2013年8月4日「驚くべき救いと変化」Tペテロ1:10-16

序−平安な時よりも苦難の時に、人の本当の姿があらわれます。表面を見せかける余裕がないからです。試練のときこそ、その人の信仰の真価が問われる時だと言えます。信仰と生活は密接につながっています。試練こそ、その人の中にある新しい命があらわれるのです。御言葉を通して、私たちも、自分の信仰とそのあらわれである生活を省みます。

T−御言葉に入っている宝−10〜12
 クリスチャンも、世に流されていると、この世で自分がどれほど尊いものかというイメージを喪失して、自分がだれであるか分からなくなって生きてしまいます。それで、試練を通して神様に立ち返り、御言葉によって見失っていた自分を取り戻すのです。それで、御言葉を記録した預言者が、御言葉を「熱心に尋ね、細かく調べた」と言って、御言葉に引き戻させています。10節。苦難の中でこそ、御言葉に立ち返るのです。
 クリスチャンは、ややもすると御言葉に生きようとすることを忘れてしまいます。神様が私たちに素晴しい祝福を用意してくださっているのですが、相変わらず世のものを捜し求めます。人は、世のものから何かを探すのが好きです。見つければ自慢し、誰かが見つければ、うらやましがるのです。しかし、神様の祝福は、御言葉の中にあります。御言葉を持つならば、すべてのものを持っているようなものです。しかし、これを忘れて、試練の時悩むことになります。そして、世では望みがなくなり、落胆し、絶望します。でも、試練の中でどうすることもできなくなって、御言葉を求め、神様により頼むようになるのです。
 そうすると、聖霊に満たされるようになり、神様が自分の中に生きておられるようになります。喜びが起こり、奇跡のようなことを体験するようになります。世できらめいていたものがそうでないことが分かり、神様がはるかに良いものを私にくださるために、様々な試練を通して教えてくださったなどと分かるようになるのです。
 預言者たちが御言葉を伝えながらも、特に御言葉を熱心に尋ね、細かく調べても分からなかったのが、苦難のしもべについてです。なぜ救い主が来られるのに、苦難のしもべとして来られるのか理解できませんでした。11節。預言者たちが知ろうとしたのは、救い主が受ける苦難の方法とその時がいつかということでした。それをもう手紙を読む者たちは、知っています。預言者たちに比べ、どんなに恵まれていることでしょう。
 私たちが神様の子どもとされた方法は、イエス様が自分の罪のために身代わりに十字架に死なれたということを信じたことです。これを頭だけの知識ではなくて、聖霊が悟らせて、信じさせてくれる時が、私たちが生まれ変わる時です。そうすれば、私たちが宝のようにされるのです。イエス様の十字架の血潮が私たちを聖めてくださり、私たちを宝石のように造り変えてくださるのです。
 自分がどれほど大切な存在かを知ることできなければ、神様の愛を知ることができません。人がイエス様を信じて行くと、神様の御子が私の代わりに死んでくださるほど尊い存在だということを知るようになります。イエス様を信じるなら、聖霊の働きが私たちにあらわれるようになります。私たちの罪の性質を変えてくれます。
 中世は、人々に御言葉が知らされず、読むこともできなかったので、サタンの力が暗躍し、暗黒時代となりました。宗教改革によって、人々は聖書を自分たちの言葉で読めるようになり、御言葉の真理があらわになりました。ですから、聖書を自由に読むことのできる私たちは、聖書を「熱心に尋ね、細かく調べ」なければなりません。そうすれば、サタンの力は、消えて行きます。
 預言者たちは、救い主がやがて来られることは分かりました。方法は知らなくても、やがて来られることを信じて待つことで、聖なる満足を得ました。12節。そして、使徒たちの時代になって、イエス様が救い主として世に来られ、十字架にかかられました。預言者たちの時代に比べて、どんなに恵まれていたことでしょう。それは天使よりも恵まれて言っています。
 人は、器のようなもので、中に何か入っているものに従って価値が変わります。中に赦せない心、憎む思いが入っていれば、憎しみの人になります。私たちの内に入った御言葉は、艱難や試練を通して働き、私たちを変えるようになります。御言葉を信頼して宣言すれば、サタンの誘惑は退けられて、神様の祝福が臨むようになります。ですから、私たちは、熱心に御言葉を聞き、学び、黙想し、適用しなければなりません。

