2013年10月20日「義のために苦しんでも」Tペテロ3:13〜17

序−前の部分で、仕返ししないで、かえって祝福を返しなさいと勧められましたが、それを聞かされる聖徒たちに、そんなことができるのか、そんなことで効果があるのかなどという疑問や不安が生じて来たでしょう。

T−否定的、悲観的にならないで、心を開いて−13〜14
 世の人々からの敵対や侮辱に対して、「悪に悪をもって報いないで、善を行いなさい」と勧められています。ローマ12:17,Tテサロニケ5:15。これが、「かえって祝福を返しなさい」ということです。しかし、御言葉に従う前に、悪や侮辱に対して善を持って返すことについて、果たして効果があるのだとうか、正しいことをしていても苦しめられのではないか、とあれこれ思う人がいます。「仕返しするな」どころか、「祝福しなさい、善を行いなさい」と言われても、そんなことできない、したとしてもうまく行くはずがない、あのような人に通じないと考えて、しないのです。そういう疑問や不安について、こう言われています。13節。
 善をなすことが、害を受けない最もよい方法です。クリスチャンは、敵対する者の脅かしや怒りを恐れる必要がありません。ローマ8:31。神様が私たちの味方なのですから。人というものは、自分が相手に対して敵対的で嫌っているなら、相手も自分に対して敵対的になり嫌うようになるものです。これが、人間関係で受ける痛みです。特に心を痛めるのは、相手から受ける侮辱や嘲りでしょう。さらに心痛むのは、なぜ正しくしている私が痛めつけられなければならないのか、と理解できない思いです。あのヨブも悩みに陥ったところです。
 私たちは、人の思い、肉の思いだけで、御言葉の勧めを「無理だ、できない(嫌だ、やりたくない)」と考えてしまいますが、それは大きな誤りです。自分の肉の思いはあっても、「でも御言葉どおりしてみましょう」という素直さが必要です。ルカ5:5。聖書は、悪に悪をもって報いないで、善を行う者に対して、「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」と励ましています。13節。
 クリスチャンが自分に仇なす人々に対して、憎んだり、嫌ったりしないで、かえって善を行い、祝福するなんて、世の人々には考えられないことです。自分たちがしているように、対抗して憎んだり、ののしったりして仕返しするはずだと思うのです。私たちが、悪や侮辱を受けても、なおも相変わらず相手に良くしてあげて、善を行うならどうでしょう。結局、感動して、思いが変えられて、心の門を開くようになるというのです。
 しかし、私たちの信仰自体、はじめから成熟しているわけではありません。初めは、自分の信仰を守るために、垣根を築いて、敵対しないけれども自分からは別段何かしないということかもしれません。しかし、これが崩れて行くようになります。自分を憎みののしる人が困難に陥ったり、心さびしくしているなら、善を行い、助けてあげる機会となります。世の人はいい気味だとか、そこに付け入ろうとしたりするのですが、私たちはしません。御言葉どおりしてみる絶好の機会です。熱心を尽くして善を行い、助けてあげなければなりません。
 そうすれば、どうなりますか。時間がかかるかもしれませんが、ぴりぴりした関係が壊れて行くようになります。これが、信仰の勝利です。私たちが信仰の成熟過程、工事中にある時には、そのような気持ちになれず、助けることもできないでしょう。でも、信仰や環境が整ってきても、心閉じている愚かなクリスチャンになってはなりません。善を返すならば、自分を苦しめた人が、信仰って素晴しいと感じるようになります。
 私たちが心を海のように広くして、人の困難を理解して、助けてあげようとする善なる心を持つようにしなければなりません。なぜなら、人が悪や侮辱をなしたとしても、それは一時的なことに過ぎないからです。私たちが続けて善を行っていくならば、どんなに自分勝手な人でも、頑なな心が溶けるようになります。これが信仰の勝利であり、イエス様の願いです。まずは、私たちの方から心の門を開くのです。神様の愛によって、すでに私たちの心は溶かされているのですから。Tペテロ2:24。

