2013年9月8日「今は神の民です」Tペテロ2:9〜10

序−現代のクリスチャンは、自分のアイデンティーがどれほど素晴しいものであるか分からない人が多いようです。かえって、そのような身分にあるのに、世の人の条件に合わせようと動き回っています。私たちの本当の姿は、神の民として集まった時にあらわれるようになります。

T−クリスチャンの祝福、神の民の身分−9節前半
 イエス様を信じている人々とそうでない人々の間には、大きな違いがあります。私たちは、イエス様を信じることで、罪赦され、永遠のいのちが与えられていることは知っていますが、自分たちが神様の御前に特別な身分を持つ者とされたことを知っていないようです。これを知らないことは、はなはだ勿体無い、いやそんなレベルのことではありません。
 この箇所には、私たちが持つようになった神の民としての特別な身分が記されています。国会議員の選挙を見ると、それまで無名な平凡な人も、ひとたび当選するや否や、様々な特権を持ち、生活も一変するようになります。私のために十字架にかかられたイエス様を信じた時から、私たちの身分も大きく変化します。罪赦され、神の子どもとされ、イエス様の染みも傷もない栄光の義の衣を着るようになります。もう、裁きの座に引き出されることはなくなりました。これが、最も重要な変化です。
 ジョン・バンヤンの天路歴程で、ある人が、自分たちの都市が滅ぼされることを知って、天国を目指して巡礼の旅に出ます。ところが、途中で間違って落胆という沼に落ちたり、色々な人の言葉に騙されて、道をそれたり、元の道に戻ったりします。それでも、伝道者に教えられて狭い門を入って行って、十字架の前に立った時、ようやく無条件の赦しを体験するようになります。私たちも、クリスチャンとしての素晴しい身分を見出すまで、この物語のように旅をしているのかもしれません。
 私たちがイエス様を信じた瞬間から、神様の無限の霊的な恵みを要求することができる特権を与えられました。神様の召しに生きる道が用意されています。しかし、人々は、世の宝に夢中になっています。知識、財産、権力、富貴、栄華など多くの宝があり、店には多くのきらびやかな品物が山のように積まれています。しかし、私たちに与えられた祝福はこのようなものではありません。私たちの内面を聖く満たすものです。
 私たちがイエス様を信じて得るようになった身分と地位がどんなものであるか、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」だと教えています。9節前半。これらは、個人のことではなく、すべてクリスチャンの集まりのことです。それは、個人とは比べようもない大きな強いものです。私たちクリスチャンの集まりは、素晴しい力と影響を秘めているのです。イエス様を信じた者たちの集まって礼拝の生活をしていることが、どれほど素晴しいことでしょうか。

U−神の民の身分とされた者がすること−9節
 ここに神の民としての身分の内容が四つ記されています。まず「選ばれた種族」とは、私たちが神様の民となったのが、私たちの考えや決断のよるのではなくて、神様の御旨のままに救いに「選ばれた」ということです。その「選ばれた」ということは、世の人々とは違う目的があって生きる者だということです。人は自分が何のために生きるのか、あまり考えませんし、知りません。そのために、世の生きる目的が、世の多くのものを得て、楽しんで生きることになります。しかし、私たちの生きる目的は、神様の御心に従い、神様の栄光をあらわすことです。Tコリント10:31。
 イスラエルの民が神の民に選ばれたのは、神様を証しするためでした。そして、イスラエルが滅びたのも、このためでした。自分たちの選びに酔いしれて、神様を証ししない民は、神の民の存在感を失ったからでした。私たちが存在理由も、イエス様の十字架による救いを証しし、神様の栄光をあらわすことです。
 二つ目は、「王である祭司」とは、大変重要なことです。旧約時代、祭司の働きは、罪人の罪を引き受けて、神様の前に出ていけにえをささげ、祈ることでした。ただの祭司ではなくて、「王である祭司」と言っています。いけにえの血をもって民の救いを祈る大祭司のことです。すなわち、イエス様の犠牲の血潮で罪の赦しを願う働きを私たちがするということです。私たちのすべきことは、人々の救いのためにとりなしの祈りをすることです。それに、神様が応えてくださいます。救いの御業はどこまでも神様のなさることですが、とりなしの祈りの火を消さないようにしなければなりません。祭司の働きができるのですから、しないではいられません。
 イエス様が十字架にかかって犠牲となられました。それを知らせるのが、祭司の働きです。先に信じた私たちこそ、人々にとってどんなにこのイエス様の救いがなくてならない大事なことか、知っている者です。福音を伝えないのは、恵みに無感覚になった薄情者か、私のためにイエス様を十字架に渡された神様のあわれみを知らないかのどちらかです。どちらですか。
 三つ目、「聖なる国民」とは、クリスチャンが神様によって聖いものとされた民であるということです。聖なると訳されたハギオスは、汚れから分離し、神に属する者にされたという意味です。聖と言っても、私たちが罪のまったく犯さないから聖いのではなく、神様の御前に悔い改めるから聖い者とされます。欲と罪の汚れから世の人々も、イエス様の血潮で聖い者とされます。汚れの中でもがいている人を助け出したいですね。
 四つ目、「神の所有とされた民」とは、私たち自身が神様の所有物だということです。神様が神の所有とされた世を造られ、治めておられるのは、私たちのためです。人が自由意志をもって自発的に神様の御心を悟り、従うならば、神様は私たちのためにすべてを計画して、事をなしてくださいます。人々は、罪と滅びの中にあって、罪と悲惨の奴隷となり、サタンの所有となっています。イエス様に救われることによって、その悲惨から解放されて、神様の所有とされます。先に神の所有とされた者として、その恵みに応えて、人々が救われて、神の所有とされるのを助けることをしたくないですか。

