2013年7月14日「選ばれた人々」Tペテロ1:1〜2

序−現代社会は、不安の時代と言われて久しくなりました。ますます混乱の度を極め、人々は、人生の土台をどこに置けばいいのか、将来への望みをどこへ向ければいいのか、日々の生活をどうすればしっかり歩めるのかということを模索しています。その答えが聖書の中にあります。この短い書簡の中には、キリスト教の真理が要約されて教えられています。まずは、どんな人々にどんなことが書き送られているのでしょう。

T−苦難を受けた人々−1
 この手紙は、使徒ペテロが、様々な圧迫を受けて、落胆しているクリスチャンを励ますために書いています。1節。今日も困難に接して落胆し、霊的沈滞に陥っている人々に対して、信仰にある励ましと慰めを与えています。ですから、不安と混乱の時代にあって、信仰の基本的真理を学ぶことが大切なのです。なぜなら、神様の御言葉には恵みと平安が満ち満ちているからです。ただ私たちには、御言葉と神信頼が不足しているために、祝福をしっかりつかめないのです。大過なく人生を過ごせれば人生平安だ、ではなく、様々な困難の中を乗り越えることが、聖徒たちの勝利なのです。そうなるためには、御言葉の力が必要です。御言葉は私たちの信仰を整え、成熟した信仰の人とさせるからです。
 1節の地域はすべて、今日のトルコ共和国の北方山間地域です。パウロが伝道した地域ではありません。五旬節の時にエルサレムに集まって来た人々が、ペテロの説教を聞いて信じて、これらの地域に帰って伝道して教会ができたようです。使徒2:9~10。初代教会の時代、とてもキリスト教が盛んな地域でした。それだけに、ローマ帝国の迫害もひどかったということです。ペテロは、クリスチャンが受ける迫害をイエス様が受けられた苦難と繋げています。イエス様が世で過ごされた生き方こそが、私たちクリスチャンが従うべき生き方であって、迫害や苦難があるからと言って落胆したり、挫折したりするものではないというのです。イエス様にある苦難があふれているように、イエス様にある慰めもあふれているからです。Uコリント1:5。
 信仰のゆえに主の御心に従ったにもかかわらず苦難を受けたならば、それこそクリスチャンとして本望だと言うのです。Tペテロ4:16。苦難を受けるクリスチャンとは、どういう人々なのでしょうか。

U−神様の選びの上に建てられる教会−1〜2
 1節の最後に、「散って寄留している」という言葉があります。「散って」とは、ディアスポラという語の訳です。この語は、全世界に散らされているユダヤ人のことでした。イスラエルの民がカナンの地から追い出された時から始まりました。彼らは、神様から選ばれた民でしたが、罪のために神様の恵みを忘れてしまい、アッシリヤやバビロンによってカナンから追い出されて、全世界に散らされて、多くの苦難を受けました。
 それゆえ、「散って寄留している」ということばの中には、本来いるところで生きることができなくて、他のところで苦難を受けているということを意味しています。なぜ、ペテロが、この地方の人々についてディアスポラという言葉を使っているのか。それは、この地方のクリスチャンたちが、様々なところから散らされて、苦難を受けていたからです。
 私たちが、自分がいたいところではない所で、のけ者にされ、苦難や悲しみを受けているとしたら、それがディアスポラの民と言えるでしょう。ペテロは、その地方のクリスチャンの事情を知っていたので、「散って寄留している」という言葉を用いたのです。いや、クリスチャンは、言わば世に散らされた寄留者です。なぜなら、私たちの本来の故郷は天国であり、私たちは、天国から今いるところに遣わされ、散らされている者だからです。ピリピ3:20。人々を助け、人々に仕えるためにその場に寄留しているのです。
 それでは、天の御国が私たちのたましいの故郷とされたのは、なぜでしょう。何か業績や能力があってのことですか。クリスチャンは、イエス様の十字架によって救われた者です。何か資格があって、救いに入れられたのですか。1節の最後にも、そして2節にも、「選ばれた人々」と言われています。重要な真理は、私たちに神様に「選ばれている者」だということです。教会とは、神様に選ばれた人々の群れだということです。
 「選ばれた人々」ということは、「神様に知られている」ということです。イザヤ45:4。ペテロは、誰彼も分からなくて選ばれたのではなく、「父なる神の予知に従って」選ばれたと言っています。神様は、私たちが誰であるか分かっていて、呼ばれたということです。何と、感謝なことでしょうか。神様が自分のことをよくご存知だというので、ある時には説教の御言葉が自分に語られている御言葉だと聞けて、ある時には御言葉が具体的に頭の中からほとばしり出て来るのです。そのような時、自分は一人ではなく、主が私と一緒におられると確信するのです。御言葉が私たちの心を治療することが分かります。私の救い主は私のことをよくご存知だ、ということは、苦難を受けている寄留者にとって、どれほど慰めと励ましとなったことでしょうか。
 「神の予知に従い、選ばれた」ということは、私たちの何かに救いがかかっているのではないという意味が入っています。エペソ1:5,11。私の状態と関係なく、神様は私の救いを決められて、救いの計画のままに、私を信じるようにされたということです。だから、私たちは救われたことをまったく神様の一方的な恵みと知って、感謝して、その恵みに応えて人生を生きるのです。教会は、神様の選びから始まっているのです。
 神の選びの教理、予定論と言われるこの教理がなぜ重要なのでしょうか。私たちは、不安の時代に生きています。いつ混乱が起こり、災害にあうかもしれない世に生きています。しかし、神様は私を知っていてくださるのです。何の資格もない私を呼んで、イエス様の血、すなわちイエス様の身代わりの十字架によって、私たちを罪と滅びからくださったのです。救いが神様の選びと予定にかかっていたのであれば、その後の救われた者を神様は知っておられ、苦難の中でも責任をもって導いておられるのです。ローマ8:32,エレミヤ29:11。自分の信仰の強弱や艱難の度合いに揺さぶられることはありません。

