2013年8月18日「新しく生まれ変わったのは」Tペテロ1:22〜25

序−クリスチャンは、望みを持って生きる人々です。信仰自体が望みです。しかし、とても憂うつなことは、なぜこの信仰の望みが世の生活で力を発揮できないのかということです。なぜ、望みなくさまようのだろうか。そういう疑問を抱く聖徒たちに書いています。新しくされた人生を生きるチャレンジが、アピールされています。

T−私たちを生まれ変わらせる御言葉−23
 私たちの人生においてまず重要なことは、私たちが世に人として生まれて、生きるようになったということです。生まれて来なかったら、何も始まりません。ですから、生まれて来たことをまず感謝します。誰も、自分という存在を知ることがなければ、存在の意味がありません。私たちが、この世に人として生まれたということは、どれほど素晴しいことでしょうか。別なものに生まれたと考えてみてください。
 しかし、人として生まれながら、多くの問題にとらわれて、惑わされて、多くの人が世で生きている意味を見出すことができないでいます。むしろ、生まれなかった方がよかったと言う人も多いのです。神様に似た者として生まれたにもかかわらず、人の内に重要なことが抜け落ちているために、存在の意義を知ることができないのです。それは、人を造られた神様の愛と救いです。ローマ5:8。たとえすべてのものを持っていたとしても、意味ある人生を生きることはできません。神様の愛と救いを知ることができなければ、己の欲と野望で生きるほかありません。
 もし、私たちが神様に会うことがなかったら、この世をまったく意味のない人生を生きるほかありませんでした。私たちが人として世に生まれたことは、驚くべきことです。しかし、そのままでは満足はありません。むなしさと罪の鎖が断ち切らなければ、素晴しい祝福を受けて人生を生きるようになりません。そして、神様の強力な愛と救いが、私たちの内に注がれなければなりません。この重要性が分らないと、自分の存在の意味が分らず、はなはだしくは、獣のように生きてしまうのです。
 ですから、新しく生まれなければなりません。23節。人が知るべき最も重要な事件は、本当に新しい人として生まれることだと言っています。信仰で生まれ変わって、新しい人になることです。Uコリント:17。ペテロは、私たちにこの偉大なことがどのように起こるのか、説明しています。それは、他の何かで起こることはなく、ただ神様の御言葉を聞くことによって起こるというのです。「あなたがたが新しく生まれたのは、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによる」というのです。
 神様の御言葉を聞くということは、御言葉の種が植えつけられるようなものです。私たちが御言葉を聞くならば、死んでいたたましいが新しい命に生きるようになるのです。私たちが生まれ変わるということは、神様の愛を知って、御子イエス様が自分の罪の代わりに十字架上で死なれたことを信じることです。これは、私たちの内に相当な変化をもたらします。私たちと神様との間の壁が崩れることになります。人がむなしさを感じるのは、神様から離れているからです。
 この変化の種は、それから始まって、素晴しい祝福が私たちの人生に実るようになるのです。この種は朽ちない種だと言っています。継続的に成長して、ものすごい実りをもたらすのです。ですから、人生において最も重要な尊い宝は、神様の御言葉だということです。この福音の御言葉を聞いて信じる者は、再び生まれるようになるのです。福音の種は、私たちのうちにある宝だといわれるわけです。Uコリント4:7。

