2013年6月30日「人が私に何をなしえましょう」詩篇56:1〜13
              

序−この詩篇の背景には、表題の示すのように、サウル王から追われたダビデが、ペリシテ人の地に逃れたという事件があります。Tサムエル21:10〜14。ところが、逃げ込んだガテの王の家来たちは、ダビデを殺そうとしました。サウル王から逃れようとペリシテの地に行ったのに、どうしてこんな目に、と考えるようになります。私たちも自分で色々考えて行動するでしょう。このダビデの経験から学びましょう。

T−神様がダビデに願われたこと−1〜2
 ダビデは、もうイスラエルには逃れる所はないと思って、ペリシテのガテに亡命しました。しかし、ダビデを警戒したガテの王の家来たちによって、殺害されてしまう危機に陥りました。その時どんな祈りをしたのでしょう。1〜2節。まず、「あわれんでください」と祈りです。その時のダビデの切迫感をあらわしています。「神様、どうか私を生かしてください」と切望している様子です。
 私たちも、自分で考えて行動した後、予想外の結果に動揺して、「どうして、私はこんなことをしてしまったのだろう。なぜ、ここに来たのだろう」と嘆くことがあります。ダビデにしてみれば、外国ならばサウルも追って来られないだろう、と考えたわけです。それに、何百人もの部下を従えています。用兵を必要としているガテの王に自分を売り込んだということです。ちゃんと考えていたのです。私たちも、自分なりによく考え、行動するでしょう。でも、こんなはずではと思うような状況に陥ります。
 ペリシテの将軍たちにしてみれば、ダビデはペリシテに大きな敗北を与えた敵です。サウル王よりもダビデを恐れていました。ダビデの亡命は、ダビデを葬り去る絶好の機会と見えたのです。ダビデは、よく考えたでしょうが、自分に都合よく考えたのです。ペリシテの将軍ならば当たり前の反応も、この時のダビデには予想できなかったのです。
 信仰の父と言われるアブラハムも同じような過ちをしています。飢饉のために約束の地から離れてエジプトへ行ったことがありました。その時、妻を王に奪われそうになりました。ダビデばかりか信仰の父と言われるアブラハムまでもが、このような行動を取って、危機に陥ったのです。まして、私たちが浅はかに考え、間違った判断をするのは当たり前です。人の考えには限界があります。肉の考えは、神様の前には愚かです。
 アブラハムにとってカナンは神様から行けと言われた約束の地です。そこで危機に陥ったら、神様が責任を取ってくださるはずです。神様の守りを祈って、導きを願えばよかったのです。ダビデも、すでにイスラエルの王として召されていました。危機の中でも、イスラエルの地に留まり、神様の守りに委ねるべきでした。そこを出ては、神様の召しに応えることはできません。私たちは、自分の考えを神様のご計画の上に置きがちです。自分で考えて、「〜してください」とばかり祈ります。そうならないと、「神様は聞いてくれない」と勝手に失望し、ますます別なことを考え、神様から離れてしまうのです。これは、大変危険なことです。
 自分の思いでは、「もうこれ以上ここでは生きられない」と考えるのですが、神様は、「自分の思いだけで考えないで、神様の約束をつかみなさい」と言われるのです。ダビデは、「もうイスラエルでは自分は生きて行くことはできない」と考えたのですが、残っていても生きることはできました。「自分なりの平安を求めて、主の御心を求めないでいいのですか。」私たちも、主の御声を聞かなければなりません。

U−それでも私に伴われる神様−3〜7
 ガテの王アキシュの家来は、すぐにダビデを殺そうと騒ぎます。5~6節。ダビデは、熊から逃れて虎の檻に入っているような状態です。将軍たちは、ダビデは勇士ゴリアテを倒し、多くのペリシテ兵を倒した敵だ、殺させてくれと、王アキシュに頼むのですが、不思議にもアキシュは、殺させようとはしません。それは、ダビデが神様に立ち返って、神様に信頼して、主の守りを確信する祈りをささげるようになったからです。3~4節。
 ダビデは、自分なりの安心を得ようとペリシテに逃れて来たのですが、ここでもっと大きな危機に陥りました。ここが大事なところです。「また、思うようにならなかった。神様は私を助けてくれない」と神様を信頼しないのか、「私の浅薄な考えでこんな状態になってしまいました。神様、信頼します。あなたは、私を助けてくださると信じます」と祈るようになるか、大きな違いがあります。人生を分ける祈りとなります。祈らなければ少しも耐えることができない切迫した状況です。信頼すると宣言して祈るから、守られるという確信が生じて来ます。イエス様の救いを信じた者は、神様に信頼することができます。
 そして、祈っていく中で、再び御言葉が心に浮かんできたのです。「私は御言葉を褒め称えます。」危機の中で、神様が近くにいてくださる、ということを思い出しました。神様が共におられるから、御言葉が浮かんで来ます。御言葉が枯渇すれば、栄光も枯渇してしまいます。御言葉が浮かんで来ると、神様の約束が思い出され、救い出される確信が生じて来ます。御言葉が臨む人は、絶望の中にいません。神様の御言葉自体にいのちがあります。御言葉が心に入って来れば、その人は生きるようになります。具体的な方法は分からなくても、気をしっかり持つようになります。
 ダビデは、よだれを流しながら、気が違った人の真似をした時、ガテの王アキシュは、ダビデを気の違った人と見て、手を下すことはしませんでした。Tサムエル21:13。

