2013年11月3日「私たちはどう生きるのか」Tペテロ4:1〜6

序−私たちは、ふだん目の前のことしか考えないのですが、地上の人生は限られています。いつか地上を去る時が来ます。ですから、私たちはどう生きなければならないかということを問われています。苦しみ、苦難は、私たちの信仰と人生の行く末を左右します。

T−イエス様がされたこと−1
 人の心の中には、人から認められたい欲があります。地位や名声、業績や能力、家族や家、能力や体力、何でもいいから、人々から賞賛と認定を受けたい強い欲望があります。人には、すべてを楽しみたい、もっと心のままに何でもしたいという欲があります。そして、お金がそのような欲をみたしてくれるものと考えています。
 ところが、聖書はまったく違ったことを言っています。1節。イエス様が苦しみを受けられたので、罪や欲との関係が断たれるようになったというのです。以前は罪を犯したが今は犯さないようになったということではありません。イエス様の救いが、それまで欲のために生きていた人生に、まったく別の新しい道を開いてくださったという意味です。欲に打ち勝って、以前とは違う人生を生きることを意味しています。
 思いのまま生きて、人々から認められれば、欲は満足し、成功したと考えます。しかし、事実は、罪と欲に囚われて、滅びに向かっているのです。イエス様の十字架を信じることで、命に至る道に導かれます。「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」というのは、イエス様が苦しみによって救ってくださったように、苦難によって信仰が守られ、救いをまっとうさせるようにしなさいということです。
 信じていても、心揺さぶられることは、「このままでだめですか。思うままにしている世の人々が失敗しているようには見えませんよ。世の人と同じように世で成功したいのに、肉の欲を放棄しなければならないのですか」という思いです。しかし、肉の思いをまっとうさせようとするなら、価値ある人生を得ることはできません。私たちがイエス様を信じたことは、イエス様の十字架とともに古い自分は死んだのです。ローマ6:6〜7。この世に属した自分の欲と野望は十字架に釘付けにされたのです。もちろん、これで私たちの欲が完全になくなったわけではありませんが、以前のように絶対的なものではありません。欲望の鎖から解放されたのです。

U−私たちの新しい人生−2〜3
 こうして、イエス様を信じた私たちは、新しい人生を生きるようになっています。2節。しかし、生まれ変わったにもかかわらず、以前の記憶がゆさぶります。人が心の思うまま生きているのをうらやましがったり、思う存分にしていた時の方が自由であったように考えたり、世でそのまましていたら成功しただろうと未練を持ったりします。
 イエス様を信じた後、私たちの状態が明らかにされています。2~3節。まず、イエス様がいない人生で思うがままに罪に生きていたのは、「過ぎ去った時で、もう十分」というのです。私たちは、過去神様のいない人生であるために、人生をさまよっていたのですが、もうそんな生活はしなくていいということです。肉と欲の思うままの生活が良いはずはなく、空しい人生でした。罪や欲に惑わされた生活をうらやましがる必要はありません。イエス様が十字架に苦しんで、私たちを解放してくださいました。
 私たちは、すでに十分に神様のいない悲惨な人生を生きて来たので、もうこれ以上そんな人生を懐かしがったり、羨ましがったりする必要はありません。そんなことをしていた自分は、すでに十字架で死んだのです。ローマ6:8,Uコリント5:15。以前のそのような生活を思う存分していた時、どこにいたのでしょう。滅びの入り口にいたのです。
 次に、過去の人生がどういうものであるか、明らかにしています。「好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝など」に振り回されていた人生です。肉の思いを満たそう、人と同じにして認められようとして、それらのことに溺れました。思いのまましたけれども、悲惨な人生でした。これらのことに共通していることは、放縦と性的堕落と酒です。神様に造られた尊い存在が、サタンによって操られていたのです。
 それらのことは、イエス様を信じることで変わります。情欲の変わりに、純粋な愛と理解が生じるようになります。放縦の変わりに、キリスト者の自由と聖霊による喜びをもって生きるようになります。Tペテロ2:16,ローマ14:17。肉にある人は、情欲や放縦、酒に満たされて、一時的に心満たされて、騙されているだけです。しかし、私たちは、本当の神様の祝福を知っています。イエス様を信じる人が集まって賛美し礼拝するなら、聖霊が臨み、癒しと恵みが注がれます。人々は、人から認められ、賞賛を受けるために一生懸命になります。私たちは、人からの賞賛や認定を乞う必要はありません。神様が私たちを認めて、祝福してくださるからです。イザヤ43:4,エペソ1:3。私たちは、人の評価や応答を気にすることなく、正直に誠実に必要なことを行えばいいのです。そして、神様の愛と恵みを受けた私たちが、人を認めて、賞賛して、祝福してあげるのです。
 そして、「もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになる」のです。私たちは、世でどれだけ生きるか分かりません。ですから、今生きているのは、とても重要です。生きている間、どのように生きなければならないでしょう。私たちは、最高の良いことのために生きなければなりません。それは、イエス様を喜び、賛美して、新しい命に生きて行くことです。ローマ6:4。神様の素晴しい救いと祝福を味わいながら、人々に分け与えて行くのです。私たちの礼拝も、そのためです。
 人がどうして罪を犯し、争うのでしょう。神様の祝福と心の満たしがないからです。神様の恵みが豊かにあるなら、サタンがどんなに争いと憎しみの火をつけようとしても、つかないのです。人々の賞賛と認定は、塩水のようなものです。飲めば飲むほど、渇きます。本当の認定と賞賛は、神様からの認定と祝福を受けているクリスチャンがしてあげなければなりません。それは、聖霊の恵みとして出て来るので、本当に人の心を満たし、癒すのです。私たちに時間が残っている間に、この素晴しい救いと恵みを人々に分けてあげなければなりません。

