2013年10月6日「より弱い器」Tペテロ3:1〜7

序−神様が人を造られたのは、神の愛を人に与えるためであり、人が他の人を愛するためでした。最も美しい姿は、互いに愛する姿であり、最も醜い姿は、互いに憎み、戦う姿です。1節冒頭で「同じように」と言うように、これまでのクリスチャンの社会生活の続きです。結婚生活とは、社会において個人的な相互関係に関する神様の定めの一つです。

T−妻や夫は最も近い隣人−
 キリスト教のすべての真理は、二つの愛の命令に要約できます。ルカ10:27。神様をすべてを尽くして愛することと、もう一つが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということです。隣人というのは、知らない他人でしょうか。隣人のうちでも、最も近い隣人とは誰でしょうか。最も近い隣人が、すなわち妻であり、夫だということです。ですから、私たちが自分の妻や夫を愛さないで、他人を愛するのは、正しいことではありません。自分の夫や妻を放っておいて、他の男性や女性によくしてあげるというのは、神様の命令に背くことだということです。
 ずっと前に、一度だけセルに来た人があり、その時の学びが強盗に襲われた人の隣人となった親切なサマリヤ人の話で、ふと「隣人って、夫ことかしら」と独り事言われました。そのまま学びは進んでしまったのですが、あとからその方が夫婦関係で悩んでいたことを知りました。省みるべき隣人を考えた時、夫のことを思い出したんですね。
 「隣人をあなた自身のように愛せよ」とは、人が自分に仕えてくれるのを望むように、自分自身がまず人に仕えることです。イエス様は、しもべのように弟子たちの足を洗い、拭いてくださいました。それは、それだけ弟子たち一人一人が大切な存在だということです。そして、弟子たちも互いにそうしなさいと教えられました。ヨハネ13:14。
 「隣人をあなた自身のように」というのは、自分が相手の足りないところを満たして、完全にしてあげるということです。最近の風潮は、相手の足りないところがあるなら、それを嘲ったり、非難したりして楽しんでいることが多く見られます。そうしている人たちは面白半分でしょうが、言われている人は痛んでいるでしょう。しかし、相手が足りないところがあれば、自分のことのように思い、満たしてあげる時に、相手は、人生に新しい自信と勇気を持つようになります。
 私たちは、ややもすれば、最も近い隣人を裁いて、断罪し易いのです。人は、身近に見ていれば、足りないところや欠けや弱さがよく見えて来ます。どうしても、身近な人のことを批判的に見ざるを得ません。しかし、むしろ包むようにしてあげる時、人は大きく愛を感じるようになります。私たちは、これを最も近い隣人である夫婦や子どもたちに実践したいのです。最も偉大なことは、隣人が自分自身を取り戻して、自信をもって新しい出発ができるようにしてあげることです。これが、隣人を自分自身のように愛することです。夫や妻こそ、その隣人の最たるものです。

U−夫の妻への愛−7
 今日の箇所を見ると、妻たちに対しては6節まであるのに、夫たちに対しては7節の一節だけです。妻たちの方が、問題が多いのでしょうか。そうではなくて、当時イエス様を信じる人々は女性たちが多かったからです。イエス様を信じる女性たちが、先に犠牲もはらいながら仕えなければならないという意味で、女性に対して多くのことを命じているのです。女性への勧めの先に、短い勧めである男性の方から学びましょう。
 7節。文は短いですが、内容は豊かです。決して簡単なことではありません。一言で言えば、「男性が女性を理解するように努めなさい」ということです。それは、夫が妻と一緒に生活していても、妻が何を願っているか、どんな状態にあるのかを分かっていないからです。高価な機械を持っていても、その使い方を知らないまま置くようなものです。多くの男性も、結婚後、夫婦関係をどう築いてよいか分からずに放っておくようです。
 「わきまえて妻とともに生活し」というのは、他の訳では「知識にしたがって」とか、「適切な理解をもって」となっています。男性が女性を理解して一緒に住むことがどれほど重要なことであるか教えています。たとえば、男性は女性が妊娠して子どもを産むことがどれほど大変なことが知りません。その間の心理的変化や不安も分かりません。洗濯や掃除や料理などが、ひとりでに簡単にてきぱきできるくらいに思っています。女性が三度の食事に何を出すか悩み、不味そうに食べれば心痛めているのを知りません。稼いだ給料をあげればいいということではないのです。
 イエス様を信じている女性は、無限の可能性を持っています。愛してあげて、自信感を持たせてあげる時、超人的な能力を出すようになるのが、クリスチャン女性です。聖書の中に登場する尊く用いられ女性は、苦難の中でも神様の愛を覚えて、自信感を持っていた女性です。ですから、イエス様を信じる女性が自信を持つようにしてあげなければなりません。クリスチャン女性が最も幸いな時は、御言葉に深く取り扱われる時です。恵みに満たされたクリスチャン女性は、勇気と活力に満ちています。
 特に男性が覚えておくべきことは、「女性が自分よりも弱い器だ」ということです。「弱い器」というのは、感情的に敏感で、傷を受け易いということです。それは、壊れ易いガラスの器のようです。イエス様に出会って尊い存在になりますが、信仰で整えられている過程です。それなのに、浅はかにののしったり、あざけったりするなら、人格は傷つき、ガラスの器にひびが入ります。小さな言葉一つにも傷つきやすく、長く痛みます。ですから、男性が女性を自分と同じだろうと思ったら、大変なことになります。男は、怒ったり言い争ったりしてはなりません。Tテモテ2:8。
 ですから、男性に対して、女性を「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい」大事に思いなさい、と言っているのです。神様の前には、夫婦は互いを補完し、整えるようにするのです。人生を終えて神様の前に立つ時、夫は「お前は妻を信仰的に美しくしたか」と、神様から問われるでしょう。多く稼ぐことよりも、どれだけ妻を霊的に造り変えられるように、信仰豊かにしたかを問われるのです。夫の使命は、妻の弱いところを理解し、包んであげて、妻を信仰的に豊かにしてあげることです。