V−苦難の働き−2
 神様が守っておられるならば、なぜ私たちを信じる者たちに様々な困難と苦しみが訪れるのでしょうか。ここに、キリスト教の重要な苦難の神学があります。神様は、私たちが世において苦難がないことより、聖められることを願っておられるためです。2節。「御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように」とあります。神様が私たちに願われることは、神様の被造物として神様の御心にそって歩むことです。元来聖いものとして造られているのですが、罪のために本来の機能が死んでしまっている状態だからです。苦難は、とても重要な補助材料として用いられています。人は、世で平安に過ごせれば、別段神様を渇望することはしないのでしょう。しかし、大きな困難が訪れれば、全面的に神様の御前に這い出て来て、すべの傲慢と嘘を捨てて、神様を握りしめるようになります。その時、長年聖められなかった私たちが聖められ、変えられるのです。私たちが根本的に変えられるのは、御言葉と聖霊の働きですが、苦難はそのための心を備えさせる重要な働きをするのです。苦難は、私たちを聖め、造り変え、将来の信仰の成長へ導くのです。ローマ8:18。
 迫害下の聖徒たちは、苦難を受ける自分たち自身を「屠られる羊」と言っていました。助けてくれる者は誰もいない、完全な見世物状態でした。しかし、神様を切望し、聖霊の力が滝のように注がれたのです。骨の髄まで罪の性質が染みている人間が、正直で謙遜で聖められた者になるのは、とても難しいことです。しかし、苦難を通して全面的に神様を信頼して、涙を流して祈り、委ねる者は聖められ、変えられるのです。御言葉は私たちに働き、聖霊は私たちの人生を力強く導いてくれるのです。私たちは、イエス様が今も生きておられて、自分の主人であることを明らかに信じているでしょうか。自分の人生を導くのは自分ではなくて、主の御霊だということを信じているのでしょうか。御言葉を聞く度に神様の御声を聞いているでしょうか。
 神様が私たちを選ばれた理由は何でしょうか。「イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように」です。この地方の苦難を受けているクリスチャンは、目の前の困難のために幾度も心が弱くなりました。「イエス様を信じてもこのような苦難を受けるなら、何のために信じたのか」というような疑問を持ったのです。しかし、苦難は、彼らがどんな状況であれ、主に従順になって、信仰で勝利するためでした。ローマ8:35~37。
 「従順とイエス様の十字架の血」というなら、イエス様にとって、十字架で血を流されることが、もっとも大きな従順でした。マルコ14:36。死にいたるまで御父に従順でした。私たちにとって大きな従順とは何でしょう。それは、「イエス様の血の注ぎを受ける」ことです。その時から従順な人生が始まります。私たちが確実に従順になることは、神様に感謝することです。荒野のような世で霊的沈滞をせずに従順に生きて行くためです。
 私たちは、多くの苦難を経験して来ました。その時はその理由がよく分かりませんでした。しかし、考えてみると、後のために私たちを備えさせてくださったのです。困難の中にある聖徒たちを慰め、励まして、一緒に神様の御前に聖められ、変えられるようにするのです。Uコリント1:4~6。私たちは苦難の中でも、偉大な神様の御力でつかまえられています。神様に守られ、用いられて、信仰の生涯を歩まれることを願います。



Tペテロ1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、
1:2 父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。


Tペテロ4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。

ピリピ3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

イザヤ45:4 わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。

エレミヤ29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

マルコ14:36  またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

Uコリント1:4  神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
         1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
         1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

ローマ8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
     8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ローマ8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
      8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
      8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

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