2013年9月29日「イエス様のことを思って」Tペテロ2:18〜25

序−人は、自分に対する期待値と現実の間に大きな差があると、現実に適用することがとても困難になります。当時ローマ社会にいたクリスチャンは、神様を礼拝する時、恵みを覚え、霊的な自由を感じることができました。しかし、現実に戻って行くと、奴隷という悲惨な現実が待っていました。クリスチャンは、世で抑圧を受けたり、人生のどん底に落ちたりする時、どう生きたらよいのでしょう。

T−主人に服従しなさい−18
 私たちは、イエス様を信じる前は、自分の存在の意味さえ分からないような者でしたが、イエス様を信じた時から、神様の子どもとなりました。クリスチャンは、自尊心があります。ところが、実際には、世では部下やしもべとして、命令に服しなければならない境遇であることが多いのです。理由もなく過酷な罰を与える主人もいました。そのような主人にも従いなさいと励ましています。18節。
 神様の子どもとされていながらも、現実には人の命令に服さなければならない何らかの立場にあるものです。自分の上に立つ人が、人格的に立派な人の場合もあるでしょうが、気難しくひねくれた人も多いでしょう。なぜ、自分を愛してくださる神様が、ひどい主人の下で迫害を受けるままにされているのかと悩むのです。幾つかの理由が考えられます。
 私たちは、困難な現実の中で、イエス様に出会い、神様により頼むようになります。世は私たちの信仰の訓練場として備えられているようです。神様が私たちにくださった祝福は、それを元にして、私たちが信仰でもって最高に生きることです。その時、苦難が重要になって来ます。苦難の中で、御言葉をつかみながら、祈りながら生きているうちに、偉大な信仰の人生を生きるようになるからです。何の妨げもなく、思い通りの平安の中では、私たちの信仰は危うくなり易いのです。どちらかと言えば、多くの神の民が苦難の中で苦闘しながら、偉大な信仰に導かれます。
 私たちは、平安に過ごすことを願い、人間関係に煩わされることのない環境で、満足できる収入を求めます。しかし、そんな都合の良い環境はほとんど不可能だと考えたほうがよいでしょう。私たち自身が、信じたとは言え、実際には自分中心な高慢な性格はそのままです。それが砕かれて、新しくされるまでは、神様の祝福を受けるのが難しいのです。ですから、世の気難しい人々も、自分の訓練と受け止め、仕えるのです。横暴な主人にはむかうなら、大変な目に会うでしょう。
 特に最も辛いのは、人格を否定するような虐待に会うことです。そのようにする人は、神の民を悪口雑言で倒して、心を萎えさせようとするのです。耐えられないような怒りを覚えますが、涙を流しながら祈るのです。そうして、高慢で頑なな気質が、少しずつ抜けて行くのです。
 私たちを悩ませ、落ち込ませることの一つは、経済的困難でしょう。生活が苦しくなり、将来への不安も生じます。しかし、経済的困難よりも辛いのは、人から苦しめられ、悩まされることです。勤勉な者が職場で横暴な上司に悩まされ、嫁が家でひどい姑や悪い夫に苦しめられることがあります。会うたびに言葉で痛めつけられ、信仰的侮辱も受けたりします。
 特に辛いのは、ずっとその状態が続く場合です。このような場合、「なぜこのような人が、こんなに私を痛めつけるのか」と考えるだけでは、耐えることはできません。「私を整えるために置かれているのかもしれない」と考えて、仕えて行くなら、相手はやがて苦しめることに興味を失い、親しくなることもあります。自分を苦しめる人を何とか信仰で受け止めるなら、すでに勝利は始まっています。
 ダビデは、王になる前に、サウル王という横暴な主人から大変な侮辱と攻撃を長く受け、心を痛めつけられました。苦しくて苦しくて、神様にサウル王の非を訴え、自分の思いに固執して願い続けました。それでも、王として敬うことをおろそかにすることはありませんでした。すぐに迫害は止みませんでしたが、神様に守られて、多くの訓練を受け、素晴しい信仰の王となりました。私たちも、自分が固執して、頑なになっているところを捨て、横暴な人々に信仰をもって仕えて行くなら、神様により頼んで行くなら、神様の豊かな祝福を受けるようになります。

