2013年10月27日「主の苦難と勝利の結果」Tペテロ3:18〜22

序−イエス様を信じて、善を行っているのに、なぜ苦難を受けるのだろうか、と聖徒たちは悩みます。「というのは」という言葉が、18節の原文にはあります。善を行っているにもかかわらす、苦難をうけるクリスチャンに対して、イエス様の苦しみを通して、励ましを与えています。

T−苦難の実−18
 困難な状況を信仰で歩んだ信仰の英雄たちを挙げてみましょう。信仰の父といわれるアブラハムの生涯は、安全な人生を放棄して、御言葉だけ握ってカナンの地に行きました。その地にあって寄留者として苦難を受けましたが、神の民の先祖、信仰の父となりました。ヨセフも、神様から重要な夢を見せられたのですが、そのことのために兄たちから憎まれ、エジプトに奴隷として売られてしまいます。後に一族を飢饉から救うために多くの苦難を経験します。信仰の先人たちはみな、苦難を経験しました。
 私たちは、人が受ける苦難の一つでも自分に来れば、なぜ神様は私をこんな目に会わせるのか、と不満と疑いを持つようになります。それは、私たちは、自分が何であるか、分からないからです。自分が選手であるのか、観客であるのか忘れてしまっているのです。クリスチャンとして善を行っても、苦難を受けるのはどうしてなのか悩みます。そこで、苦難を受けている聖徒たちに対して、イエス様を例として挙げ、勝利することができることを教えています。18節。
 神の御子であるイエス様が世に人となって来られたのに、多くの人々がイエス様を無視し、信じませんでした。ヨハネ1:46。イエス様は、忠実に御父の御心をなしておられましたにもかかわらず、苦難とあざけりを受けられたのです。マタイ11:19。十字架から降りることもできましたが、最後まで降りることをせず、十字架上で苦しみ、死なれました。イエス様は、ナザレという不便な田舎で人として育ち、生活の苦しみを味わわれました。マタイ8:20。イエス様は、世で生きながら、一度たりとも人に悪をなしたり、言ったりすることはありませんでした。貪欲や欲心に陥ったこともありませんでした。有名になったり、富を築いたり、権力を握ったりすることもできたけれども、生涯の目標を神の御心の実現、十字架に置きました。
 イエス様は、御父の御心を知って、十字架への道を進まれました。完全に神様の御心に自分を従わせたのです。イエス様がこのような人生を生きた理由は何でしょう。それは、私たちの罪の身代わりとなるためでした。ですから、そして、復活されたイエス様は、私たちを新しい命に生きる者としてくださり、神様の御前に導き、神様の祝福を受けるようにしてくださいました。イエス様は、ご自分の使命に生きることを第一とされ、その過程で大変な痛みを受けられました。
 イエス様が苦しみを受けたのは、その足跡に従うようにという模範です。Tペテロ2:21。苦難を受ける私たちも、イエス様がそのような苦しみを受け、苦難に会われたことを思い出します。それも私たちのために苦しみを受けられたと知るなら、意味あるものと受け止め、耐えられると確信するようになるのです。もちろん、クリスチャンが、この世で多くの苦難を受ける理由に関して、そのすべてを知ることはできません。ただ知ることができるのは、本当にクリスチャンらしく生きようとするなら、多くの苦難を受けなければならないということです。Uテモテ3:12。その代表がイエス様だというのです。
 使徒パウロも、神様の召しに忠実に働いたのに、ピリピで捕まえられ、鞭打たれて、牢獄に閉じ込められました。さらにどんな苦難が待ち受けているか分からないような状態の中で、神様に委ねて、賛美をして、祈りました。その時、牢獄の扉が開き、看守が悔い改めたのです。私たちがこの世で苦しみを受ける理由は何でしょう。それは、私たちが観客ではなく、主人公になるためです。私たちも、人生のどん底でイエス様に出会って、御言葉だけをもって、人生を歩んで行くのです。困難の中で欲心を捨てて、他の人のために自分を献身する時、その信仰が奇跡を起こすのです。