U−義のために苦しみ−14〜15前半,17
 もちろん、私たちがどんなに善を行ったとしても、憎しみや妬みがなくならないこともあります。言われたように善を行っても、苦難を受けることがあるというのです。なんだ、思ったとおりだということになるかもしれませんが、こう勧めています。14,17節。私たちが信仰でやってみる時、期待値は高いものがありますが、現実的にうまく行かないと、悲観的になってしまいます。義のために苦しむ、つまり信仰のために苦難を受けるのは、クリスチャンとして名誉であり幸いです。14節は前半では、「たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いだ」というのです。なぜ、そんなことが言えるのでしょう。世の人々が悪に善を返す姿をうらやましく見ているからです。神様からの報いが大きいからです。
 イエス様は、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから」と言われました。マタイ5:11〜12。悪を行って苦しみを受けるのではなく、「イエス様のために」つまり、信仰のために害を受けるのは、クリスチャンにとって幸いなのです。人を憎まないで、仕返ししないで、悪をなす者に善を行い、侮辱する者のために祈れるのは、幸いなことなのです。
 14節後半では、「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけない」と言っています。クリスチャンが善を行っても害を受けるならば、「ああ、だめだ。分かってもらえない」と動揺するでしょう。敵対されたり、攻められたりするなら、恐れが生じ、心が痛みます。でも、考えてみてください。ほえる犬ほど弱いと言います。その人の方がもっと不安で動揺しているかもしれません。心に平安や喜びがないので、悪態をなし、侮辱するのでしょう。信仰がない人々は、天国への希望がなく、滅びへの不安や恐れがあります。ですから、聖徒たちに敵対する人々の方が、心の中には不安や恐れがどれほどあるか分かりません。私たちには、その恐れや不安は必要ありません。マタイ6:33〜34。私たちは、何を恐れますか。誰を恐れますか。私たちが恐れるべきは、神様だけです。ルカ12:4〜5。神様を恐れることで人を恐れなくなります。
 ですから、15節前半に、「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい」と言われています。イエス様を主と崇めることが、苦難に勝利する秘訣です。具体的生活においてイエス様を崇めることができるならば、危機の時にも大丈夫です。肉の思いではできない祝福、反応や答えがなければ続かない善、イエス様の救いを覚えなければ、できないことでしょう。悪や侮辱に対して、かえって祝福を返すことができる原動力は、福音です。イエス様に救われた恵みが、悪に悪をもって報いないで、善を行うことができる秘訣です。
 クリスチャンが謂われのない苦難を受ける理由は、何でしょう。人々を救い、社会を生かすために存在しているからです。ですから、私たちが無念にも苦難に会い、抑圧を受けることがあっても、動揺しないことを願います。私たちの苦難を通して救われる人々がいるからです。

V−希望についての弁明−15〜16
 クリスチャンが、悪や侮辱に対して祝福と善をもって返すならば、世の人々は、なぜ憎まないで、仕返ししないでいられるのですか、どうして善をなし、良くしてあげられるのですか、と聞いて来るようになるでしょう。どこに望みがあるのか、と不思議に思うでしょう。すべてのクリスチャンは、イエス様について答えることを用意していなければなりません。15節。
 主を信じている者と信じていない者の差は、危機の時に出て来ます。救い主がいない人は、危機の時、もう終わりだと絶望し、不安に陥ります。パウロを牢獄へ入れた看守は、地震で牢が壊れた時、囚人たちが逃げたから、責任を取って死ぬしかないと思いました。ところが、看守は、自分が痛めつけたパウロに止められ、助けられると、牢獄で賛美し、自分を助けるこの人の持っている「希望」について訪ねました。パウロは、イエス様を信じるように証し、看守は信じます。使徒16:30~31。世の人々は、多くの不安や恐れを持ちながら生きています。クリスチャンは、信仰によって与えられている希望について「誰にでも、いつでも」答えられる用意が必要です。それも、「優しく、慎み恐れて」しなければなりません。その結果、敵対し、侮辱した者も、その行為を恥じるようになるのです。
 有名な説教家ジョン・ウエスレィが、太平洋を船で渡った時、暴風雨に会い、恐れました。その時、クリスチャンの一団が集まって賛美をしている姿に衝撃を受けました。イエス様に望みを持っていた人々でした。私たちの望みは、どこにありますか。私たちの望みは、イエス様が十字架にかかって私たちの罪と滅びを解決してくださって、救い主となられたことにあります。私たちは、何のために存在しているのでしょうか。このイエス様が救い主であることを証しするためです。私たちは、地上の生涯を終えて御国に召されるその瞬間まで、イエス様の救いを証しするのです。そして、生きている間、悪に対して善をもって返し、自分の救いの希望について、いつでも誰に対しても証しして行くのです。ヘブル10:23。



Tペテロ
3:13 もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
3:14 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。
3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
3:16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。
3:17 もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。



Tテサロニケ5:15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。

ローマ12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

ヘブル10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。

マタイ5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

使徒16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。

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