2013年11月10日「美しいクリスチャンの人生」Tペテロ4:7〜11

序−試練の時、人々が悪くなっても、美しく生きる人がいます。人が泣き叫ぶ時に、落ち着いて他の人を慰め、励ますことができる人がいます。主は、この不安な現代に生きる私たちに最高の美しい人生を生きさせて、他の人々を慰め、励まそうとされるのです。

T−クリスチャンの美しさ−7
 2節では、「地上の残された時」と言っていましたが、7節で、は「万物の終わりが近づいた」と言っています。初代教会時代は、世の終わりがすぐにでも来る、という霊的緊迫感の中にありました。もちろん、世の人々は考えもしません。人々は、うまく行っている時には、まるで世が自分のものであるかのように思い、危機が近づけば、恐れたり、絶望したりします。しかし、神の民は、苦難が近づいて来たとしても、落ち着いています。神様の御手で導かれているからです。ルカ12:7。耐えることのできない試練に合わせられることはない、と知っているからです。Tコリント10:13。
 神様が私たちに関わるすべてをその御手で動かしておられるなら、何を心配するのでしょうか。たとえ、危機が訪れたとしても、その後に何があるか知っています。死ぬとしても、終わりではありません。神様の祝福を受けて、栄光の姿に変わるのです。Uコリント3:18。ただ注意しなければならないのは、サタンが私たちの心に恐れと不信仰を持たせるようとすることです。なぜ私だけこんな目に、私はもうだめだなどと思わせるのです。
 「ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい」と勧められています。ソドムとゴモラのように、終わりの時にはなればなるほど、人々は放蕩して、欲心で生きるようになります。生活は破綻します。現代もこの危険にあります。しかし、神の民は、かえって気持ちをしっかりさせて、真摯に誠実に生きるのです。「心を整え身を慎み」ながら生きることを心がけます。美しい姿になります。欲心を満足させることが中心ではなく、神様の御心のあって信仰で生きる姿だからです。
 クリスチャンが危機の時にも美しく生きるには、まず、精神的な余裕が必要です。信仰がなければ、危機の時絶望してしまうかもしれませんが、クリスチャンは、試練の時絶望しません。神様が私たちに力と確信と愛を注いでくださるからです。そして、余裕とともに緊張も必要です。神の民は、この世でサタンとの戦いがあることを知っています。サタンは、いつも私たちをねらっています。私たちを試練でたおそうとしています。ですから、クリスチャンはいつも霊的緊張をしていなければならないのです。女性が美しいのは、いつも美しく見せようとする緊張があるためではないでしょうか。
 私たち神の民が美しいとすれば、それはいつも霊的緊張して、生き生きとしているからでしょう。その緊張がほどけて、欲心に引かれて思うままの言動になるのなら、腐敗して見たくない姿になるでしょう。クリスチャンは、いつも訓練を受けるのは、危機の時に人生を美しく咲かせるためです。ヨセフは様々な試練を受けていたために、やがてエジプトの宰相となり、エジプトと一族を助けました。
 クリスチャンは、苦難を受け、訓練を受けている時は、むしろかっこ悪く見えるかもしれません。しかし、危機の時クリスチャンより素敵な人はいません。そのうちに主がおられるからです。なぜ、人々は危機の時恐れるのでしょうか。それまで握っていた欲心を放棄できないからです。欲心を放棄できれば、どれほど余裕ができることでしょうか。
 私たちには、「祈りなさい」と勧められています。私たちの力で危機を乗り越えるのではなくて、神様の力で打ち勝つためです。サタンの手練手管に陥らないようにするために祈らなければなりません。イエス様も、私たちが欲心に弱いので祈るようにと言われました。

