2013年9月22日「キリスト者の自由」Tペテロ2:13〜17

序−私たちは、私たちの属する社会の一員であって、責任をもって生きなければなりません。その時の鍵となることが、「キリスト者の自由」です。それは、自分勝手にする自由、人から干渉されない自由ではありません。キリスト者の素晴しい自由を学び、社会での生活をしっかりしましょう。

T−世でのクリスチャンの態度−13〜14
 キリスト者と国家、社会や政治の問題は大事なことです。しかし、このような箇所を学ぶまでは、あまり覚えることがないかもしれません。クリスチャンは、世に対してやや間違った思いを抱き、世に適用しない人になる可能性があります。理想は高いが、現実に足がついていない若者のようです。言うことは高尚な理想を述べても、現実生活が伴っていないクリスチャンの姿は、絵に描いた餅のようです。
 キリスト者は、神様を知って、人生の目標も知っています。しかし、精神的には素晴しいことを知っているのに、現実を無視して生きている人々もいます。今日の箇所で、イエス様を信じた者たちが、世のすべての制度を認めて、従うようにと勧めています。13〜14節。世のすべての制度が悪いわけではないからです。世を信仰で生きることは重要なことです。
 では、私たちが世の制度や体制を認めて従う理由は何でしょう。それは、世の為政者たちが、「悪を行う者を罰し、善を行う者をほめる」働きをするからです。クリスチャンといえども、イエス様を信じた後も、心の中や生活の習慣に罪の性質が残っています。ですから、この世の制度を通して、矯正や訓練を受ける必要があります。交通取締りがあってこそ、事故から守られます。世の様々な制度は、世の人々には秩序の維持のためですが、イエス様を信じている人には、もっと成熟した謙遜な者になり、もっと社会の中で整えられるためにあるようです。
 さらに、私たちが、世にあっては旅人、寄留者であるがゆえに、世に生きている間は、世の制度や秩序を認めて、従わなければなりません。旅人、寄留者にとって、郷に入れば郷に従え、信仰に反しない限り、極力世の制度や秩序を尊重し、従う必要があります。キリスト者は、偶像を拝んだり、酒を飲んだりしませんが、信仰にあって受け入れることのできる事には従い、とにかく謙遜であるべきだということです。
 よく、この世は信仰の世界と別だと切り離し、教会では熱心でも、世の生活をなおざりにする人々がいます。しかし、健全な神の国論は、教会と世を別にする二元論ではなく、この世も神の支配する中にあります。為政者は、神から法と秩序の保持のために委ねられた存在なのです。ローマ13:1〜3。為政者がその責任を悟っていないだけです。私たちは、世にあって、主にある自由人として最大限世の権威を尊重し、権威に従うべきなのです。

U−愚かな人々の無知の口−15
 もちろん、キリスト者がどんなに熱心に最善を尽くしていても、憎んだり、攻撃したりする愚か者がいると言っています。15節。「愚かな人々の無知の口」とは、何の意味なのでしょうか。結局のところ、キリスト者がどんなに地の塩世の光となっていても、信仰自体を嫌い、神に敵対し、イエス様を信じる者を攻撃しようとする者の姿です。
 意外にも、世の人々が被害者意識を持って生きているということです。世の人々がなぜ似た者同士集まっているかと言えば、自分を守るためなのです。自分の利益を守るために、人を攻撃するようです。ですから、旅人であり寄留者であるようなキリスト者は、敵対し、攻撃したくなる対象となり易いのです。世の人々の中には、何か良くないことが起これば、誰かに責任をかぶせて、犠牲にしようとする思いがあります。誰かがクリスチャンのせいだ言うと、みなそれに呼応して、クリスチャンを犠牲にしたという事件は、歴史上しばしば起こりました。人の心で問題になるのが、威張りたいという高ぶりと抑圧を受けて生じる怒りの感情です。こういう心は、誰か弱い者を犠牲にしなければ、満足しません。
 救い主イエス様はそういう人々の犠牲となるために世に来られました。ですから、イエス様を信じる者が人々の攻撃を受けるのは、当たり前なのです。使徒 5:41。人々は、イエス様を信じる者を理解できないために、なぜするのか分からずに、無知な愚かなことばを浴びせます。ルカ23:34。私たちは、対抗したり、戦かったりすることはしません。私たちがすべきことは、神様に祈り、忍耐することです。人の怒りは神様の義をまっとうすることはできません。ヤコブ1:20。
 世で本当に美しいことは、抑圧を受け、攻撃やさげすみを受けても、忍耐して、善を行って親切にしている姿です。攻撃やさげすみを続けることはできなくなります。人は、そういう姿を通して、本当の美しいものが何であるかを知るようになり、真の神様を覚えるようになるのです。イエス様を信じる者は、困難な目にあっても、怒ったり、絶望したりしないで、むしろ、信仰をもって受け止め、変わらずに仕えて、善を行って生きて行くなら、人々は神様を見るようになります。
 これが、本当の勝利です。やたら権威に逆らい、人々の攻撃に対抗しようとする人がいます。それは、健全なクリスチャンの姿ではありません。人々の肉の思いに反応し、敵対するなら、同じ無知な愚かな姿だと言わざるを得ません。神様を恐れる心をもって、謙遜に受け止め、善をもって戴すべきです。それが、愚かな人々の無知の口を封じることであって、神様の願われることだからです。
 ですから、キリスト者はこの世の政治に無関心であってはなりません。何とかして政治に神様の御心があらわれ、公儀が行われるように祈らなければなりません。政治というものは、社会のすべての欲望が集まっているところです。どれほど汚れることでしょうか。公平で立派に政治をする人があらわれるように祈らなければなりません。ローマ帝国がキリスト教を公認した時の皇帝はコンスタンティヌス大帝ですが、彼のお母さんと家庭教師がクリスチャンでした。結局、次の時代のために指導者をよく育てなければならないということです。

