2013年9月1日「人生をどこに築きますか」Tペテロ2:4〜8

序−人は、人生を築いて行くのに、基礎を築くことがまず大切です。苦難の中にいる聖徒たちが、艱難の中でも人生を築いて行くように教えています。私たちもそれに学び、人生の基礎を築いて行きます。

T−イエス様が生ける礎石となられた−4
 私たちのために、素晴しい祝福の基礎を用意してくださった方がおられます。この方が私たちの救い主イエス・キリストです。4節。私たちがしなければならない大事なことは、人生の基礎を築くことです。私たちに対する神様の祝福は、人生の基礎を用意してくださったということです。救い主イエス様の中に用意してくださいました。しかし、私たちの人生の基礎となられるために、イエス様が大きな苦しみを受けければなりませんでした。それが、「人には捨てられた石」ということです。どうして、イエス様は人々から歓迎されないで、捨てられた石になったのでしょう。
 イエス様は、予言の通り「苦難のしもべ」でした。イザヤ53:2〜8。イエス様ご自身が、世で枕するところもない、と言われた公生涯を過ごされました。ルカ9:58。「私たちの病を負い、私たちの痛みをにない、私たちのために罰せられ、神に打たれ、苦しめられました。私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされました。」イエス様は、ご自分を打ちたたいて、服従させ、私たちの罪の代わりに苦しみ、死なれました。イエス様が十字架で死なれた時、信じる者の「尊い、生ける石」となられたのです。
 「尊い、生ける石」とは、6,7節にあるように、建物の礎石のことです。イエス様は、救い主として私たちの人生の基礎となられるために受けられたのが、人々からのさげすみと冷遇でした。神の御子が人となって来られ、低くなられて、十字架の死にまで従われました。ピリピ2:7〜8。イエス様ご自身、「必ず多くの苦しみを受け、人々に捨てられ、殺される」と話しておられました。ルカ9:22。その理由は、イエス様が私たちの人生の礎石、基礎となってくださるためでした。この「尊い、生ける礎石」をただ感謝するばかりです。人は人生の基礎を捜し求めて、その上に人生を築きます。しかし、人生を砂の上に建てていたのです。ややもすると、クリスチャンも世でうまく生きて、良い家に住んで、お金を多く稼いで、思うように生きることに人生の基礎をおいてしまいます。
 1世紀にあったラオデキヤの教会も、そんな砂の基礎に人生を築いていた人々の教会でした。黙示録3:17〜18。この教会は、世で豊かな教会でしたが、重要な致命的なことが抜けていました。御言葉がない教会でした。イエス様という基礎の上に人生を建てたのではなく、砂上の楼閣でした。「豊かになった」と豪語しながら、イエス様のいない教会となってしまいました。私たちも、ラオデキヤの教会のようになり易いのです。何の上に人生を建てていますか。人生の礎石は何ですか。人生の中心はイエス様ですか。イエス様に喜ばれることが言動の元になっていますか。

