2013年6月16日「神は私を助ける方」詩篇54:1-7

序−人が憂鬱になり、絶望するのは、問題や艱難で行き詰って、袋小路に入っているような思いになる時です。ダビデは、祭司の町ノブの殺戮事件後、逃れる町はなくなり、荒野や険しい山地に隠れるしかありませんでした。表題のことは、ジフの天然の要害に隠れていたダビデをジフの人々が密告したという事件です。Tサムエル23:19〜20。どこにも逃げる所はないではないか、という追い詰められた思いがこの詩篇の背景となっています。

T−危機の時の祈り−1〜2
 追い詰められ、袋小路に入っているような気持ちの時、ダビデはどうしたのでしょう。1節。神様に祈りました。人が、自分の力で何もできない、どうしてよいか分からないという困難の時、自暴自棄になってしまいます。そのような時出て来る思いが、恨みと否定です。危機の時、人は自分の状況を自分で判断して、袋小路に入り込んでしまうのです。しかし、ダビデは、神様に祈って、神様の判断にお任せしています。
 これが、私たちが危機の時取るべき態度です。危機の時こそ、私たちの信仰が出て来るものです。恨みと否定が私たちの口から出て来るならば、自分を袋小路に追いやることになります。「神様、どうして祈ったことと違うことが起きるのですか。なぜ、御言葉と現実がこんなに違うのですか。」というふうに、神様に説明を求めています。そうするだけで、神様に戻り、袋小路から出ることになります。
 危機の時、むしろ祈らない傾向があります。「祈らなくても、神様がご存知だから。祈ってもだめなら、祈らなくても。」というように考えるのです。でも!危機の時こそ、祈ることが大事です。2節。危機の時ささげる祈りは、神様の無線ランだからです。袋小路に入っている自分とつなぐものです。自分の状態を教えてくれ、自分が取るべき行動を教えてくれます。
 危機の時祈らないのは、自分の祈りを神様は聞いていない、一方的な独り言だと考えるからです。でも、神様は聞いていてくださいます。患者を診察する医者のように、私たちの状態を点検してくださいます。そして、医者が治療計画を立てるように、神様は私たちを導く道をつけてくださいます。ダビデがジフの人々の密告を聞いた時、霊的状態は最低でした。
 しかし、祈ることで彼の霊的状態が良くなり、神様のメッセージをしっかり聞くことができたのです。私たちは、危機の中で神様の信号を受けるだけでなく、神様の栄光を見ることもできるのです。それなのに、祈らないで自暴自棄になるなら、どうなるでしょう。恨みでいっぱいになり、否定的な考えしか浮かばなくなります。心の体も病んでしまい、良くない行動へ向かうかもしれません。艱難の時も神様につながって、祈りをする人は、困難を通して訓練を受け、信仰も成長します。確かに助けられます。

U−見知らぬ者たちの密告−3〜4
 ダビデは、危機の中の祈りで、自分を取り巻く状況、自分の状態を神様に報告しています。3節。これが大事です。私たちの祈りは、自分が考え、計画したことを祈ります。大抵「〜してください」とだけ祈るのです。それでは、神様は働くことができないかもしれません。しかし、ダビデの祈りは、危機の中でその置かれた状況、自分の状態を神様に報告し、訴えているのです。それでこそ、神様は受け止め、動いてくださいます。
 ダビデの報告に一つの特徴的な表現があります。「見知らぬ者」が、自分に敵対し、命をねらっていると訴えていることです。ノブ事件では、ダビデを陥れたのは、ダビデを妬むドエグやサウルでした。しかし、ここでは何の因縁もないノブの町の人々でした。ダビデは、ノブの人々に何ひとつ悪いことをしていません。でも、ノブの人々は、知らせないことでサウル王の報復を恐れたのか、サウル王に取り入ろうとしたのか、どちらにしても何の関係もない者まで、敵対しているという状況です。
 「見知らぬ者が」という表現に、ダビデの苦しさがにじみ出ています。私たちも経験することがあるでしょう。利害関係のある者に妬まれ、悪く思われるならまだしも、利害関係がない人々や知らない人々から敵対され、悪く思われることは大変辛いことです。直接関係のない会社や地域の人々から敵対される、友人や親戚等知り合いから悪く言われる、そういうことが私たちにもしばしば起こります。とても悲しい辛いことです。
 人は、そういうことに出会うと、怒り、反発し、自分の方でも敵対的な態度に出るものです。しかし、神の民、クリスチャンは違います。反発や怒りよりも、「見知らぬ者たちは自分の前に神を置いていないから」と理由を述べています。十字架上のイエス様も、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と言われました。ルカ23:34。「自分の前に神を置いていない」人は、自分が害を受けたこともないことでも、自分の利益や恐れで行動するものです。 
 一方ダビデは、イスラエルの人々に害を与えたことはなく、神様に従って行動しました。サウルに敵対することなく、町々を外敵から助ける働きもしていました。「自分の前に神を置く」神の民については、神様が守ってくださいます。4節。私たちは、もうすでにイエス様の救いを受け、愛され、守られている存在です。「自分の前に神を置く」者なら、怒りや憎しみから解放されます。自分の前に神を置くとは、自分が神様の御前にいることを自覚することです。ダビデは、この信仰があったので、自暴自棄に陥ることからも、恨みや復讐心を抱くことからも守られたのです。
 見知らぬ者が自分を密告して自分を苦しめていると神様に報告したのは、どんな意味があるのでしょうか。報告しないからと言って、神様が状況を分からないということはありません。しかし、自分の状況を神様に詳しく申し上げるというのは、どれほど成熟した祈りでしょうか。私たちが状況について何も考えない時には、ただただ一方的に自分の願いを祈り、間違った祈りもぶつけます。それでは、その状況も自分の状態も認識できません。成熟して来たら、自分の状況を神様に報告する祈りをします。
 「神様、私は今こんな状況に置かれています。敵対する者がこのように動いています。」という報告のような祈りが、神様に対してとても重要です。神様が、報告をもとに働いてくださるだけではありません。報告することで、私たち自身、自分の状況を霊的に受け止め、神様の取り扱いをキャッチする準備ができるようになり、神様に応答に気づくようになります。ダビデは、危機の中での敵の動きを報告し、自分の状態も神様に申し上げています。これが、危機の時にささげる信仰の祈りです。