V−妻の夫への愛−1〜6
 では、妻たち、女性にはどう勧めているのでしょう。1〜2節。クリスチャンの婦人が覚えておくべきことは、神様が夫を自分のかしらとして与えてくださったということです。未信者の夫を持つ婦人たちに対して、夫に従うように教えています。とはいえ、妻が下だとかではなく、信仰の妻の方がはるかに尊い存在です。ただ騙されやすく、非現実的になり易いので、夫の助けが必要です。未信者の夫と暮らして最も困難なことは、考え方と価値観が違うということです。すべての点で違えば、ぶつからざるを得ません。とりわけ信仰がないために、幼稚で利己的です。そのために、信仰のある妻は、失望したり、憂うつになったりし易いのです。
 男性は愚かだとしても、かしらなのです。夫が愚かだからと妻が自分を主張しようとするのは、愚かな姿です。クリスチャンの妻は、夫を言い負かそうとするのではなく、夫をかしらとして良く認めてあげることです。「妻の無言のふるまいによって、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見」て、夫は神様を信じるようになると言っています。未信者の夫は、言葉で信じることがなくても、妻の神様を真摯に恐れ、誠実に信仰で生きる姿を見て、信じるようになります。夫をばかにしたりしない、敬い、仕えることで信じるようになるのです。
 多くの女性の望みは、自分を美しく見せて、人の注目を浴びることです。そのために大変な労苦をし、争います。お金も失い、精神を病む人もいます。しかし、信仰ある女性はどうでしょう。聖書は何と言っていますか。3~4節。クリスチャンの婦人たちの化粧は、世の婦人たちと違います。体に飾りを付けたり、着飾ったりしないで、「心の中の隠れた人がらを飾りに」するというのです。これがどんなに美しいことでしょうか。
 「柔和で穏やかな霊」とは、心の中に怒りがないことです。人々は怒りを抱きながら育ちます。そのために、心の傷が多いのです。イエス様を信じた後も、その傷のために正しく反応できないことが多く見られます。すべてのことに曲がって反応するのです。心に怒りのある人は、自分でも分からないうちに恐ろしい怒りを吐き出します。クリスチャンは、怒りを変えることができる人です。愛は、心に怒りを抱かせないで、怒りを溶かします。どれほど美しく、魅力的に見えて来ることでしょうか。
 男性の方でも、「心の中の隠れた人がらの飾り」を見てあげなければなりません。5~6節。サラも信仰の父と呼ばれたアブラハムがいて、美しく輝いたのです。神様に望みを置く婦人は、内面を飾り、進んで夫に従いました。それが、美しく見えました。私たちが人を愛するのは、とても素晴しい神様の祝福です。まず最も身近な人から愛してみましょう。ことばで言うよりも、まずその人を理解しようと努めることが、愛です。傷が大きくてとても愛せないと言う人が、まず理解しようとしてみました。そうするうちに、憎しみの感情が少なくなったそうです。人の心に信仰が育つ前には、心がさまよう時間が多いでしょう。理解して、期待してあげるなら、信仰への道を進んで行くようになります。使徒20:35。



Tペテロ
3:1 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。
3:2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。
3:3 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、
3:4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。
3:5 むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。
3:6 たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。
3:7 同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。



ルカ10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

ヨハネ13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

Tテモテ2:8 ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。

使徒20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。

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