様を送られたのに、それを認めず、拒んだことを喩えたものです。マタイ21:33~43。愚か者の姿が、まさにこれです。サンプルのパンを食べてしまったら、もうそれを真似て作ることはできません。救いのためのサンプルである神の民を痛め付け、蹂躙したら、救いの道が分からなくなってしまいます。
 私たち自身は、自分が救いのサンプルだという気概を持たなければなりません。私たちを通して、神様のご計画を知らない人々が救いに与るように、そこに置かれている大事な存在なのだ、ということをわきまえつつ、証しの生活をすることが大切です。神様を知らない人々、神様を否定する人々のために、私は地の塩、世の光とされているのだ、ということを意識しておられますか。

V−愚か者の恐れ、神の民の祝福−5〜6
 神様は、サンプルのパンを食べてしまう愚か者に対して、警告されます。5〜6節。53篇の背景の一つに考えられるアッシリヤによるエルサレム包囲の結果は、アッシリヤ軍が陣営で神様に打たれ、その後王のクーデター暗殺で終わります。U列王19:35〜37。神の民を襲う敵が、しばしば恐れの中で同士討ちをして滅び、敗退することがあります。たとえば、ギデオンが三百人でミデアン人を夜討ちした時、多数の敵は驚き恐れて同士討ちをしてしまいました。士師7:22。神はいないと言っていた彼らが、いかに「恐れのないところで、いかに恐れたか」を示しています。神様を認めない者たちは、恐れるほかありません。神様を否定する者にとって確実なものは何もないからです。
 神様を否定するは、自分自身がどういう者であるか、分かりません。私たちは、神様に似せて造られた者です。神様に命を吹き込まれて生きる者となりました。たとえ全世界を手に入れたとしても、神様から離れて自分のたましいを失ったら、これほど空しいことはありません。神様にそむき、神様から離れたら、恐れは増大します。恐れの題材は限りがありません。大国を築いたとしても、大軍勢があったとしても、権力や財力を握ったとしても、「恐れのないところで、いかに恐れたか」とならざるを得ません。
 しかし、神様に信頼し、拠り頼む神の民は、一時期は敵の攻撃や困難、病気に恐れるかもしれませんが、「神が御民の繁栄を元どおりにされるとき」が来ます。私たちクリスチャンから、恐れを取り除いてくれるのは、何でしょう。神様への信頼であり、天地万物を造られた神様が自分の神であり、その神に造られた者は愛されているという価値観、世界観です。そして、何よりもイエス様の救いに与っていることです。罪赦され、死に打ち勝ち、天国への命をいただいているという救いの恵みが、新しい人生を生きて行く基盤になっています。
 イエス様を信じている者は、恐れがなくなります。Tヨハネ4:18。イエス様が私の滅びの身代わりとなられた、私の痛み、悲しみ、病をみなその身に負ってくださった、というイエス様の愛に、恐れは締め出されるのです。恐れるならば、すべてを造り治めておられる神様を恐れるべきです。箴言1:7。そうすれば、他のことは恐れる必要はありません。ですから、神に信頼する神の民は「楽しめ、喜べ」とという命じられています。イエス様を信じて救われた者は、人生を大いに楽しみ、喜ぶことができるのです。



詩篇< 53 > 指揮者のために。「マハラテ」の調べに合わせて。ダビデのマスキール
53:1 愚か者は心の中で「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。
53:2 神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
53:3 彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
53:4 不法を行う者らは知らないのか。彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、神を呼び求めようとはしない。
53:5 見よ。彼らが恐れのないところで、いかに恐れたかを。それは神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らされたからだ。あなたは彼らをはずかしめた。それは神が彼らを捨てられたからだ。
53:6 ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。神が御民の繁栄を元どおりにされるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。



U列王18:35 国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。【主】がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。

ローマ3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。

マルコ7:15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」

詩篇94:8 気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。
94:9 耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。

Tヨハネ4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

箴言1:7 【主】を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

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