U−私たちも神の家の礎石にされる−5
 私たちがイエス様を信じる信仰に人生の基礎をおくならば、何と、救われた私たち自身が霊の家を建てる礎石に加えられるというのです。5節。人生は変わりました。何と言う神様の祝福でしょうか。「霊の家」とは、時代や地域を越えた教会、救われた聖徒の集まりです。実際には、具体的な教会の一員として加えられます。私たち一人一人が、普遍的な主の教会の礎石とされるのです。そして、具体的なあきる台BCという教会の礎石とされているのです。私たちは、次の世代のための良い基礎を造り、私たち自身が未来に続く教会の基礎となるのです。救われる人々の礎石とされるのです。今日からその気概を持って、教会生活をしましょう。
 過去の考えを思えば、私たちの価値観は変わりました。かつては世的な成功しか考えられず、世の何かを手にすることが生きる目的でした。しかし、今は御言葉を食べて生きる者となっています。苦難の中でも、御言葉だけつかんで生きて行きます。しかし、大過なく、思うように生きられ、あれこれを手中にして行くと、ラオデキヤの教会のように私たちは変化し始めます。その時、人生の土台は揺らぎ始めます。自分を調べてみましょう。自分の心に欲心と高慢による「妬みや争い」があれば、「肉に属する人、ただの人のように」人生を築いているのです。Tコリント3:3。
 私たちの人生の土台はイエス様ですが、私たち自身も、神の家を築く一つ一つの石として用いられるのです。エペソ2:20〜22。私たちが御言葉で生きて、神様の栄光をあらわして生きて行くことで、神の家は築かれて行きます。神様は、そうすることを願われ、私たちがそうすれば、無限の祝福をくださいます。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」と言われています。神様の家は、謙遜に純粋に御言葉で生きようとする私たち一人一人で建てられて行くのです。
 ところが、「肉に属する人、ただの人のように歩んでいる」ならば、その家は曲がりくねって行きます。体育祭などで人間ピラミッドを作る時、下にいる人が嫌がってぐらぐらするなら、全体が崩れてしまいます。私たちは、神様の神殿を築いているのです。どれほど、尊い人生を生かされていることでしょうか。自分が肉の思いで揺れ動くなら、霊の家は崩れてしまいます。一人一人が生ける石とならなければなりません。
 それを神殿で祭司がいけにえをささげることに譬えています。すべての聖徒たち、一人一人のクリスチャンが、「聖なる祭司として」霊のいけにえをささげなさいといわれています。自分の人生をかけて、神様に喜ばれる生活、イエス様の救いを証しする生活をするようにということです。教会や聖徒たちの人生に実りがないとすれば、それは、人生をかけて神様の栄光をあらわそうとする生活ではないからです。
 劇場に集まるように、礼拝だけ参観しようとするなら、神様の奇跡を体験できません。神様の祝福を望むなら、まず自分の自我が死ななければ、御言葉の前に自分が低くならなければなりません。私たちがするのは、つまらないことではありません。私たちは、世の人々のために祭司の務めをするのです。祭司の仕事は、人々の罪の赦しを願ういけにえをささげることでした。ですから、祭司として私たちがすることは、人々にイエス様の救いを証しし、人々を罪の赦しと救いへ導くようにすることです。これが、宗教改革者たちが主張した万人祭司論です。
 イエス様が十字架で流された血は、私たちの罪を拭い、私たちの穢れを拭い取ってくださるのです。十字架の血潮は、私たちの過去にあった心の病や劣等感、憎しみや怒りの傷をすべて癒してくださいます。そして、私たちの祭司の働きは、罪で滅びようとしているこの世を治療して、救いに導くものとなります。ですから、この地に一つのイエス様の教会が立てられているということは、神様の祝福なのです。

V−イエス様を礎石とすれば、失望、躓きはない−6〜8
 世で困窮して、逼迫していると、間違った考えが入って来やすいものです。それは、イエス様を信じたのに、見捨てられているのだろうかなどという失望やつまずきです。しかし、イエス様を人生の基礎とする者は、決して失望し、躓くことはありません。6~8節。あなたがたは人生の基礎をどこにおいているのか、と神様は私たちに質問されておられます。世の価値観や自分の肉の思いにおいているのですか。それなら、世での成功や肉の満足のために人生が建てられて行くことになります。
 自分の人生をイエス様の基礎の上に建てる時、愚かだとあざけられるかもしれません。しかし、イエス様という岩の上に人生を建てるのか、砂の上に人生建てるのか、という人生の選択です。もし、一生懸命に人生を築いて来たのに、砂の上に建てたならば、大変むなしい人生となります。ある時崩れてしまいます。マタイ7:24〜27。神様はイエス様という生ける礎石に私たちの人生を建ててくださったのです。神様の愛のある美しい人生としてくださいます。
 それなのに、神様に信頼しない者、御言葉に従わない者は、結局自分自身がつまずきの石となり、躓くのです。6~7節。イエス様は、「ふたりの主人に仕えることはできません」と言われました。マタイ6:24。なぜ神様の御言葉が躓きとなるのでしょう。肉の原理に立てば、逆らうようになるからです。ローマ8:7。神様の私たちに対する期待は大きいのに、私たちが自分の利己的な信仰でいるのは、自分にとっても世にとっても残念なことです。この手紙を記している使徒ペテロは、本当の名は、シモンです。ペテロというのはイエス様が付けてくださったものです。その意味は、「石」です。ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです。」と告白した時、イエス様は彼を祝福して下さると共に、「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と言われました。素晴らしい信仰告白の上に、イエス様の教会が立てられるということでした。マタイ16:16,18。
 私たちは、イエス様が私のために十字架に死なれた、と信じて、告白した者です。それは、自分の人生がこの救い主イエス様の上に立てられたことです。世の何か、人でも物でも権力やお金や何かの人生の土台を置けば、それはいつか取り去られ、崩れてしまいます。磐石な基礎、生ける礎石であるイエス様に人生を築きましょう。美しい人生が築かれて行きます。



Tペテロ
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
2:6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
2:7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、
2:8 「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。



イザヤ53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

ルカ9:22 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」

ピリピ2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

黙示録3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

Tコリント3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

エペソ2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

マタイ16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

ローマ8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

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