2013年7月7日「驚くべき転換」詩篇57:1〜11

序−この詩篇は、表題にあるようにダビデがサウルに追われて、洞窟の中隠れていた時に起こった事件が背景となっています。Tサムエル24章。もう絶体絶命だという時、予想もしない方向へ事態は変わって行きました。私たちの人生においても、そのようにされるということを学びます。

T−嘆きの歌〜御翼の陰に身を避けて−1〜3
 サウルに追われて、洞窟の中に隠れていたダビデにダビデの追っ手が迫ります。もう逃げるところはないではないか。人は、そのような追い詰められた状況や心境になった時、「私に翼があればな」と考えたりするものです。「新しい状況に飛び出したい」と夢見たりするようです。この詩篇では、鳥どころか雛鳥になって親鳥の翼の中に避けたいと願っています。1節。追われている自分にとって安全な所はどこにもない。そう思ったダビデは、神様の御翼の陰に身を避けると言っているのです。
 まるで自分自身を雌鳥の羽の中に隠れるヒヨコに譬えています。「御翼の陰に身を避けます」という表現は、詩篇にもしばしば出て来ます。詩篇17:8。イエス様は、神様が民の民を救おうとされたことを「めんどりがひなを翼の下にかばうように」と表現されています。神様の守りと信頼を最高に表現したのが、この「御翼の陰に身を避けます」でしょう。雌鳥の羽の中は、ヒヨコにとって、すぐに逃げ込める最も確かな避難所なのです。他に逃げる所がありません。ここが最高に安全です。ダビデにとって、私たちにとって、神様がそういうお方なのです。
 どうすれば、神様の御翼の陰に行けるのでしょうか。主の御名を叫んで祈る時、そこが神様の御翼の陰となります。祈るうちに平安になり、困難が解決されると確信するようになります。祈る前と後では、心がまったく違うときがあります。そこに身を避けている間に困難が過ぎて行きます。
 神様の御翼の陰で何を考えますか。2節。もちろん、神様のことを考えます。困難の中で神様を考えることは、とても楽しいことです。「私のためにすべてを成し遂げてくださる神」だからです。神様を正しく知ることほど尊いことはありません。信じてはいるけれども、神様を正しく知ることだできずに、困難の中をさまよう人々がどれほど多いことでしょうか。私たちが神様を正しく知るだけでも、世を生きる元を手にしていることになります。重要なことは、ダビデには、神様は自分を決して捨てないという確信があることです。神様の御言葉の約束があります。ダビデは必ずイスラエルの王となることです。私たちが神様の御言葉に従順である時、結論は出ています。すでに私たちは幸いになれるのです。ただ、その時期と方法を知らないだけなのです。3節。このような時重要なことは、神様が自分の心を守っていてくださるという確信です。
 大事なのは、心です。心が萎えれば、祈りになりません。心から神様を信頼しましょう。神様は「恵みとまことを送られる」お方なのです。私たちが神様を忘れても、神様が私たちを捨てられることは、決してありません。神様は真実です。それは、困難の中での取り扱いにあらわれます。予想し得ない展開、進展となるのです。

U−今の困難な状況〜自分で掘った穴に落ちる敵−4〜6
 神様を覚える時私たちの心は落ち着いて来ますが、現実だけを見るならば、私たちの心は不安定となり、失望するほかありません。これが、私たちの矛盾です。それで私たちは、心と現実の間でいつも行ったり来たりしながら、喜んだり、霊的沈滞したりするのです。4節。ダビデの心は、神様の御翼の陰に憩っていたと思えば、今は獅子の中に投げ出されたような不安と恐れの中にいます。
 クリスチャンは、いつもこの二つのどちらかに傾いています。それによって天国を味わったり、地獄を経験したりするのです。数日毎に行ったり来たり、あるいは一日に何度も行き来したりするものです。気持ちが良くなってニコニコしていたかと思えば、次の瞬間には不安に囚われて震えてしまうのです。4節は、現実だけを見て神様を覚えないために、どれほど不安になり、敵を恐れるようになったかを詩的に表現しています。
 サウル王は、御霊に満たされないようになってからは、破壊的な人格となってしまいました。そして、周囲の人々にとりわけダビデに槍と矢、剣のように悪口雑言、妬み、恨みの言葉で攻撃したのです。サウル王のような人は、自分の心に少しでも合わないならば、怒って槍や矢のように攻撃的言葉を浴びせるのです。事実、クリスチャンにとって最も大きな痛みは、人から受ける言葉による痛みです。人格的な侮辱を与えるものなので、艱難や病気より耐え難いかもしれません。耳に聞こえるだけでなく、心に入って留まり、耐え難い苦痛を与えるのです。
 しかし、神様を信じる者たちは、自分の問題を詳しく調べるならば、転換点を見つけることができます。神様の導きを悟るならば、問題の反転を知ることができます。これは、驚くべき転換、反転です。崖っぷちまで行ったら、そこから反転するのです。敵対する者の攻撃がある所まで行くと、弱まる時があります。そこから転換して行くのです。
 ダビデにとっての驚くべき反転、転換点とは、いつでしょう。5~6節。それが、表題に示された洞窟での事件です。Tサムエル24:3〜6。ダビデが逃げ込んだエン・ゲディの荒野には多くの洞穴がありました。ダビデをエン・ゲディの洞穴まで追い詰めたサウル王、王自身が用を足すためにその一つに入って行くと、そこは何とダビデの一行が隠れていた洞穴でした。サウル王がダビデを捕らえようと穴を掘ったが、結局その穴にサウル王自身が落ちてしまったというわけです。他にも同じような事件があります。Tサムエル26:7〜10。ダビデを追い込んだサウル王たちが陣中で眠り込んでいるのを、探りに来たダビデたちが見つけました。網を仕掛けたサウルが、反対にダビデの手中に落ちたのです。驚くべき反転です。詩篇35:7~8。
 どちらも、ダビデはサウル王に手をくだしませんでした。これは、たまたま偶然ではなく、神様がなさったことだと分かっていたからです。そうして、神様がダビデを守ってくださったからです。これが転換点となりました。ダビデはこの一つの事件を通して、サウルの力が落ちて、自分の方へ力が移って来ていることを悟るようになりました。
 私たちにも、驚くべき反転の瞬間があります。たとえどん底まで落ちても、もうそれ以上落ちるところがないのですから、反転の時です。その瞬間から神様の御力があらわれ始め、その時から状況は目に見えて変わり始めるのです。もうそれ以上悪化しないならば、神様のあわれみが始まっています。ちょっとした状況の変化、人の対応の変化、それが私たちの人生の転換点、驚くべき反転の始まりとなるのです。神様を信頼して祈っているならば、転換点を悟ることができます。

