2013年11月17日「試練を驚き怪しまない」Tペテロ4:12〜19

序−大きな試練に出会うと、なぜこのような試練に会うのだろう、信仰が足りないのだろうか、と思います。心が揺れ動き、思い乱れて、疑い、不信に陥るようになります。このような反応、思いが危険です。困難が来る時、どう受け止めるのでしょう。どんな意味があるのでしょう。

T−いっぺんに燃えてしまうような火の試練−12〜13
 突然大きな試練を受ける人がいます。突然の失業、破産、病気、別れ、事故、災害等々、持っていたものを一遍に失ってしまいます。そのような試練を受けるなら、人は再び起き上がる意欲さえ失われ、自暴自棄に陥ることでしょう。12〜13節。それを「燃えさかる火の試練」と言っています。火の試練が来れば、火がすべてを一遍に焼き尽くすように、みな失い、身一つだけ残ります。人生において、そのような試練を受ける時があるでしょう。しかし、クリスチャンにとって、火の試練も意味があります。
 金や銀を得ようとすれば、鉱脈から石のような塊を取り出して、溶鉱炉で溶かさなければ、純粋な金や銀を得ることはできません。信仰者がイエス様を信じたと言っても、純粋な信仰にされるには、様々な試練を通るのです。外からは経済的な困難や病気、問題が押し寄せ、心の中には葛藤と恐れが押し寄せます。でも、それによってどれほど素晴しい信仰者となることでしょうか。詩篇66:10。火の試練は、罪のために受けるものではなく、見捨てられたからでもなく、美しく整えられるためなのです。
 ですから、苦しむだけでなく、「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから」試練の中でも喜べるというのです。なぜなら、イエス様の苦しみをともにするなら、イエス様の栄光も共にするからです。イエス様の受けた苦難を受けるに相応しい者とされたからです。Uテサロニケ1:5,7。苦難の中でも、イエス様にあって勝利者となっているからです。ヨハネ16:33。
 私たちがイエス様を信じて、御言葉で生きようとする時、人間的にはもうそれ以上生きられないところまで行くことがあります。その時、私たちが選ぶことができることは、御言葉を捨てて滅びに向かう道か、神様の御言葉をつかんで生きる道かのどちらかなのです。真のクリスチャンは、最も低く最も苦しい環境の中で、神の子どもとされている恵みを学ぶのです。世の人々は、イエス様を信じる人々のこのような点を理解できません。信仰って一体何でしょう。私たちの信仰は、そのような火の試練を通過して精錬され、輝くものなのです。

U−火の試練を驚き怪しまない−12
 ですから、「火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しんではいけない」と言っています。12節。私たちにこのような火の試練が来ることを不思議に思うなというのは、このような火の試練が私たちに来るのは当然なことで、むしろイエス様を信じる者には来なければならないものだ、というのです。私たちには、中々理解できない部分です。私たちは火の試練を受ける時、神様は私たちを愛して救い、すべての罪を赦してくださったのにもかかわらず、まるで私たちを愛していないかのように思うのです。ですから、試練に出会う時、もっとも辛いことは、「神様は私を愛しておられないのか、私を見捨てられたのか、私の救いは錯覚だったのか」という思いが生じることです。
 火の試練が近づくとき、私たちがしてはいけないことは、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しんではいけないことです。驚き怪しんでしまうと、「どうして、なぜ」という不信と疑心に陥り、信仰がずたずたになり、絶望に陥るからです。サタンの思う壺です。まず重要なことは、突然の火の試練を驚き怪しむのでなく、信仰で対処することです。火の試練の時には、みんなに熱心に祈ってもらわなければなりません。一人では打ち勝つことができないからです。
 火のような試練は、私たちに大きな恵みも与えてくれます。私たちは、信仰だ!と言いながら、世の価値観で生きることが良いと思っています。私たちが世の偽物を持っている間は、本物を持とうとしません。火の試練を通して、それを知るようになります。何かを失ったとしても、本当に主にある幸いを体験するようになるのです。私たちは、火の試練を通ることで、自分の信じる神様が本当の神様だと告白するようになるのです。
 神様が私たちにくださろうとしているのは、純金のような信仰です。信じたと言っても、私たちの内には多くの不純物が混ざっています。不純物が混ざっていると、神様がどんなに祝福をくださっても、それを変質させ、汚染させてしまいます。職場を失ったり、貧しくなったり、人から圧迫や痛みを受けたり、病気になったりして苦しむことがあります。その時、自分の中に世の価値観や欲心によって、神様への不信や疑いを持つようになります。イエス様を信じたと言っても、私たちの内にある不純物が、御言葉を聞いても素直に受け入れ、悔い改め、御言葉通り生きようとさせないのです。私たちの内には、自分でも意識しない肉の思いや衝動があります。神様が助けてくれさえすればいいのに、いつまで我慢しなければならないのか、と神様に対して不平を言うようになります。そして、サタンも神を信じるな、早く自分の方法でやれと吹き込むのです。
 最も私たちを困惑させるのは、なぜ御言葉通り事がならないのか、御言葉を通りしていても失敗するではないか、神様はうそを言われたのか、という思いです。しかし、人生のどん底で神様の御言葉を聞く時、私たちの心に染み入り、消化され、私たちの人格の中に入って来るようになります。頭で信じていた御言葉が心で信じる御言葉になり、理論的な御言葉が力ある御言葉になるのです。ですから、火の試練が来た時、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、受け止めるのです。

