2013年7月28日「試練の中での喜び」Tペテロ1:6〜9

序−信仰生活は、祝福の道ばかりでなく、暗い谷間や苦難の道もあります。しかし、その最中でも、世で比べることのできない神様の祝福が臨むようになります。クリスチャンは、ユニークな存在です。クリスチャンは不思議な秘密を持っています。それは、世の人々が知ることのできない喜びを持っていることです。それは、まったく喜べる理由がない時の喜びです。

T−しばらくの間試練の中で−6
 クリスチャンといえども、人生においてさまざまの試練に出会い、悲しみ、苦しみます。ところが、そのような苦難にもかかわらず、「大いに喜ぶ」ようになると言っています。6節。「えっ?」そんなこと、とても理解できません。どうして苦難の中で喜べるのでしょう。イエス様を信じる者が様々な試練が出会うということ自体、理解できないことです。「様々な試練」というように、仕事がなくて経済的な不安の中で生きている人もあれば、家庭の問題に悩んでいる人もあれば、病気になって痛んでいる人がいれば、精神的な悩みにある人もいます。クリスチャンでも、試練に会うならば、悲しんで悩み、落胆して憂鬱になります。
 さらに、クリスチャンは、世の人々が経験しない痛みまで受けるようになります。それは、神様の御心が分からないことで受ける痛みです。神様が御心を示してくれれば、そこを進む一生懸命進めばいいだけですが、分からないとさまようほかありません。私たちは、「神様に愛されて、幸いに生きる者になっているはずなのに、なぜ様々な患難に会うのか。真面目に信仰している私が、どうして苦難に出会わなければならないのか。」と思います。苦難の中で、「どうして、なぜ」と悩み、絶望するのです。
 クリスチャンは、望みをもって生きる人です。クリスチャンにとって辛いのは、神様の答えが全くないような中で、待つことです。苦難の期間が長くなると、望みがなくなって、喜びが奪われ、ひどい霊的沈滞に陥ってしまいます。しかし、その状態は「しばらくの間」と言っています。「しばらくの間」というのは、どのくらいのしばらくの間なのでしょうか。数学的な短い時間というのではなく、何の変化もないように見える時間ということです。私たちの内に信仰の変化が起きる最小限の時間を言います。私たちに苦難を通して考えさせ、自分の思い中心をやめさせ、主に立ち返らせる、そういうしばらくの間です。ところが、私たちが変化するのは、多くの神様の祝福が注がれ、多くの時間悲しみ、憂鬱になって、多く涙を流すことがしばしばです。
 「悲しまなければならない」と言っています。試練は避けがたい霊的な必要があってのことだということです。試練は、悪い意味でも、サタンの誘惑の意味でなく、何か必要があっての試練だということです。試練は、神様の摂理の中にあって、キリストの栄光とクリスチャンの霊的利益という目的があり、悲しみに光と喜びをもたらします。ローマ5:2~4,ヤコブ1:2〜4。クリスチャンが試練に会う時に得る「益」の中で最も代表的なものは、私たちの中に「忍耐」が生じることです。イエス様を信じる人が苦難の中で耐えることができるのは、自分の考えや感情を神様に焦点を合わせるからです。自分中心から神様中心へ変わるからです。
 忍耐によって霊的に成長し、そのクリスチャンの品性が、希望を持つようにさせるのです。試練の意味は分からなくても、神様の摂理があるという信仰でもって受け止め、試練の中でも喜ぶようになるのです。不思議なことです。クリスチャンの秘密と言ってもよいでしょう。Uコリント6:9。