V−神の民とされたのは、救いのために−10節
 神様は私たちに世の運命を委ねられました。すなわちこの世が滅ぶのか否かということは、私たちの祈りと福音の証しにかかっているということです。信仰の父と呼ばれたアブラハムは、神様からソドムの滅びを教えられて、とりなしの祈り誠実に熱心にしました。創世記18:17~33。それは、神の人だったからです。私たちは、はじめ自分の罪のために祈りをするでしょうが、信仰が成長して行くなら、人々の必要と救いのために祈るようになります。信仰が成熟しているなら、世の悲惨と望みなく生きている人々のために祈り、素晴しい福音を証しするようになります。祭司として、人々の罪も自分のことのようにとりなし、救いの御言葉を伝えるのです。9節後半。すべてこのような尊い身分とされたのは、人々の救いのためです。世の回復のためなのです。
 なぜなら、私たちは、とても言い表すことのできないほどの素晴しい神様の愛とあわれみに与った者だからです。10節。これは、ホセア書の引用です。ホセア2:23。神様は信仰を捨ててしまったイスラエルに対して、「もうあながたがたはわたしの民ではない」と言われました。ホセア1:9。まったく神様を知らず、欲と望むままを行い、分からないまま裁きと滅びの道を歩んでいた私たち、神様の民でなかった私たちを、イエス様の救いによって「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」としてくださいました。恵みを大きく感じませんか。
 「以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者」ということが、どんなにすごいことか、どんなに愛と恵みに満ちたことか、イエス様の十字架の救いを体験した私たちは忘れてはなりません。かつては、罪と罪過の中で死んでいたようなあわれな中にあったのに、イエス様の十字架のゆえに、罪の赦しと永遠のいのちを受けるというあわれみを受けたのです。エペソ2:1〜5。「罪過と罪との中に死んでいた者」サタンの囚われ人をあわれに思わないのでしょうか。
 「神の民ではなかったのに、今は神の民」とされた理由は、何でしょうか。勿論、感謝をささげて、神様の栄光をあらわすこともありますが、イエス様の素晴しい御業を宣べ伝えるためです。私たちは、無知と迷信の中で人生の意味も分からず、迷いながら、生きていました。かつては暗い中を歩んでいました。ところが、神様の深いあわれみによって、神の民とされました。今は、この素晴しい愛とあわれみの神様をあらわし、イエス様の十字架による救いを証しして生きて行くことです。
 私たちは、神様から驚くべき地位と特権を与えられました。王のような祭司として、世の人々の救いのために重要な存在です。その身分を汚してはなりません。その働きをおろそかにしてはいけません。私たちは、世にあって、最も高尚な、最も尊い者として、最も大切なたましいの救いのために生かされ、世に置かれています。私たちは、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」として、イエス様の素晴しい福音を証しして生きて行くのです。私たちは、イエス様の十字架の御業によって私たちを救ってくださった神様のあわれみと恵みに応答して、神様の栄光をあらわし、喜んで熱心に福音を証しするのです。Tテモテ1:16




Tペテロ
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。



Tコリント 10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

ローマ9:23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
9:25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。
9:26 『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」

ホセア2:23 わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう。

ホセア1:9 主は仰せられた。「その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。

エペソ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──

Tテモテ1:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

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