2013年8月11日「主に望みを置く信仰」Tペテロ1:17-21

序−クリスチャンは、望みをもって生きる人々です。特に信仰自体が望みです。憂うつなのは、なぜこの信仰の望みが、現実では力を発揮できず、なぜ道に迷い、汲々として人生を生きなければならないのかということです。世で苦難を受けてこの望みに疑いを持っているクリスチャンに、望みを持って生きて行けると教えています。

T−神様を恐れかしこんで過ごす人生−17
 クリスチャンは、望みをもつ人々です。それなのに、先が分からないので、望みがもてません。先のことが明らかになっていれば、望みをもって耐えることができます。私たちは、人生において思うようにならない時、まるで神様が条件を奪って行くように感じるでしょう。しかし、私たちを整えるために削り取られていると考えてみることもできます。その時私たちの望みは何でしょう。人は、自分の不足を満たして、思うようにできるような望みを持つでしょう。しかし、これは私たちの真の望みではありません。不足したまま生きて行くことが有益な場合も多いのです。
 望みを持って生きて行くクリスチャンの生き方って、どんなものなのでしょうか。17節。この御言葉は、とても重要です。「地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい」というのは、自分自身を世においては旅人であり寄留者であることをわきまえて生きなさい、ということです。これがクリスチャンとし知恵ある生き方だというのです。詩篇39:12, ヘブル11:13。今自分が天国人であり、世において旅人であり寄留者であることをわきまえておられますか。
 そのままでは、旅人であり寄留者であることをわきまえて生きることは難しいでしょう。ですから、「恐れかしこんで過ごしなさい」と、命じられています。なぜ、神を恐れかしこんで生きるように、と言うのでしょう。怖いという恐れではなく、神様を畏怖して、聖なる恐れを抱いて、ということです。「神様に対する聖なる信頼」をもってということです。それは、父なる神様を「公平にさばかれる方」として信頼する、ということです。人は、すべてのことを自分の肉の思いを中心に見て、受け止めがちです。思いのままならないので、不満を抱き、望みも消え、むなしくなり、旅人であり寄留者であることをわきまえて生きることなどできなくなります。たとえば、裕福な者が祝されていて、貧しく圧迫されている者は見捨てられていると考え易いからです。「それぞれのわざに従って」というのは、最後の審判までつながっていることです。今外側から見えることがすべてではないということです。ですから、クリスチャンが公平な神を信じているなら、不平を言わず、望みを持って生きることができます。
 18節では、「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出された」と言っています。すなわち、私たちが幼い頃から抱いて来た世の価値観が、神様の御前にはむなしいものだと言われています。そういうものに望みを置きがちなのです。世で認められ、成功しているように見られることが、神様の御目には、砂上の楼閣を築いているようだというのです。あっという間に崩れてしまい、何も残らないからです。ですから、私たちの望みは、そういう世で認められ、世で評価される望みではありません。私たちの望みは、神様がくださる喜びで心を満たし、神様が喜ばれることをして行くことです。Uコリント5:9。神様が私たちに願われることは、かつて神様を知らない時にしていた「むなしい生き方」を捨てて、イエス様に似る者となって行くことです。
 世においては旅人であり寄留者であっても、私たちは世に生きて行かなければなりません。人生の目的は変わりました。世で信仰を実践しながら、最高の信仰の生涯を生きて行くのが、人生の目的です。人に感動を与える生き方をしなければなりません。ルターは、次のように言いました。「私は、天国に行くためにイエス様を信じたのではなく、神様に栄光を帰するためにイエス様を信じました。」大変確信に満ちた告白です。私たちの人生の目標も、信仰の生涯を通して神様の栄光をあらわすことです。ローマ5:2。私たちの望みは、私たちがもっと神様を知って、御霊に満たされて働き、神様の栄光をあらわすことです。神様が私たちをどれほど祝福して、尊いものとしておられるか、信じなければなりません。