U−苦難に対する考え−7
 私たちが様々なことで苦しむのには、理由があります。7節。金の原鉱石を高温の溶鉱炉に入れて、科学薬品を入れて、高温で溶かして、不純物を取り除くと、輝くばかりの純金を得ることができます。私たちが試練に会うことは、私たちも試練を通して信仰が精錬され、神様の御前に称賛と光栄と栄誉を受ける者になるというのです。試練を通して、クリスチャンは、一時は苦しく悲しくなるけれども、自我が砕かれて神様を信頼するようになります。試練の溶鉱炉を通して聖められ、しばらくの間は辛く厳しいのですが、信仰が純粋に本物にされて行くのです。
 もしまったく私たちに試練がないとしたら、このままでいいと思って、私たちは変わることはないでしょう。私たちは、多くの試練を受けて、涙を流しながら謙遜になり、神様に拠り頼むようになります。これが、恵みです。「信仰の試練」と訳された「試練」は、6節の「試練」と訳された単語とは違う単語が使われています。金属の検査に使われた「試験、試金石」という意味を持つ単語が使われています。苦難を信仰で持って受け止めて行くなら、ただの苦難ではなく、信仰の試験、信仰の試金石という意味を持つことになります。不純物だらけの信仰のままなのか、純粋な信仰に変えられて行くのかというテスト、試金石になるのです。その純粋な信仰は、滅びることなく、「称賛と光栄と栄誉」に至るのです。
 金鉱石は、金と分かる姿で地中から発見されるわけではなく、素人目にはただの岩です。専門家は金鉱石と分かり、精錬して金を取り出すわけです。神様は、私たちのうちにある金よりも尊い信仰を様々な試練を通して取り出してくださるのです。艱難辛苦汝を玉にする、ということばのように、試練で精錬された信仰は、宝石のようにされるのです。苦難を通して、美しく造り変えられるのです。重要なことは、神様の前での私たちの姿です。人々は、私たちの中を知らないために、外にあらわれた一時的なことで判断し、世的な価値観で判断するものです。しかし、神様の基準は、私たちが神様の御前でどんな姿かということです。Uコリント4:7。私たちの姿は、イエス様の救いという宝を秘めている土の器です。しかし、神様はそのような私たちの姿を美しく変えることを最も重要とされています。艱難辛苦汝を玉にする、というように原石の私たちは宝石と変えられるのです。
 ですから、苦難の中でも喜ぶことができるのです。クリスチャンが成長するには、神様の御言葉を聞くことと、苦難を通して信仰の訓練を受けることです。御言葉を聞くことだけを楽しんで、様々な問題に出会うことがなければ、御言葉も生かされません。御言葉がなくて苦難を受けるならば、どうして苦難に会うのか分からず、悩んで悲しむだけです。

V−言い表すことのできない喜び−8,9
 試練の中での喜びを持つことができるのは、イエス様の救いのゆえです。8〜9節。苦難の中にいたその地方のクリスチャンは、「イエス様を見たことはないけれども愛しており、見てはいないけれども信じて」いる人たちでした。と言っていますが、ペテロはイエス様を直接見たにもかかわらず、試練が来た時倒されてしまいました。使徒ヤコブは、復活のイエス様を目で見ないと信じない、と言いました。ヨハネ20:29。使徒たちに比べれば、苦難の中にいたこの地方のクリスチャンの方が、信仰があったと言ってよいでしょう。試練を信仰で受け止め、試練を通して精錬され、喜びさえ覚えることができるのは、ただイエス様の救いによります。ですから、「信仰の結果である、たましいの救いを得ているから」と、試練の中でも喜べる秘訣、理由を告げています。9節。
 クリスチャンが試練の中で苦しむ大きな理由は、苦難に会うのは自分が信仰生活をよくできなかったためだと考えるからです。熱心に信じていたことが、何の役にも立たなかったと思われ、信じていても試練にあってるじゃないかというように、周りの人々からも辱められるからです。詩篇42:3。ところが、御言葉に聞いてみると、自分の信仰が間違っていてこのような試練にあったのではなく、かえって、試練は金よりも尊い存在されるための精錬のプロセスだったと知ります。その時、喜びが戻って来るのです。
 その喜びは、神の御子の犠牲を通して救われている「栄えに満ちた喜び」です。聖霊に満たしている喜びです。世の何かをうらやましがらないで、問題があっても、ただイエス様に救われていることで満足し、喜びを感じているのです。試練に会うのは、私たちを苦しめるためではありません。それを通して神様の尊い贈り物を受けさせるためです。クリスチャンは、喜びが力です。私たちにあるこの喜びは、「ことばに尽くすことのできない喜び」ということです。到底人の言葉では表現できない栄光の神様の喜びが、試練の中にあるクリスチャンに注がれるのです。
 「信仰の結果である、たましいの救いを得ている」ということが、どんなに偉大な力なのか、どれほど喜びの源泉となっているか。クリスチャンが、自分の力で試練の道を歩まなければならないと思うなら、どれほど辛くて、憂うつであるか分かりません。しかし、そのような時、イエス様の救いを得ているのを確信するのです。神の御子が人となって私たちの救いのために、様々な試練を経験されました。十字架の試練はその極みです。私のために主が苦難を受け、苦しまれた!試練の中で、私のために苦しまれたイエス様が、苦難の中でより鮮明に覚えられるのです。
 この福音の原点に戻り、イエス様による救いを確信するなら、初めて体験するかのように神様を信頼し、信じ直すかのようにイエス様の救いの素晴しさを味わい、御霊に満たされるようになります。その時、天国にいるかのような平安を覚え、言いようもない喜びにみたされるのです。そうして、試練の中でも、喜びを感じるのです。もう、「しばらくの間」は終わり、試練は過ぎ去ります。Uコリント6:9〜10。



Tペテロ1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
1:7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。



ローマ5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ヤコブ1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

Uコリント4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

ヨハネ20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

Uコリント6:9 人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、
6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

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