V−あなたがたは自由人として−16〜17
 権威に従うなんて嫌だ、自分は奴隷でないと人は言います。しかし、キリスト者が世の制度に従い、世の権威を尊重するのは、自由人だからです。16節。イエス様の十字架の犠牲を信じて救われた者は、罪赦され、天国への命をいただきました。救われた者は、もはや罪の奴隷ではなく、滅びから解放されている存在です。ローマ6:6,17~18。生意気に反発するのでなく、自由だからこそ従う崇高な精神こそ、信仰者の姿です。
 クリスチャンは、素晴しい自由を持っています。普通自由と言えば、人の干渉を受けないで、自分の思うままに何でもできることを自由だと考えます。しかし、それは本当の自由ではありません。本当の自由とは、「その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって仕え」ることです。ガラテヤ5:13。イエス様を信じることで罪と滅びから救われ、自由にされたから、罪の奴隷から解放された自由をもって、人々に仕え、世の制度や権威に従うのです。信仰で正しいと思うことができる自由です。肉の欲に囚われない自由、人を妬まず憎まない自由、人を赦し祝福できる自由です。世の人々は、そういうものを自由だとは考えません。
 では、クリスチャンは、この自由をもってどのように世を生きるのでしょうか。あと数日しか地上で生きられないとしたら、人はどのように過ごすでしょうか。あれこれ肉の欲のまましようとするかもしれません。しかし、キリスト者は、与えられた自由をそのようなことで乱費しません。愛する人々に会って感謝したり、敵対する人と和解したり、間違いを誤ったり、助けを必要として人を助けたり、救いを証ししたりするのでしょう。私たちは、その延長線を生きているに過ぎません。そのように意識して生きるなら、それは大切な一日一日となるでしょう。神様に感謝と賛美をささげて生きるようになります。人々との出会いと交わりがとても大切なことになります。17節。神様を恐れ、人々を愛し、権威を尊重して生きる崇高な生き方となります。
 クリスチャンの持っている最も驚くべき力は、人を励ますことができることです。肉の欲に囚われた者は、人々をつぶしてでも、自分の我を通そうとし、自分の意のままにしようとします。しかし、イエス様に救われた者は、むしろ人の不足を補ってあげて、満たしてあげます。人をつぶして自分を通そうとするのは、心の狭い妬みや劣等感から出て来るものです。「他人は自分を映す鏡」と言われます。人の自分に対する態度が自分の人に対する姿を映していると言うのです。私たちが人を愛し、大切にするなら、自分もそうしてもらえるのでしょう。しかし、気分が悪い時、人にもそのように接するなら、一つのたましいを傷つけることになります。ですから、良くない気分や感情のままに人に接しないように、聖霊に満たされて人に対するなら、人々を助け、励ますことができます。
 キリスト者の自由の基本は、イエス様の十字架によって救われて、罪と滅びの奴隷から解放されている自由です。ヨハネ 8:32。罪と滅びからの自由は、同時に神様の奴隷となりました。私たちは、神様のしもべとして、神様に礼拝すること、神様の御旨に沿って生きることが最も大きな喜びとなっている者です。神様を礼拝できる自由こそ、最大の自由です。



Tペテロ
2:13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、
2:14 また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
2:15 というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
2:16 あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。
2:17 すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。



ローマ13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。


使徒 5:41 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。

ローマ6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
ローマ6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

ガラテヤ5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

ヨハネ 8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

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