2013年12月1日「霊的リーダーシップ」Tペテロ5:1〜7

序−教会であれ、職場であれ、家庭であれ、養い導く責任を担う者が必要です。でも、世のいわゆるリーダーシップは、多くの問題を含んでいます。このために、人々が痛み、苦しむことも多いようです。苦難の中で歩む聖徒に霊的リーダーシップを教えています。

T−導く者、育てる者がなすべきこと、−1
 ここでは、霊的リーダーシップの典型として、教会の霊的指導者である長老に勧めています。1節。「長老」というのは、今日の牧師、長老たちのことです。信仰共同体でもっとも大切なのは、御言葉が中心だということです。私たちが生きているこの世は、落とし穴のある道を歩んでいるようです。聖徒たちが、肉の欲心によって、御言葉をおろそかにする危険もあります。御言葉によって生きることが必要です。
 ですから、聖徒たちが御言葉に基づいて生きるように導く者が必要です。ただ、その導く者がどのような者か、何をしなければならないかということが大事です。2〜3節。これは、教会だけでなく、家庭や職場において、人々を育て、教え、導く者に共通していることです。私たちも、何らの立場で人々を教え、育て、人々に仕えているでしょう。どんなことをすべきなのでしょう。何に気をつけるべきのでしょうか。
 世の中では、権力やお金、名声を持つものが目立ちますが、当時の聖徒たちの多くは、奴隷や貧しい者、迫害を受けている者でした。そういう聖徒たちを導く者自身、イエス様を信じる者に世と比べようもない祝福があること信じていなければなりません。そうでないと、導く者たちが利益や名声という「卑しい利得」を求めて、働くようになるからです。聖徒たちが、御言葉の祝福や導きより、世の欲心へ走るようになるからです。
 聖書は、導く者たちに、「羊の群れを牧するようにしなさい」と言っています。羊は、養うのには難しい動物です。羊は自分で食べることができないので、羊飼いが草のある所へ連れて行き、食べさせます。猛獣からも守ってあげなければなりません。人を育て、導く者は、そのようにしなければならないということです。導く者は、人々に御言葉を食べるように伝え、御言葉に従って生きて、守られるようにと祈らなければなりません。家庭や職場でも、助けて、仕えることが必要です。
 「支配するのではなく、模範になる」ということが強調されています。世のリーダーシップは、支配することです。親であれ、上司であれ、誰であれ、支配し、命じたがります。しかし、霊的リーダーシップは、模範なのです。導く者の模範が大切です。信仰の確信が模範となります。導く者がしっかりと御言葉の価値観を持って、生きて、御言葉が与える祝福を確信していることです。なぜ、御言葉に従えないのでしょう。まだ欲心と世の価値観が残っているからです。周りの人は世で活躍して認められているのに、私は認められていないなどと思って、苛立つのです。
 模範を見せることが大切です。イエス様は、弟子たちに御言葉の知識だけ教えられたのでなくて、模範を見せてくださいました。ヨハネ13:15,Tペテロ2:21。昔、師匠や先生と言われた人々は、弟子たちに教える時、理論だけでなく、一緒に暮らしながら、師の人格、人生の生き様、危機への対処の仕方、自分を犠牲にすること等々を見せてくれました。このような模範を見て得たことは、問題や危機の訪れる時生かされますが、本や理論だけで学んだことは、危機の時役に立ちません。
 弟子や子どもを育てようとするなら、知識を教えるだけでなく、自分が何を持って生きているのか、何によって生きているのか、見せてあげなければなりません。見せることが育てることになります。労苦が多く、裏切られることもあります。それでも、イエス様は、家族に仕え、弟子たちに仕え、人々に仕え、犠牲となられました。理由は、イエス様を信じる聖徒たちが、労苦しても、人々に信仰で仕え、導くためでした。
 現代人は、すべて自分で決めて、他の人の導きを受けようとしないようです。しかし、どんなに社会が変化しても、人間性は変わりません。霊的な問題も変わりません。どんな教えを受けるのかということは、人生を決定することです。イエス様は、パリサイ人のように知識だけを教えるだけの者は、盲人の手引きだと言われました。マタイ15:14。私たちは、親として、上司として、年配者として、自分自身が謙虚に模範となる生き方をしたいのです。欠けや弱さを見せても、高慢や虚勢を持つパリサイ人になってはなりません。間違った姿勢がそのまま伝わります。イエス様に救われた者として、イエス様にならって生きたいです。Tペテロ2:21。

