2013年10月13日「幸いな日々を過ごしたいならば」Tペテロ3:8〜12

序−人は誰でも幸せを探し求めています。ところが、心傷ついて、自分で不幸だと思っている人々もいます。この箇所は、苦難に会っている聖徒たちに対して、どうにすれば、幸福に生きることができるか教えています。人間関係におけるクリスチャン生活原理について教えている箇所です。

T−自分の人生を不幸だと考える人々−10
 10節に「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は」と言われています。それは、「自分の一度だけの人生を悔いなく、美しい人生として生きることを願うなら」という意味です。たった一度の自分の人生が無意味で、惨めなものになることを願う人は、だれもいないでしょう。それなのに、自分の人生は無意味で、悲惨だ、私は不幸だと思い、もう生きる必要もないと考える人々も多くいます。
 人生の意味を知ることができず、人生の意味を求めてさまようのは、神様との関係が切れているためだと聖書は教えています。創造主なる神様に造られた人間は、造ってくださったお方との関係が回復してこそ、自分の存在の意味と人生を生きて行く理由が見出せるのです。造り主の御前に立ち返って、大切な自分の人生を取り戻すのです。Tペテロ2:25。自分の人生の大切さを分からないなら、他人の人生の大切さも分かりません。私たちは、イエス様に出会ってこそ、神様に愛されている自分が大切な存在であることを知るようになります。にもかかわらず、世において幸いを感じられないのは、なぜでしょう。自分の人生を失敗したと否定するのは、どうしてでしょう。
 私たちは、イエス様の十字架を信じた時に、罪の赦しと永遠のいのちをいただきました。罪の奴隷から解放され新しい人生を生きることができるようにされています。天国に入ることができるようになりました。人生の行く末も保障されているということです。イエス様に救われた者は、死は滅びではないのです。世においては、苦難や逆境もありますが、それに打ち勝つことができるようにもされています。何ものにも比べることのできない素晴しい祝福が与えられているのです。
 にもかかわらず、自分は不幸だと思いながら、生きてしまうのです。それは、世の中で自分の人生がつまらないと思うからです。神様からいただいた祝福を思うことができず、世は苦しく、辛いものであるかのように思うのです。確かに、苦しく辛いことばかり目に付いて、祝福や恵みを見ないならば、喜びのない生活となってしまうでしょう。
 イエス様を信じた私たちも、心の中には肉の思いが残っています。その肉の思いに揺さぶられ、ほんろうされます。とりわけ問題なのは、私たちを憎み、敵対する人々がいて、そのような人々の言動にひっかかってしまうことが多いことです。そして、辛い思いや心の痛みが生じ、憎しみや怒りにかられ、報復するようになるのです。問題は、ここにあります。幸いを覚えることのできない原因は、このような関係にあるのです。

U−クリスチャンの報い−8〜9
 幸いを覚えることができず、自分は不幸だと思う人々に、聖書が勧めてことは何でしょう。8〜9節。強調しているのは、9節です。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」と、勧めています。10,11節でも、繰りかえされている勧め、命令です。なぜ、人は幸いになれず、不幸に思うのでしょう。それは、人の悪意や攻撃に対する自分の対応、すなわち報復や仕返しが問題となるからです。
 「報いる」というのは、「仕返し、報復、リベンジ」ということです。それは「当然であるべき仕返し」という意味です。一昨年アメリカで「リベンジ」という連続ドラマが高視聴率となり、延長されました。今年日本でも、「倍返し」というフレーズが有名になったドラマもありました。肉の心には、仕返しは当然だという強い思いがあります。しかし、それは不幸をもたします。たとえ報復したとしても、本当に幸福になれるわけではありません。リベンジというドラマでも、父親の復讐に燃える主人公の女性が、リベンジをして行くうちに、複雑な感情が生じるようになり、動機と行動に疑問を持つようになります。
 「仕返しするな」というだけではありません。何と、「かえって祝福を与えなさい」というのです。これは、イエス様が繰り返し命じられたことです。ルカ6:27〜28,Tテサロニケ5:15。使徒パウロも、勧めたことです。ローマ12:17,Tテサロニケ5:15。「仕返しない」で我慢するどころか、「祝福しなさい」というのです。そんなの無理と思います。しかし、私たちは「祝福を受け継ぐために」救われたのです。悪をなす者を祝福するというのは、救いによって与えられた信仰の財産だ、人々にも受け継いで行く資産だというのです。私たちの元々の力ではなく、自分を救ってくれたイエス様の十字架の力、福音の力がさせてくれるということです。侮辱を与えたのに、祝福のお返しを受けたら、相手はどんなに驚くことでしょう。これが、私たちを憎しみや怒り、報復の思いから解放する神様の方法なのです。
 手紙を受けた聖徒たちは、迫害と苦難の中で生きており、敵対してくる者たちに対して、怒りや憎しみを抱いたことでしょう。彼らに対する苦々しい思いのために、幸いを覚えることができませんでした。私たちも、人々から悪口や侮辱を受け、少なからず痛みを受けます。怒りや憎しみを抱くでしょう。仕返ししたいと思うこともあるでしょう。でも、ここまで来て、大切なものを失いますか。いいえ、だめです。痛んでいる人がいますか。でも、報復して、その祝福を失わないでください。神様は、痛みを通して私たちをきよめ、天国への望みをもっと確かにもたせてくださいます。
 クリスチャンが注意しなければならないのは、執着する思いです。人が自分に仇なすなら、そのままにしておくことができず、報復したがるのです。しかし、信仰の恵みのゆえにその執着を捨てます。他の人に寛大になります。神様が私たちに対して寛大であられ、イエス様の尊い犠牲をもって救ってくださったからです。私たち一人一人、自分の尊厳を持ちながら、人に対してあわれみ深く、謙遜になることを望みます。