V−感謝の歌〜状況の好転よりも信仰の飛躍−7〜11
 こうして、ダビデは、この一つの事件を通して、艱難の時代が終わり、新しい朝が来るのを眺めています。7~8節。これは、悪の勢力が倒れて真理の朝が来ることをダビデが確信したということです。確かに、まだサウルがイスラエルの王ですが、神様の栄光がサウル王から離れた瞬間から、すでにサウルは王ではないのです。ダビデは、サウル王が自分の手中に落ちたのを見て、確実に新しい朝が始まっていることを確信したのです。ダビデは、この驚くべき反転を通して、もうサウル王の時代は終わる、自分が王とされる新しい時代がもうすぐ来ると確信したのです。
 それは、神様がくださる朝です。8節。ダビデはもっと自分が目を開いて確信するように言い聞かせています。まだ完全な朝は来ていないけれども、すでに新しい朝が準備されていることを悟るようになりました。朝目覚めるのに、うるさい目覚ましや甲高い人の声より、美しい音楽で目覚めたいですね。ダビデも、そのような美しい音楽で目覚めると言っています。なぜなら、もうこれ以上人々の嘲りや侮辱を思い出して、心で聞いて目覚めるのではないからです。イエス様を信じて救われた人は、一人一人が大切な神の子ども人です。神様を覚えて喜びの朝を迎えたいから、美しい賛美が与えられています。自分の心を痛め、落ち込ませる人々の中傷や侮辱の言葉を思い出し聞くのでなく、神様の素晴しさと真実を賛美する音楽を聞いて目覚めるのです。ハレルヤ!
 ダビデは、自分だけでなく、イスラエルの民が人々の嘲りの声を聞いて目覚めるのでなく、神様を褒め称える賛美を聞いて目覚めることができるように賛美します。9~10節。神様守りと尊厳のある人生を歩めることを悟るように賛美しました。イエス様を信じて救われるということは、まさにこのようなことです。罪と滅びから解放され、人々の恨みや嘲りの言葉を覚えて目覚めるのでなく、神様の救いの恵みに賛美にあふれて目覚める人生へと変えられたのです。
 私たちも、イエス様の救いの素晴しさを賛美し、人々に告げ知らせたいのです。不安と恐れの中にある人々に、こんな人生があることを、主にある喜びの朝を迎えることができることを賛美し、証ししたいのです。ダビデも、全世界がこの素晴しい神様の救いを受けて、新しい朝を迎え、新しい人生を生きるように願っています。11節。イエス様に救われて、世の人々が新しい朝迎えることができるようにと願います。私たちを悩まし苦しめ涙させたものは消え、新しい朝が来ます。詩篇30:5。



詩篇< 57 > 指揮者のために。「滅ぼすな」の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに
57:1 神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。
57:2 私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。
57:3 神は、天からの送りで、私を救われます。神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。 セラ神は恵みとまことを送られるのです。
57:4 私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。
57:5 神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。
57:6 彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。 セラ
57:7 神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。
57:8 私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。
57:9 主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。
57:10 あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。
57:11 神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。



Tサムエル24:3 彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中に入った。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。
24:4 ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、【主】があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。
24:6 彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、【主】に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、【主】の前に絶対にできないことだ。彼は【主】に油そそがれた方だから。」

26:7 ダビデとアビシャイは夜、民のところに行った。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ており、彼の槍が、その枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵士たちも、その回りに眠っていた。
26:8 アビシャイはダビデに言った。「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。二度することはいりません。」
26:9 しかしダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。【主】に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」
26:10 ダビデは言った。「【主】は生きておられる。【主】は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。


詩篇17:8 私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。


ルカ13:34 〜わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。〜

詩篇35:7 まことに、彼らはゆえもなく、私にひそかに網を張り、ゆえもなく、私のたましいを陥れようと、穴を掘りました。
35:8 思わぬときに、滅びが彼を襲いますように。ひそかに張ったおのれの網が彼を捕らえ、滅びの中に彼が落ち込みますように。

詩篇30:5 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

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