U−導く者が受ける苦難と栄光−2〜3
 婦人たちに、「最も困難なことは何ですか」と尋ねれば、「子どもを産んで、育てることだ」と答えるでしょう。同じように、人のたましいを産んで、育てることは難しいのです。使徒ペテロは、そのように人を導き育てる者に対して、決して自分の責任を避けたりしないで、最後まで労苦しなさいと命じています。
 ペテロ自身も、教会に仕える長老、牧会者の一人として、同じ立場にある者として、勧めています。1節。そのように聖徒たちに仕え、導く者は、「キリストの苦難の証人、栄光にあずかる者」だと言っています。教会に仕える、家族を育てる、職場の者たちを導くことが、人々を救い導いたキリストの苦難を見て、味わうことだと言うのです。人々のたましいを養い、導くのは、労苦や痛みはあるけれども、栄光の働きだからです。イエス様と同じ労苦の喜びを経験するようだというのです。
 使徒ペテロは、主が自分のような無知な者を養い導き、どれほど労苦し心痛められたかを直接見ました。ですから、人のたましいに仕え、養うという最も困難な責任を果たすことが、自分には関係のないことだ、とは言えないのです。パウロは、信仰が停滞してしまった者たちのために、再び産みの苦しみをしている、と言っています。ガラテヤ4:19。人々を育て、導く私たちは、この証しをしっかり聞かなければなりません。人々を育て、導くには、大変な労苦とストレスがありますが、イエス様と一緒に分かち合える栄光もあります。
 人々を育て、導くことの困難よりも、この栄光を思い、喜んで仕えるのです。Tテサロニケ2:19。今私たちが労苦し痛みながら育てて導いている人々は、やがて主の「御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となる」人たちです。使徒ペテロは、その働きがイエス様の栄光の働きに加わっていると信じています。人のたましいのために労苦や痛みがあっても、それに対するイエス様からの称賛と賞があることを知っています。
 「産みの苦しみ」とはよく言ったものです。人のたましいに仕える時、人のうちにキリストが形造られるまで、産みの苦しみは続きます。「再び産みの苦しみをしている」というように、人を育て導く中で、失敗もあるけれども、また労苦して育て、導くのです。主の栄光の働きに加わっており、主から賞をいただけます。教会での働きは、特にこのような思いを持って、仕えたいのです。

V−若い人々(導きを受ける者)に対して−5〜6
 育てられ、教えられ、導かれる者の例として、「若い人たち」が取り上げられて、勧められています。5〜6節。必ずしも、若い人とは限りません。養育を受けて、霊的に育てられる者ということです。若い者が導きを担うこともあれば、年長者が導かれることもあるでしょう。
 御言葉の真理を学ぶ聖徒たちにとって難しいことは何でしょう。果たして御言葉が本当に力あるものなのか、危機の時従っていいものか、ということです。若者が知りたいことは、果たして神様の御言葉通り生きて、世の中で成功して生きていけるのか、ということです。もし若い人々にこれだけ確信させるなら、彼らは自分の人生をかけてイエス様に従っていくことでしょう。しかし、しばらくの間は世の価値観の方がよく見えてしまいます。己を誇ったり、謙遜な指導者を軽く見たりします。世の人々が思うがまま欲心を発散しているがよく見えたりします。
 しかし、聖書は、養育や導きを受ける人々に対して、自分を教えて育て導いてくれる者に従順であるように、と命じています。それが、主の用いられる方法だからです。肉の思いは、干渉を受けないで、したい放題することです。それでは、霊的成長は望めません。サタンの思う壺です。イエス様は、導かれる者が謙遜になることを望まれます。謙遜な者になることは難しいことですが、謙遜が、主の御前には宝となります。謙遜になることでよく養育され、よき導きを受けることができます。
 今日、人々を支配しているのは、不従順の霊です。エペソ2:2〜3。徹底して権威に反対し、否定して、従順にならないのです。その結果、成長せず、人をも傷つけます。口では騒ぎ立てるけれども、何もすることはできません。神様は、このような高慢な者をしりぞけます。ですから、「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」と命じています。
 救い主イエス様が人となって世に来られ、十字架の死にまで従われました。私たちの救いのために従順になられました。私たちは、イエス様の模範にならい、労苦しながら人々に仕え、人を育て、人々を導きます。Tペテロ2:21。養われ、導かれた者もやがて、人を養い導く者となります。イエス様を見ならう私を見ならってもらうことが大切です。Tコリント11:1。


Tペテロ
5:1 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。
5:2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
5:3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。
5:5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。



ヨハネ13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

Tペテロ2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

マタイ15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。

ガラテヤ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

Tテサロニケ2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。

エペソ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

Tコリント11:1 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。

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