U−熱心に愛し合いなさい−8〜9
 神様が私たちを世に置かれるのは、愛するためです。神様ご自身が愛だからです。世で最も偉大なことは、大きな業績を残したり、有名になったりすることではなく、他の人を愛することです。8節。人は愛を受けることを好みますが、他の人を愛することを知りません。たいていの人は、自分が好む人に良くしてあげることが愛だと思っています。
 しかし、それは、本当の愛とはなりません。自分が気に入ればよくしてあげるというのは、自分本位ですることなので、欲心からでもします。ですから、愛とは、まずその人が自分とは関係なく幸福になる資格があると認めることです。これができる人はクリスチャンです。クリスチャンこそ、神様から条件なしに受け入れられ、愛されている者だからです。神様は、御子イエス様を私の代わりに十字架に渡されたほどに、私を愛してくださいました。それほど、私を尊いと思ってくださったのです。
 私たちが人を評価する基準は、大変狭いものです。それも人としての本質的なことではないことが多いのです。私たちが神様によって命与えられたということだけが、神様の愛を受ける資格です。ですから、人を愛する第一歩は、人を自分の物差しに当てはめようとするのでなく、その人をそのままを認めることです。その人が自分の気に入る人になる必要もないし、その人が自分を好まなければならない必要もありません。ただ、世にその人が存在していること自体、主の御旨によると認めることです。
 私たちは、自分の幸福を願うけれども、自分が人に仕えて助けてあげて、他の人が幸福になるのを見るなら、もっと幸福な心になります。これが、他の人のために生きる、他の人を愛することの大切な点です。私たちは、それを経験すれば、ますます人の幸福のために労することになります。
 そして、人を幸いにするもっと重要なことは、人々も自分と同じようにイエス様に出会って、新しい命に生きることです。世で最も尊いことは、人が神の前に自分自身を取り戻すことができるように助けてあげることです。労苦もありますが、最も価値あることです。ヤコブ5:20。
 ここで、「愛は多くの罪をおおう」と言っています。イエス様を信じる人は、人の過失や罪を見れば怒り、傷つけられれば憎み続けます。しかし、神様を通して人を見るなら、それを覆われます。自分を罪と滅びから救うために、イエス様を十字架に渡されるほど自分を愛してくださったことを知っていますから、人の咎や誤りを攻め続けなくなります。イエス様を信じている人が、人に対する怒りを長く持っているなら、心の病気になります。私たちの内なる主が喜ばないからです。ヘブル12:15。
 「互いに親切にもてなし合いなさい」と言われています。9節。それが大切なことであり、イエス様に対することになるからです。ヘブル13:2,マタイ25:35〜36。高級な所でサービスを受けると、自分がビップになったように感じ、とても気持ちがよいものです。でも、仕えるほうがよいです。人に仕えることを通して、自分自身も整えられ、多くのことを学ぶことができるからです。本当に尊い人は、人に仕えることを好みます。イエス様ご自身、仕えるために来たと言われました。マタイ20:28。私たちも、それに倣います。ただし、認められたい欲心は、仕えることに対する評価、感謝、変化などがないとつぶやきます。それで、「つぶやかないで」と言われているのです。つぶやきは、やる気を萎えさせ、私たち自身を低めます。仕え続けられず、仕えたことも無になります。ピリピ2:14。

V−神様が与える賜物で仕えなさい−
 神様が私たちを助けてくださる時、他の人を通して助けてくださいます。一人で信仰生活をよくできると考える人は、神様から来る助けの大部分を受けることができないことになります。一人では決して力ある信仰生活をすることはできません。それで、私たちは教会に集められているのです。互いに仕えるためにです。10〜11節。「互いに」なのです。
 「語る人があれば、神のことばにふさわしく語」るようにと言っています。御言葉を語るなら、それが力ある神様の御言葉として語り、聞くものもそのように受け入れなさいということです。神の民は、神様の御言葉で生きます。マタイ4:4。私たちクリスチャンにとって、御言葉はたましいの糧です。御言葉があれば、心飢えて死ぬことはありません。また、福音の証しも、大切な人のたましいに仕えることです。
 神様は、人を通して私たちに必要なものを供給してくださいます。たとえば、一人の少年が自分の弁当をイエス様にささげると、五千人の給食の奇跡が用いられました。私たちがささげる時は、計算しないほうがよいでしょう。神様が必要なことを満たしてくださるからです。もし、神様が満たしてくださらなければ、その時は必要がないということです。門を開いてくださるなら、無限に供給されます。周囲の兄弟姉妹を通して、イエス様の驚くべき力が現れて来ます。
 また、私たちを通して人々に祝福を与えてくださいます。神様がくださった御言葉は、まるで泉のようです。御言葉をあげれば、祝福が出て来ます。謙虚に御言葉のうちにある宝を掘り出さなければなりません。正しい信仰を持っているなら、与えられている賜物をもって、私たちはもっと互いに仕え合うのです。5タラント受けたものは5タラント用いて、2タラント受けたなら2タラント用いて仕えるのです。やがて「よくやった。良い忠実なしもべだ」と主の賞賛を受けます。愛して仕えて、美しいクリスチャンの人生となりますようにと願います。マタイ25:212.23。



Tペテロ
4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
4:9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。



ルカ12:7 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

Tコリント10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

ヤコブ5:20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。

マタイ20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。

ピリピ2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

マタイ6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。

ヘブル12:15 そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、

ヘブル13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。
13:3 牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。

マタイ25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。

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