U−従順な子どもとなって−13〜16
 神様が救いに呼ばれた人々に対する目的は、二つあります。13~15節。従順になって神様の御心をなすことであり、イエス様のように聖いものに変えられることです。私たちに起こる最も偉大なことは、罪に縛られて肉が中心で生きていた私たちがイエス様の救いによって罪の支配から解放され、善を慕い、愛の人になることです。「心を引き締め」というのは、「心の腰を帯で締める」という意味です。「腰を帯で締める」という譬えは、今何か事を始めようとしたり、どこかへ出かけようとしたりする人の姿勢です。ルカ12:35, エペソ6:14。今まで自分の問題だけに陥って、絶望して落胆していたのですが、他の重要なことを発見して、心を整え、気持ちを取り戻すようになることです。そして、その思いを失わないように、自分がしなければならないことをしようと決心するのです。
 これが、試練を通して整えられたクリスチャンの姿です。クリスチャンなら、イエス様を信じて、心に聖霊が宿っているので、決断をくだせばできるのですが、決断を下すことができない理由があります。自分の姿を悟ることができないからです。悟ることができれば、決断を下すことができ、神様の祝福に向かって立ち上がることができます。私たちに起こる最も偉大なことは、たとえ遅れても再び神様の祝福を受けて、良くなって行こうと考えることです。人は、このように生きていてはだめだという思いが起きないので、生き方を変えることはしません。人は、自分の状態が好ましくないと気づかないために、立ち上がることはしません。しかし、試練や苦難をきっかけに、このままではだめだと自分の霊的状態に気づかされます。そして、「心を引き締め」て立ち上がろうとするなら、不思議にも新しく生きるようになるのです。これが、福音の力であり、試練による精錬の祝福です。
 サタンはクリスチャンを騙して、信仰の人を倒そうとします。それば、信仰生活を考えさせなくし、肉の人とさせることです。問題や苦難のことで頭も心もいっぱいで、クリスチャンとしてどう生きるかなどと考えられないようにします。心がふさぎ込み、不平不満がいっぱいなると、人は否定的になり、怒り易くなります。賛美をする口から悪口雑言が飛び出し、聞く人の心を痛めます。肉の思いに従うようになるのです。救われる以前の肉の人、ただの人になります。Tコリント3:3。私たちが、この箇所を通して気づかされ、しなければならないことは、霊的沈滞から立ち上がり、神様が喜ばれないことを捨てることです。驚くべきことが起こり始めます。
 「イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」とは、何のことでしょうか。単に何かを期待することではなく、いつも望みを持つことがなぜ可能なのかということを示しています。「もたらされる恵み」とは、「現在もたらされている恵み」という意味です。テトス2:11〜13。救われた私たちには、試練の中でも救いの恵みが継続しています。試練によって精錬された者はどれほど素晴しい恵みと祝福を受けるようになることでしょうか。
 「従順な子どもとなり」と言っていますが、単に従うというのでなく、いままでの習慣や行動を止めるという従順です。かつては不従順の子として欲望に従っていたのです。しかし、試練や問題を通して御言葉に不従順な自分の姿に気づかされたなら、御言葉に従うようになるのです。私たちの御言葉への従順こそ、私たちの信仰の最終的結実です。ローマ1:5。私たちが救われて、霊的に造り変えられたそのすべては、私たちの従順を通してあらわれるのです。「信仰の従順」こそ、救われて生まれ変わった人の人生に相応しい表現です。
 確かに、御言葉に従順になるのは、簡単なことではありません。憎しみや赦せない心、高慢や妬み、否定的な思いや不平不満などがあるなら、従順になれません。でも、苦しみや悲しみは、私たちを従順にします。試練による精錬が私たちを信仰の従順へ導きます。だから、試練も恵みであり、喜びの材料になるのです。クリスチャンに試練があるのは、信仰が頭だけ、知識だけに留まることがないように、御言葉に生きるようにさせるためです。試練の中で労苦することで、御言葉が生活化し、現実の生活にあらわれるのです。
 神様の召しに応答するのには、二つあります。いつもしていることをもうしないことと今までしなかったことをすることです。エペソ4:17,24, ローマ12:2。分かり易く言えば、「神のみこころは何か、何が神に受け入れられるかをわきまえて、自分が変えられる」ことです。私たちが変えられ、御言葉が生活化される最終的な理由があります。16節。私たちが救われると神様のものとなります。聖とするとは、神様のものとするということです。神様が聖であるから、私たちも聖とされるのです。レビ20:26。



Tペテロ
1:10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
1:11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。
1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
1:14 従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、
1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。
1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。



Uコリント4:6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

ルカ12:35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。

エペソ6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

Tコリント3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

テトス2:11 というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、
2:12 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
2:13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。

エペソ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

ローマ1:5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。

エペソ4:17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

Tテサロニケ4:7 神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。

レビ20:26 あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。【主】であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。

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