V−クリスチャンの喜び−10〜12
 10〜12節は、詩篇34篇の引用です。幸いな人生を求める者に対する、いつの時代でも変わらない神様の命令です。イエス様を信じる者が、どうして自分は不幸だと思うのでしょう。なぜ偉大な救いを受けながら、幸いを享受できないのでしょう。自分に仇なす相手に仕返したり、悪口や侮辱を返したりしてしまうからです。報復したいと思いが心にあふれるからです。本当に人生を幸いに生きたいですか。そうであるなら、「舌を押さえて悪を言うな」と強く禁止しています。そして、「善を行い、平和を求めよ」と命じています。私たちも、「悪いことばを一切口から出さないようにしよう。人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えるようにしよう」と決意したいのです。エペソ4:29。
 私たちは、世では憎まれることもあります。世の寄留者としてのけ者にされることもあります。私たちは、イエス様を信じて救われたことで、罪赦され、天国のいのちをいただき、神様の祝福を受け、尊い存在とされています。そのために妬まれ、憎まれるのです。それは、反面、私たちが世で謙遜になって、世の人々を理解しなければならないことが求められているということです。人々が私たちに対して、自分をよく理解してくれ、もっと親切にしてくれと求めているようなものです。信仰が成熟して行くと、相手がどうだからということでなく、相手がどんなだとしても、相手を理解し、自分を低くして謙遜になって、親切にするようになります。世の人々も、その信仰者を認め、好むようになります。
 詩篇34篇は、神様を賛美することから始まっています。ダビデがこのように賛美しているのは、彼がすべてについて豊かだからではありません。願ったようになるからでもありません。むしろ、困苦の中で神様に祈って、助けられたからです。自分を妬み、恨むサウル王から悪く言われ、苦しめられても、自分からサウル王に悪口を言うことも、憎むこともしませんでした。かえって、忠誠を尽くし、善を返しました。12節は、苦しみと絶望の中で神様に祈り訴えて、守られたダビデの体験から出た表現です。
 当時、聖徒たちの多くは奴隷でした。暴力を受けることもあり、人格的侮辱を受けることも多かったでしょう。現実はとても悲惨なものだったと思われます。しかし、神様はそのすべてを見ておられ、その叫び声を聞いておられ、その裁きの顔は、悪をなす者に向けておられます。神様の愛の御顔はどこに向けられていますか。今苦しんでいるあなたに、あなたの傷に向けられています。神様は、何に耳を傾けておられますか。神様に叫び、訴えているあなたの声に耳を傾けておられます。そして、あなたに悪を行い、あなたを苦しめているその人を怒っておられます。
 神様が自分の困難な状態を知っておられる。そうであるなら、私たちは何も悩む必要はありません。聖徒たちの慰めはどこにありますか。神様は、私たちのすべてをご覧になり、私たちの祈りを聞いておられるのです。これこそ、私たちの幸福ではないでしょうか。この世で味わう天国の前味を体験させてくれるのです。御言葉と聖霊と聖徒の交わりと通して、天国の恵みを体験させてくれます。そのような感動を通して、心の傷を治療していただき、人々に善で報いていきます。詩篇94:9。



Tペテロ
3:8 最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。
3:9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
3:10 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、
3:11 悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。
3:12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」



ルカ6:27 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。
6:28 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

Tテサロニケ5:15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。

ローマ12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

Tテサロニケ5:15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。


詩篇34:12 いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。
34:13 あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。
34:14 悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ。
34:15 【主】の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。
34:16 【主】の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。

エペソ4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

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