U−何のために生きるのですか−22
 私たちが生まれ変わった者であるなら、いったい何のために生きるのですか。22節。これは、福音への応答が人々の人生にもたらした二つの変化です。一つは、「真理に従うことによって、たましいを清め」られるということです。イエス様の救いをうけたことによってたましいが聖められたことを知り、罪の習慣から離されるということです。聖い良心は、素晴しい宝です。しかし、習慣は中々変わりません。私たちは神様の民となっていますが、世の中で人々と同じように自分の肉の思いで生活をしようとするので、一体生まれ変わったのと生まれ変わらないのとどこが違うのかということになります。イエス様を信じながら、御言葉に従って生きることができず、我侭も欲心も多いことを認めなければなりません。
 私たちには、重要な霊的必要があります。しかし、人生を歩みながら、霊的な必要と肉的な必要の間で、私たちは葛藤します。ローマ8:2,5。神様だけに重点を置くことができないでいます。私たちは、世に生きるかぎり両方をしていくでしょうが、クリスチャンには、霊的必要が重要、不可欠です。クリスチャンが世で失敗する理由は、霊的なことの供給を受けることができなくなるからです。御言葉がよく供給されるなら、世の多くの試練や困難によく耐えることができます。「真理に従うことによって」私たちが、造り変えられ、私たちの信仰が社会の生活の中でも実るものになるのです。
 もう一つは、世で私たちが他の人を愛するということです。私たちは神様から新しい人生を与えられました。その恵みに応答することを、新しい生活の行動として表現して行くということです。特にここで励まされている新しい活動とは、兄弟愛です。イエス様の救いは私たちに新しい本性と新しい関係を与えてくれました。すなわちキリストにあって兄弟という関係を与えられたのです。すでに福音がそのような効果を与えています。
 「偽りのない兄弟愛」というのですが、それは、表面的な演技で装ったり、取ってつけたりするのでもなく、感傷的な告白でもないということです。「互いに心から熱く」と言われています。原語のエクテノスという言語は、「温かく」というよりむしろ「強烈に」です。家族だから互いに大切にするので家族となります。仲間だから互いに大事にすることで仲間になります。兄弟姉妹は、主の一つ体とされているので霊の家族だと強烈に意識することで、兄弟愛の関係になって行くというのです。
 私たちにとって最も重要なことがたましいの生まれ変わりであるように、他の人々も、御言葉によって救われてたましいが生まれ変わることが、最も尊い重要なことです。最も大切なのは、人々のたましいが生き返ることができるように祈り、御言葉を伝えることです。ヤコブ1:21。これが愛です。

V−御言葉はとこしえで人生はつかの間−24〜25
 医学の父と言われるピポクラテスは、「人生は短く、術のみちは長い。機会は逸し易く、試みは失敗すること多く、判断は難しい」と言いました。朱子学の祖朱熹の詩に「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」という言葉があります。人は、若い時には、人生が短いことを実感できません。しかし、年を取ると、人生が意味のあるように、人のために生きることができる期間がとても短いことを知るようになります。
 24〜25節。私たちの人生は、草のようだと言われます。春に多くの草が生え育ちますが、秋には枯れてしまいます。若い時には、体力があり、何でもできる時間的余裕もあります。しかし、人生を生きて行く知恵や糧はあまりありません。一方、年を取った人は、知恵や糧はあっても、体力や時間はありません。
 人は、人としての役目を担うために多くの時間学ばなければなりません。社会で働き、家庭をつくり、養うために収入を得なければなりません。ところが、そうして行く中で何か楽しむことだけに熱中したり、金銭に執着するようになったりします。やがて分別がついて、人のために生きようとする時には、年を取って時間が残っていないのです。私たちが、意味ある人生を生きて行く時間は、あまりにも短いのです。私たちがこの世で生きて行くのは、舞台で公演しているようなものです。そうような機会を得ているにもかかわらす、人生をただ食べるために、肉の思いを満たすために意味なく過ごして、その途中で終わってしまうのです。私たちは、本当に素晴しい最高の人生を生きて行く道を行かなければなりません。
 私たちに最も重要なことは、御言葉の力を信じて、新しい命に生きることです。元々、神様は全世界を御言葉で創造され、御言葉でこの世を導いておられます。ということは、私たちは、御言葉が自分の人生を最高に造りあげるものだと信じなければなりません。聖書は、御言葉をいつも口ずさみ、御言葉からそれないで、御言葉守って人生を生きるなら、繁栄し、栄えることができる、と約束しています。ヨシュア1:7~8。アブラハムは、75歳で世間的な安全な人生を放棄して、神様の御言葉に従いました。そして、信仰の父と言われる信仰の生涯を遺しました。
 今日も、私たちが神様の御言葉を信じて生きるなら、このような機会が与えられます信頼して、すべてを神様に委ねる覚悟が必要です。聖霊の力により頼み、導かれなければなりません。私たちの力では、素晴しい偉大な人生を生きることはできません。私たちの人生は、とても早く過ぎて行きます。私たちは、いくらもしないうちに年を取り、地上の生涯を終えます。しかし、御言葉ですることは、永遠になくなりません。私たちが伝える御言葉は子々孫々に生きて行きます。人を愛する人は年を取りません。愛は永遠だからです。まだ私たちに時間が残っているなら、真摯に考えることを願います。そして、新しい命でもって御言葉に生きることを願います。Uコリント:17。



Tペテロ
1:22 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
1:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。




ローマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

Uコリント4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

ヤコブ1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

ヨシュア1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

Uコリント:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

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