2013年9月15日「旅人のような私たち」Tペテロ2:11〜12

序−クリスチャンは、イエス様を信じて時から、世において阻害され、のけ者にされ、見知らぬ人のように扱われることがあります。イエス様を信じる前には、人々となんら変わるところがなかったのに、同じような考えで一緒になっていたのに、自分に何か問題があるのだろうか、足りない所でもあるのだろうかと思うでしょう。どうしてでしょう。

T−旅人であり寄留者であるあなたがた−11
 聖書は、世に生きる私たちに対して、「旅人であり寄留者である」と言っています。11節。昔旅をして田舎の村を通るならば、よそ者がいるとじろじろ見られたり、偏屈な村人から冷たくされたりすることがありました。聖書は、世を生きて行く私たちを旅人や寄留者だと言っているのです。この表現には、とても深い意味があります。
 私たちがイエス様を信じた時から、世の人々はイエス様を信じた私たちを自分たちとは違っていると感じるようになるのです。それは、私たちがイエス様を信じることで、私たちの価値観や人生観が変わるようになるからです。聖書の神様を知らない時には、世の悪や罪の中で、空しく生きていました。それが世のすべてだと思い、世の人々と同じく生きていました。しかし、神様を信じた後には、もう戻ることはできません。人々の求める罪や悪の応答もできなくなります。たとえば、一緒に偶像を拝んだり、酒を飲んだりしなくなり、汚い冗談や人の悪口を言うことがなります。そんなことを世の人々は気に入らないようです。自分たちとは違う者として、のけ者にし、締め出すのです。
 人々がそうするのには、幾つかの理由があります。私たちがイエス様を信じた時から、私たちのたましいが罪と空しさから解放され、新しい生きるようになって、尊い存在の者になるからです。でも、その姿は彼らには都合が悪く、傲慢に感じたりするのです。そして、憎むようになるのです。信じた者が霊的な考え方をするようになり、神様の御心に沿うことを大事に考えるようになります。世の人々には、それがまったく分かりません。それで、よそ者のように扱うようになるのです。
 この箇所が言っていることは何でしょう。だから、私たちが世において旅人や寄留者のような扱いを受けることを別段異常なことだと考えてはならない、ということです。事実、私たちは、世においては、旅人や寄留者だからです。ヘブル11:13。私たちが周りの人々から意地悪されたりのけ者にされたりしても、悲しんだり怒ったりしないで、「ああ、本当にイエス様を信じる人と見られているのだな」と受け止めればいいのです。確かに、世の価値観から比べれば、聖書の教えはまったく不思議な異常なことかもしれません。地上に宝を積むのでなく、天に宝を積むなど理解できないことなのです。困難の中でも、神様の祝福で生きているなど、人々には不思議なことなのです。
 ただし、私たちがこの世で旅人や寄留者として生きて行くには、旅人や寄留者から学ばなければならないことがあります。まず、旅人や寄留者が村の人から意地悪される理由は何でしょう。それは、村の人々が旅人や寄留者のことを良く知らないからです。見知らぬ者が自分たちに有益なのか、それとも損害を与えて逃げてしまうのか分からないためです。でも、旅人が村に滞在して、熱心に仕事をしたり、村人を助けてくれたりすれば、歓迎されるようになります。
 ですから、私たちも世で歓迎されようとするなら、価値観は違っていても、彼らにとって有益で助けになることを知ってもらうことです。私たちは、この世で生きようとするなら、奉仕の精神で生きなければなりません。どんなことでも役立って、助けになることをしてあげれば、人々はむやみに私たちに意地悪したり、のけ者にしたりしないのです。信仰の父アブラハムも、この世で旅人や寄留者として行きました。ヘブル11:9。彼は、井戸を掘る技術でもって人々を助け、土地の人々から認められ、寄留し続けることができました。私たちが世の人々に知られなければ、旅人や寄留者が村人からのけ者にされ冷たく扱われたように、私たちもされるでしょう。しかし、世の人がクリスチャンと交わって見れば、いいやつだと思われ、助けてあげ、役に立くようになれば、信頼してもらえるでしょう。