V−火の試練に打ち勝つ法、秘訣−13, 14〜19
 私たちに火の試練が来ることは重要であることが分かりましたが、もっと重要なことは、火の試練に終わりまでどのように耐えるかということです。一つは、自分が何をつかんでいるかということです。私たちは、なぜ試練が来るのかそのすべてを知ることができません。大事なことは、自分に火の試練が来たことを知って、それに打ち勝つことです。試練が来た時、すべてを棄てても神様だけをつかむことができるか、と試練は私たちに質問するのです。持つべきは、正しい信仰一つだけで十分です。
 もう一つは、火の試練の中では、他のことは一切考えてはならないということです。ヨセフは飢饉の時、すべてを売って食料を買うように言いました。すべてを持ちながら飢饉に生き残ることはできないからです。私たちが火の試練を受ける時、ただ神様の御言葉だけ握らなければなりません。そうすれば、御言葉が私たちに耐えることのできる力と心を与えてくれます。御言葉があること自体、神様と一緒いることだからです。13節。
 私たちが世でうまく行っている時には、イエス様も天国も遠くに感じることでしょう。しかし、火の試練を受けるならば、天国とイエス様がどれほど近くに感じることでしょうか。不思議なことに、苦しみに会うほどにイエス様の救いの素晴しさを味わい、神様の愛と守りを体験するのです。
 イエス様を信じる者は、火の試練を受けても滅びません。それは、私たち主の民には、他の人の知らない秘密があるからです。14〜16節。主の御霊がともにおられるということです。ですから、信仰にあって受ける苦難は、試練であって、滅亡することはありません。でも、苦難の中で自分の欲望に従って生きるなら、滅びに向かうことになります。ですから、クリスチャンには、火の試練は終わりではなくて、試練の後に神様の祝福が与えられるようになります。試練を他の言葉で言うならば、教育とか訓練とも言うことができます。整えられられることが大事です。
 また、耐えることのできない試練は絶対に来ないという約束があります。Tコリント10:13。大きな試練に会うのは、それに耐えることで霊的に成長するためです。イエス様は十字架に死なれて葬られてから、よみがえられ、天の御座に昇られました。私たちイエス様を信じる者も、人生のどん底から再起する道があるからです。何と素晴しい恵みの約束でしょうか。
 深刻なことも言われています。17〜18節。神様は、人々が悔い改めて立ち返って来るのを待っておられます。この世の罪をそのままにしないで、裁かれます。それも、神様の家からはじめられると言うのです。使徒の時代でも、エルサレムから裁きがはじめられました。イエス様を信じる者だとしても、自分たちから裁きが始められるというのです。言わば、火の試練は、神様の裁きのはじめのステージだということができます。そこには、裁きと共に恵みがあります。イエス様を信じている者は、火の試練を通して残っている罪と欲心を吐き出すようにされます。そうして、天国へ入るようになるのです。
 ですから、火の試練の中で、「信じているのに、なぜ、どうして」と怪しまないことです。誰でも、火の試練にあいます。神のみこころに従ってなお苦しみに会っているなら、「創造者に自分のたましいをお任せ」すればいいのです。19節。真実である神様が責任を取ってくれます。恐れる必要はありません。私たちは、生きようと死のうと神様の栄光のために存在している者であって、この信仰を握るならば、最も強く大胆に生きることができます。ローマ14:8。イエス様に救われた者なのですから、火の試練を乗り越え、勝利することができると信じることです。ヨハネ16:33。



Tペテロ
4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。
4:14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
4:15 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。
4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。
4:17 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
4:18 義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。
4:19 ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。



詩篇66:10 神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。

Uテサロニケ1:5 このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。
1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

ローマ14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

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