V−主に委ねて感謝の礼拝を−5〜7 
このような信仰は、危機の中でも、将来に対するビジョンを捨てることはありません。ダビデは、目の前の危機を乗り越えることだけを考えていたのではありません。神様の偉大な御心がなされることを願っています。まず、神様が悪い者たちに報いてくださるように求めています。5節。これは、自分では彼らに報復しない、と言っているのと同じです。ダビデが復讐を願っているのではなく、あとのことは神様に委ねているのです。実際に、ジフ事件の前に、助けたケイラという町が裏切っても、報復することなく、そこから逃げることだけしています。Tサムエル23:12〜13。
 サウルもジフの町の人々も、ダビデの敵ではありません。ダビデは、イスラエルを守る使命を神様から受けている者です。ですから、彼は、ノブの人々やサウルに対する感情をすべて神様に委ねているのです。ひどいこと理不尽なことに接すれば、怒りや憎しみの感情も生じるでしょう。しかし、それで憎悪を掻き立てられたり、敵対したりすることはしません。箴言20:22。その感情も神様に申し上げ、取り扱ってもらっていたのです。イエス様の救いを受けた者は、肉の感情は神様に委ね、善をもって悪に打ち勝つようにされています。ローマ12:19〜21。
 神の民がする本当の報復は、その人が救われて、神様のために生きるようになることです。悪に愛で対するなら、サタンの手先が神様のしもべに変えられます。自分にあだなすその人も神様の救いに預かるべき尊い存在です。その人が救われ、改心することこそ、私たちの願いです。
 そして、感謝の礼拝をささげています。6〜7節。神様の恵みが先にあって、それに感謝していけにえをささげています。危機の中で懸命に神様に祈ることで滅びの穴から引き上げられ、恨みや否定の思いから解放されたからです。神様は、自分の訴えに耳を傾け、聞いてくださり、展望を持てるようにしてくださったからです。
 イエス様の救いは、私たちの病いや痛み、悲しみや恐れまでも、その身に負われました。危機の時私たちが体験する悲しみや恐れ、病いや痛みまでもご存知です。イザヤ53:3〜6。ですから、イエス様の十字架のゆえに救われた者は、危機の中でも絶望することなく、生きて行くことができます。Uテモ4:17〜18。イエス様の十字架に救われたのですから、危機の中でも確信をもって新しい命で生きて行けるのです。
 7節のことは、救出される将来のことを信仰の目で見て言っているようです。事実、この後ジフの荒野に隠れていたダビデにサウルの追っ手が迫るのですが、そこにペリシテ軍の侵入が伝えられ、追跡中止。危機一髪で救われるようになります。Tサムエル23:26〜28。私たちも、危機の中でダビデのような祈りをしましょう。助けられ導かれて、展望を見せていただきましょう。そして、神様に感謝し、賛美をささげます。詩篇40:1〜4。



詩篇< 54 > 指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデのマスキール。ジフの人たちが来て、「ダビデはわれらの所に隠れているではないか」とサウルに言ったとき
54:1 神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください。
54:2 神よ。私の祈りを聞いてください。私の口のことばに、耳を傾けてください。
54:3 見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます。彼らは自分の前に神を置いていないからです。 セラ
54:4 まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。
54:5 神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます。あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください。
54:6 私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。【主】よ。いつくしみ深いあなたの御名に、感謝します。
54:7 神は、すべての苦難から私を救い出し、私の目が私の敵をながめるようになったからです。



Tサムエル23:19 さて、ジフ人たちがギブアのサウルのところに上って来て言った。「ダビデは私たちのところに隠れているではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。
23:20 王さま。今、あなたが下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちは彼を王の手に渡します。

ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

箴言20:22 「悪に報いてやろう」と言ってはならない。【主】を待ち望め。主があなたを救われる。

ローマ12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。
12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

Uテモ4:17 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私は獅子の口から助け出されました。
4:18 主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。

詩篇40:1 私は切なる思いで【主】を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、
40:2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
40:3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、【主】に信頼しよう。
40:4 幸いなことよ。【主】に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。

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