U−肉の欲を遠ざけなさい−11
 旅人が世で生きて行く時、最も危険なことは、何でしょう。どこに行こうとしているのか分からなくなったり、方向を失ってしまったりすることです。クリスチャンが元の肉の原理に生きるようになるなら、天国への道が分からなくなってしまします。ですから、「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」と命じています。11節後半。私たちは、人としてどのようにして肉の欲、欲心を出さないで生きていけるのでしょうか。世は、肉の原理で動いています。欲心に陥らないような何か別の魅力的なものがあれば、できるでしょう。それは、御言葉に近づくことです。御言葉に留まっていれば、神様の祝福があります。
 「肉の欲」は、人生の旅路の方向を失わせます。この世の欲心は、塩水のようです。飲めば飲むほど渇いて、後には病気になります。肉の満足や自我中心は、私たちをますますひどくしてしまいます。「遠ざけなさい」と言われても、自分の力では、肉の欲という塩水を飲まないようにするのは難しいのでしょう。ローマ7:23。でも、御言葉の泉を飲むなら、遠ざかります。肉の欲に陥りそうになる毎に御言葉を飲むなら、渇きの病には陥ることはありません。
 私たちの「たましいに戦いをいどむ」と言うように、サタンが働くのですから、私たちの力でできることではありません。神様の力に拠り頼むことです。この世は、肉の欲が燃えている溶鉱炉のようなものです。世で罪を犯したり、欲心を働かせたりしないようにとしても、人の力ではできません。でも、イエス様が私たちの罪を背負い十字架にかかってくださいました。古い自分は死んで、新しい命に生きているのです。Uコリント5:17。自我が死ねば死ぬほど、聖霊が豊かに働くようになります。
 アブラハムは、旅人の人生をどのように生きたのでしょうか。彼はカナンの地で旅人や寄留者のように生きながら、ただ神様の御言葉だけをつかんでいました。彼が御言葉だけ拠り頼んで生きた時、神様の御力がともに働いて、偉大な人生を生きることができました。イスラエルの民は、荒野で御言葉に拠り頼んで旅人のように過ごしながら、多くの奇跡を体験しました。天からマナが降りたり、岩から水が湧いたりしました。

V−異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい−12
 私たちが旅人や寄留者のように生きるのは、私たちのためだけではありません。イエス様を信じた者たちを世の人々が見ています。12節。まず、「異邦人の中にあって」というように、私たちが世の人々と一緒に生きて行かなければならないということです。その生きる方式はまったく違います。その生きる方式を変えてはいけません。ただ世で旅人や寄留者として信仰をもって生きて行くのです。人々は、慣れ親しんだ所で我が物顔で生きて行くのですが、私たちたちは、見知らぬ土地にいるように、見知らぬ人々の中にいるように、しっかり気遣いをしながら生きて行くのです。自分の家庭であっても、ずっと通っている職場や学校であっても、そうするのです。そんなことして来なかったならば、きょうからそうしましょう。家庭でも、職場や学校でも、私たちは旅人や寄留者なのです。
 村人が見知らぬよそ者を悪く言うに、しばしば世の人々が私たちを「悪人呼ばわり」することがあります。その時は悲しく辛いですね。なぜ、御言葉に従って誠実に生きようとするクリスチャンを悪人だと非難するのでしょうか。自分たちに協調しないので、悪人呼ばわりするのです。ですから、私たちは、悪人呼ばわりされても、敵対したり離れたりしないで、しっかり信仰に生きるのです。世の人々と会うようにして、人々と遊ぶためではなく、人々を助けて仕えて、人々に主の愛を伝えるために訪ねて行くのです。「立派な」とは、「他の人の目にとまる魅力的な美しさ」という意味です。私たちの生き様は、魅力的でしょうか。キリストの香りを放つクリスチャンでありたいと願います。Uコリント2:14~15。
 そうすると、世の人々が「おとずれの日に神をほめたたえるように」なるというのです。「行いを見て」とは、ただ見るのでなく、「観察する」ことです。世の人々は、クリスチャンを観察しています。そこに真実はあるのか、そこに救いはあるのか、と観察しています。キリストの香りあふれるクリスチャンの姿を見て、やがて人々の心が変えられ、救いへ導かれる時が来ると約束しています。ともに神様の栄光をほめたたえるようになるのです。私たちは、そのために、世に旅人や寄留者として置かれているのです。私たちの生き様が人々の救いにつながっているのです。
 私たちが、この世でイエス様を信じていることが、どれほど素晴しいことで驚くばかりの恵みであるか。私たちは、肉の欲の渦巻く世を旅人寄留者として歩みながら、永遠の御国へ向かって行く巡礼者なのです。世の人々は、時には悪く言いながらも、真実なものか、信じてよいものか、救いはあるのかと私たちを観察しています。マタイ5:16。私たちは、信仰の光を人々の前で輝かせ、私たちの真実な信仰生活の証しを見て、人々が神様を賛美しますようにしたいのです。



Tペテロ
2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
2:12 異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。



ヘブル11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

ヘブル11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

ローマ7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

Uコリント2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

マタイ5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

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