U−不当な苦しみを受けながら−19〜20
 私たちも、世で生きて行く中で、不当な苦しみを受けることがあります。その時、私たちは、悔しく、やりきれない思いに陥るでしょう。ダビデのように私たちの信仰も揺さぶられ、信仰の危機に出会うこともあります。危機の時には神様の愛が分からなくなるからです。それで、こう勧められています。19〜20節。「神の前に」と言うように、ただ単に横暴な上司に対してと思うのではなく、神様の前でしていると思うということです。神様の臨在を自覚すればこそ、不当な苦しみにも耐えられるというのです。私たちは自分の力で何とか耐えようとするからきついですが、神様が一緒だ、神様が助けてくれると思えば、きつさも和らいで来ます。
 「不当な取り扱いを受けて、悲しみをこらえるなら、神様に喜ばれる」とも言っています。「喜ばれる」と訳された「カリス」は普通「恵み」と訳される言葉です。不当な取り扱いを受けてながら耐えられることが「恵み」だ、神の恵みを受けた者に相応しいということです。ルカ6:32〜34にも、カリスが用いられています。自分を愛さない者を愛し、自分に良いことをしない者に良いことをし、返さない者に貸すような行為を、カリス、神様の恵みだと言っています。自分の肉の力で耐えるのでなく、救われた「恵み」で、耐えるのです。それが、また恵みです。
 私たちは、この世は決して平和の世ではないことを、忘れてはなりません。悪をなす者の背後では、サタンが暗躍しています。サタンが悪い者たちを使って、神の民を攻撃しているのです。神の民が横暴な主人や悪い者に捕まれば、勝つことはできません。それで、イエス様は、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈るように言われました。マタイ6:13。この「試みに会う」とは、私たちが横暴な者に対して心の中で怒ったり、罪の思いを持ったりすることです。苦難のためにサタンに誘惑されている状態です。私たちの反応が重要です。ですから、神様に祈り、助けを頼まなければなりません。マルコ9:29。結局、神様だけが悪の力を抑え、困難が祝福に変わるようにされるのです。終わりまで忍耐して、神様がその問題に介入してくださるように要請しなければなりません。

V−イエス様に従い、模範とする−21〜25
 苦難に会う時、何よりも、イエス様が彼らに先んじて不当な苦しみを受けられたことを覚えなさい、イエス様の苦しみは、不当に扱われた者の模範であり、イエス様は苦しみに耐えた者の模範だと教えています。21〜23節。イエス様自身、「わたしから学びなさい」と言われました。マタイ11:29。イエス様が世で苦しめられたり、ののしられたりする理由は、まったくありませんでした。しかし、イエス様が苦しみとののしりを受けられたのです。それは、私たちの救いのためでした。
 私たちが世で苦難を受ける時、幾つかの理由があります。まず、苦難を通してイエス様と一つになる体験をします。クリスチャンがののしられ、苦しめられる時、イエス様も人々から苦しみを受け、ののしられ、さげすまれたと思うなら、主は私たちのところに来られます。使徒たちは、迫害にあったり、牢に入れられたりした時、神様の驚くべき取り扱いを受けています。牢屋の中でも、イエス様が一緒だと思い、賛美しています。使徒16:24〜26。苦難の中で祝福を受けることは、苦難の中で神様にお会いするからです。自分が人生のどん底で会ったイエス様は、本当に私と共にいてくださる私の救い主なのです。
 人生のどん底で会えたイエス様は、他の人にも必要な救い主です。苦難の中で耐え忍んだならば、それが他の人には驚くほど美しく見えるようになります。「善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれる」と言うくらいですから、私たちが苦難の中で耐え忍ぶなら、明らかにそれを見ている人がいて、それがとても美しく、素晴しく見えるのです。彼らは、苦難を受ける聖徒たちを通して、十字架にかかられたイエス様を知るようになり、救いに導かれる可能性が増します。
 私たちが横暴な主人に従い、人々から苦しみやののしりを受けても耐えられるようになるのは、ひと時も忘れてはならない、すごい理由があります。24〜25節。私たちがこの世を生きて行くならば、抑圧や苦難を受けることが多くあります。しかし、イエス様が私たちのすべてをその身に負って十字架に苦しまれ、死なれました。イエス様が、私のために苦しめられ、ののしられ、悲しまれ、十字架にかかられたのです。イザヤ53:5〜6。イエス様は十字架上で私たちの罪をその身に負われました。私たちの心の痛みは、イエス様の「うち傷のゆえに、いやされる」のです。
 以前は、羊のようにさまよい、滅びに向かっていた私たちも、今はイエス様に出会って救われています。根本的なたましいの平安を得ているのです。「牧者であり監督者である方」とは、イエス様がご自分の囲いの中にいる者を、イエス様の世話を受けている者たちを守っておられるということです。人々から苦しめられようとも、ののしられていても、イエス様のもとにいる私たちは、何と幸いでしょうか。



Tペテロ
2:18 しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。
2:19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。



マタイ6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

ルカ6:32 自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。
6:33 自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。
6:34 返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。

使徒16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

イザヤ53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

戻る