V−私たちの宿題−4〜6
 イエス様を信じて救われた者は、価値観が変わり、生き方が変わります。もはや世の成功条件は、私たちに合わなくなります。以前は、人々が求めるものを求め、人々が囚われているものに囚われていましたが、イエス様を信じてからは、そうでなくなります。そのために、人々は、「自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言う」ようになります。4節。これは、私たちにとって心揺さぶられることになります。神様に従って、御言葉の価値観で生きることをためらわせます。でも、私たちは新しく生まれ変わった者です。罪と欲の囚われから解放された者です。罪の奴隷、滅びの道には戻りません。ローマ6:7。
 しかし、私たちも、世でよく生きるようになると、これだけ祝福を受けた者だと自慢したいという思いが生じます。神様は、私たちが自慢しないように苦難で妨げるのです。また、神様に捕らえられると、自分の思いのままできることもなくなります。時には昔のようにすべて思いのまましたくなるのですが、それは神様の御前から迷い出るようになります。
 私たちには、まだ以前の罪の習慣や肉の欲があります。できるならもっと平安に、もっと楽に生きたいと思うのです。しかし、世で自分がしたいままに思う存分しながら生きたとしても、決して幸福な人ではありません。永遠の滅びに向かって行くからです。5節。イエス様の救いは私たちのためになにをされたのでしょうか。聖い人生へ召してくださいました。クリスチャンとなった者は、以前のようには生きることができないのです。Uコリント5:15,17。
 イエス様は世の人ではなかったので、世のものを持とうとしませんでした。むしろ、私たちのために苦しんで、私たちが肉の支配から免れるようにしてくださいました。私たちは、神様が下さるこの人生を価値あるように生きなければなりません。そこで、最も大きな躓きの石となるのは、まだ私たちの内に残っている肉の欲です。世で思うままに生きることをしないで、かえって苦しみを受け、人に認められないで、地上を去って行くなんて、という思いです。
 そこで、こう教えています。6節。「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」というこの「死んだ人」とは、世で多くの苦難を受けて先に御国に召されて行った聖徒たちのことです。世的な目で見る時、彼らは不幸な人のように見えるのですが、神様の前では、決してそうではありません。世の人々がしたいと思っていることも、できたけれどもしませんでした。貧しさや困難の中にあっても、罪を犯すことを恐れました。霊的に満たされ、魅力的であっても、謙遜でいました。世で本当に幸いな人たちでした。
 自分の肉の欲が死んで、神様の御心のまま生きることになれば、自分の幸いはどこにあるのですか、というのは愚かなことです。すべてを神様に委ねて、御言葉で満たされるようにしましょう。私たちの残された月日がどれほどなのか心配するより、神様の祝福に感謝して、人々を励まし、祝福してあげる美しい人生となることを願います。Uコリント5:17。



Tペテロ
4:1 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。
4:2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
4:3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。
4:4 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。
4:5 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。
4:6 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。



ローマ6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

Uコリント5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

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