U−代価を払って買い取られた尊い存在−18〜19
 私たちが、望みをもって生きて行けるようになった素晴しい原因があります。18~19節。贖いという言葉は、代価を払って買い戻す、何かのために償いをする、というような意味です。一流選手を支配下におくために高額な年俸が支払われます。トレードされる時に大金が支払われます。私たちの命の代金は、どのくらいでしょう。途方もないくらい尊いものだと知っているでしょうか。「贖い出す」というのは、奴隷となっていた人をお金を出して元の自由な人に引き戻すことを言います。神様は、私たちをかつてのむなしい生き方、罪の奴隷から救い出すために、大変高価な代価を払ってくださいました。私たちの滅びから救う命の代価として、神の御子イエス様を代わりに十字架に渡されたのです。マタイ20:28, ローマ3:24。
 神の御子の値って、どれくらいなのでしょう。それに代えられるものは何もありません。神様は、私たちを罪と滅びから救い出すために、むなしい生き方から贖い出すために、ものすごい額を支払われたということです。一流選手のトレード額も比べ物にならない額が、私のために支払われたのです。私たちは、そういう存在であることをわきまえて、世において旅人、寄留者として生きるのです。そのような者となっているのに、自分をつまらない者と言うことはできないし、支払われた代価を思えば、つまらない生き方など到底できません。私たちは、大変尊い存在なのです。
 では、尊い代価を払って買い取られた自由とは、どういうものなのでしょう。もうむなしい生き方をしないことです。本当の自由とは、罪を犯さない自由、放蕩しない自由です。ガラテヤ5:13。私たちの最高の自由は、神様の御心を知って行なうことができる自由です。Tコリント6:20。クリスチャンとなることが、さも不自由になることのように誤解する人がいます。肉の働く機会として勝手気ままにできることが自由ではなく、それは罪の奴隷です。私たちは、強要されて善をなすのでなく、信仰の自由で神様に喜ばれることを行なうのです。
 私たちが忘れてはならないことは、世の欲と堕落の価値観から解放されて、新しい人にされていることです。ただ、実際そのように生きることが難しいのです。悪習慣が私たちをゆさぶり、罪のほうに引き寄せるのです。サタンは、できないと思い込ませ、挫折感を抱かせます。「キリストの尊い血」が流されたのは、私たちをむなしい生き方から贖い出すためでした。私たちを鎖のように束縛しているのは、情欲と汚れた考えと行動です。私たちは自分の力でできないので、祈ります。「父なる神様、私には足りないものが多く、苦難も続いています。しかし、私の内なる人が、聖くされ、イエス様に似た者と造り変えられて行くことを願います。アーメン」

V−希望−20〜21
 聖書は、私たちのすべての望みは神様にかかっていると言っています。20〜21節。イエス様の十字架による贖い、この神様の御業が望みの元でした。今までは、常に世を見ながら歩んで来ました。しかし、聖書は私たちに対して、すべての望みは神様に置くように言うのです。その理由はすべての良いものが神様から来るからです。世では与えられない最高の祝福をくださいます。ローマ8:32。私のためにイエス様を犠牲にされた愛です。神様は、私たち信じる者たちに聖霊を与えて、治療して、造り変えてくださいます。聖霊は、私たちの不幸な過去と私たちの心の傷を癒し、病んでいる自我を治してくれます。試練に打ち勝つ知恵もくださいます。御声による導きもくださいます。何よりも尊いものは、神様の福音の恵みです。
 ここで、神様は、「死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた」方だと言われています。イエス様を死者の中からよみがえせることができたなら、他にできないことがあるでしょうか。何もありません。神様は、私たちをどれほど高くしようとされるのでしょう。私たちの望みを神様に置くということは、何を意味するのでしょう。重要なことは、神様から来る恵みを切実に求めることです。神様との間に遮るものをないようにし、いつも神様の恵みと祝福が注がれるようにします。
 もっと重要なことは、自分ひとりだけ恵みを受けるのではなく、聖徒たちと一緒に受けることです。みな一緒に聖霊の満たしを受けるなら、信仰のリバイバルが起きます。それは、神様のくださる最高の祝福であり、私たちにとっての最高の望みです。リバイバルの恵みがあるなら、世の祝福も付いて来ます。すべて神様に委ねなければなりません。神様の恵みを求めて生きるなら、世でどうなるのでしょう。神様が責任を取ってくださいます。これが、望みを神様に置くということです。神様は、私たちの道を用意しておられる方です。時には、神様が恵みをくださらないように見える時があります。その時には、素晴しい恵みをくださろうとしておられるのです。
 私たちは、世においてしっかり信仰を持っていれば、よいのです。もっと神様を知って、すべてのことを神様に委ねて、神様の御心を求めて、神様にすべての望みを行くことを願います。エペソ1:12。



Tペテロ
1:17 また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。
1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
1:20 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。
1:21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。



Uコリント5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

ローマ5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

詩篇39:12 私の祈りを聞いてください。【主】よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。

ヘブル11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

マタイ20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。

ローマ3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

Tコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

ガラテヤ5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

ローマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

エペソ1:12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。

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