U−苦難を避けた人々−19〜20
 次の19節は、ちょっと分かりにくく、誤解を与えるところです。煉獄思想を主張する人々もいますが、聖書の教えではありません。「捕らわれの霊たち」とは誰かが問題です。地獄に閉じ込められている者たちということですが、その人々が20節で言われている人々です。ノアの時代に神様の御言葉に従わず、欲心のまま生きて、滅びてしまった人々のことです。イエス様がノアの時代にノアを通して彼らに福音を伝えたにもかかわらず、彼らは不従順のゆえに地獄での苦しみに落ちるようになったのです。
 イエス様は、十字架で死なれて、ご自分の血を通して信じる者が天国に行けるようにしてくださり、大胆に至聖所に入れるようにしてくださいました。Tペテロ2:19。ノアの洪水は、世の終わりの裁きで多くの人々が裁きを受けることを見せています。彼らは、神様の救いの御業を信じなかった、すなわちイエス様を信じなかったというのです。「捕らわれの霊たち」とは、イエス様を信じなかったすべての霊のことを言ってします。イエス様は十字架で死なれてよみがえられて、救われる者と裁きを受ける者との運命を永遠に確定されたというのです。
 イエス様は、終わりの時には、人々がノアの時代の人々のようになると言われました。ルカ17:26〜27。ノアの時代の人々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていました。それら自体が間違っていたのではないのですが、もっとも重要なことではありません。人は、自分が生まれて来た目的を探して、その目的をなさなければならないからです。しかし、箱舟に入らなかった人々は、このような人生の目的を投げ出して、目の前に見える欲ばかり追求してしまったのです。聖徒の美しさは、義のために苦しみを受け、真理のために痛みを受けている姿です。
 ノアの時代の人々は、少しの苦難も受けようとしませんでした。少しでも人に後れを取ったり、損をしようものなら、じたばたします。世的な幸福や平安しか求めません。思いのままになることばかり追い求めました。私たちもそうなってはなりません。神様の御心を求める巡礼者の道を進まなければなりません。真理のために、痛みも受けます。私たちが善を行っていても苦難や痛みを受けるのは、私たちが本当に神様に従っていることの証拠です。イエス様に属する者となっているゆえに、世の人々から認められず、義のために苦しみを受けることがあるのです。
 私たちは、世にあって寄留者として人々を助けてあげて、彼らに最高の信仰の人生を見せてあげるために、主と共に生きて者です。真理のために痛みを受けることを避けてばかり、世の成功と安全だけを求めて生きる人生となるなら、それは地獄にある霊と同じになってしまいます。一方、御言葉を聞いて、義のために苦しみを受けるなら、箱舟に入って救われた者となることができます。彼らは、多くの嘲りを受けましたが、裁きのための準備をしました。福音のために多くの苦しみを受けました。

V−洗礼を受けた者は−21〜22
 水を通って救われたことは、救われて洗礼を受けることになぞらえています。21〜22節。ここで、洗礼の意味を説明しています。洗礼は、私たちの古い自分が死に、世的な欲心が死んだことを示しています。ローマ6:4。新しい命に生まれ変わったのです。これは、私たちの信仰の人生が何であるかよく示しています。私たちがこの世で欲のままに生きることができないように、非難を受け、のけ者にされるのです。
 ノアたちは、箱舟を作る間、周囲の人々からやる気をくじくような批判を受け、気が違った愚かだとあざけられました。しかし、ノアをあざけり神様に聞き従わなかった彼らは、水に沈んで、滅びました。イエス様に救われた私たちは、罪の自分がイエス様の十字架とともにすでに死んでおり、イエス様の復活とともに永遠の命に生きる者とされています。
 ですから、洗礼を受けた者たちは、ノアたちがあざけられ、苦しみを受けても、箱舟を作ったように、忍耐と痛みの中で使命を果たしながら、信仰で生きて行くのです。私たちは、箱舟の8名に入っているでしょうか。義のために一度も苦しみを受けたことがない、あざけりを受けたことがないということの方が、問題かもしれません。イエス様のために敬虔に生きようとする者は苦難を受けるのです。Uテモテ3:12。洗礼は、「肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓い」だと言っています。洗礼は、私たちの中にある信仰が生きて働いて、世の欲心を退け、自ら進んで神様に向いていくということです。
 今日私たちは、困難と不安の時代を生きています。この時代が私たちを必要としています。苦難をさけて簡単に生きようとしないでください。それは、イエス様のしもべとして相応しい姿ではありません。私たちがついて行くイエス様が遺された姿は、苦難もある人生です。御言葉をつかんで、人生のどん底までも行くこともあるでしょう。ノアのように、人から馬鹿にされても、船を作り続けなければなりません。肉の思いをまっとうさせる道があったとしも、その道を行くのでなく、嘲りと非難が浴びせられても、善を行い、信仰で生きるのです。世にあっては、イエス様にならって、苦難を受け止め、信仰で勝利する人生を行くことを願います。Tヨハネ5:4〜5。



Tペテロ
3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
3:19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。
3:20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。
3:21 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。
3:22 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。



ヨハネ1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

マタイ11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。

マタイ8:20 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

Tペテロ2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

Uテモテ3:12 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

ヘブル10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。

ローマ6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

ルカ17:26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
17:27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

Tヨハネ5:4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

戻る