V−聖徒の苦しみを記憶される神様−8〜9
 ダビデは、ペリシテまで来て危機に陥った理由を考えてみました。もちろん、自分の考え、判断が間違ったことではあります。何よりも、神様は、ダビデがイスラエルの地で労苦することを願われたからです。それは、信仰のためでした。何と!神様は、神様を信頼して労苦する者を覚えて、その労苦と涙を記録されているというのです。8節。すごいことです。
 ダビデは、聖徒が信仰によって困難を受けることがどれほど尊いことか知っていました。神様は、聖徒たちが家から追われて歩き回る日数を数えておられるということです。神様は何のために惑い、悩んだ日を数えられるのでしょう。それらのすべてに報いてくださるためです。聖徒たちが流した涙の量を量っておられるというのです。何のためにそうされるのですか。流した涙に応じて報いてくださるためです。聖徒たちが悩んで眠られぬ夜を過ごした日数を数えておられます。苦しみに報いてくださるためです。何と言うあわれみでしょうか。
 神様に信頼する聖徒たちが、信仰のために受ける苦難があります。信仰のために追い出され、信仰のために失い、信仰のために受ける苦難のすべてに神様が責任をとってくださいます。心痛めて流した涙に応じて、神様の栄光で報いてくださいます。はじめは信仰がなかったとしても、苦難を受けて、悔い改めて信仰が生じるようになる場合もあります。その場合も、神様が責任を取ってくださいます。重要なことは、苦難自体よりも、信仰です。聖徒自身が、苦難を信仰をもって受け止めるのか、信仰なしに受け止めるのかによって、苦難の性格が完全に違って来ます。信仰なしに苦難を受け止めるなら、余計な苦難を受けるようになり、残るものは何もありません。しかし、イエス様のゆえに苦難を受けるなら、決して損ということはありません。報いは大きいのです。ヘブル10:35, 11:6。
 ダビデは、自分の誤りでペリシテの地に来てしまいましたが、信仰によって、この苦難を受けようとした時、苦難に応じて神様の報いがあると悟るようになったのです。たとえ自分の考えや判断が間違ったとしても、神様に委ねるなら、神様が責任を取ってくださいます。9節, ローマ8:31~32。神様に委ねるということは、そのことを思い煩わないということです。そして、神様がダビデに気が違った人の真似を命じられると、すぐに多くのよだれを流して、演じました。Tサムエル21:13。剣を抜いて戦う必要もなく、殺害される危機から抜け出すことができました。

V−未来に対する確信の賛美−10〜13
 ダビデが、死の危機から抜け出すことができたのは、心の中に御言葉があったからです。10~12節。それで、10節では、「みことばをほめたたえます」と、二度も賛美しています。ダビデがこのように賛美した時、彼の心から人に対する恐れが消えました。4,11節。御言葉を賛美して行くと、神様に対する信頼が強まり、苦難の中でも神様が守ってくださると確信するようになりました。信仰で勝利した瞬間です。
 終わりの部分には、ダビデの誓いが出て来ます。12〜13節。この誓いは、「神様助けてくださるなら、このようします」という条件付きのものではありません。私たちがそうしなくても、神様が助けてくださいます。もうすでに神様が死の危険から救い出してくださるという確信が与えられているので、感謝の賛美をささげ、新しいいのちで歩みますと誓っているのです。私たちイエス様の救いに与っている者は、滅びから贖い出されています。ヨハネ5:24。ダビデは、こうしてペリシテの地から死んだも同然の状況から救い出されました。ですから、これからはもっと神様の御手に委ねて、新しい命で神様の御前に生きると賛美したのです。



詩篇< 56 > 指揮者のために。「遠くの人の、もの言わぬ鳩」の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ペリシテ人が、ガテでダビデを捕らえたときに
56:1 神よ。私をあわれんでください。人が私を踏みつけ、一日中、戦って、私をしいたげます。
56:2 私の敵は、一日中、私を踏みつけています。誇らしげに私に戦いをいどんでいる者が、多くいます。
56:3 恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。
56:4 神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。
56:5 一日中、彼らは私のことばを痛めつけています。彼らの思い計ることはみな、私にわざわいを加えることです。
56:6 彼らは襲い、彼らは待ち伏せ、私のあとをつけています。私のいのちをねらっているように。
56:7 神よ。彼らの不法のゆえに、彼らを投げつけてください。御怒りをもって、国々の民を打ち倒してください。
56:8 あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。
56:9 それで、私が呼ばわる日に、私の敵は退きます。神が私の味方であることを私は知っています。
56:10 神にあって、私はみことばをほめたたえます。【主】にあって、私はみことばをほめたたえます。
56:11 私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。
56:12 神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。私は、感謝のいけにえを、あなたにささげます。
56:13 あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。



マラキ3:16 そのとき、【主】を恐れる者たちが、互いに語り合った。【主】は耳を傾けて、これを聞かれた。【主】を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。

ヘブル13:6 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

Tサムエル21:10 ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。
21:11 するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」
21:12 ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。
21:13 それでダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕らえられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。

ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ヘブル10:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

ヨハネ5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

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