2013年12月15日「尊い信仰」Uペテロ1:1〜3

序−買い物がされる年末、ブランド品の偽物が売られていますが、品質は劣っています。この手紙が書かれた当時、偽者の信仰が教会の中に入って来て、混乱を生じさせていました。偽物には、聖霊の働きはなく、霊的変化もありません。では、私たちの信仰は、どんなものなのでしょうか。

T−同じ尊い信仰−1
 使徒ペテロからの書き出しには、こう書かれています。1節。「同じ尊い信仰」と言っていますが、「尊い」とは、「名誉、価値」という意味です。「宝」と訳された聖書もあります。人々は、価値あるもの、宝を求めて世で働き、生きているようなものです。本当に価値あるものを掘り出して、活用するなら、人生においてすごい鉱脈を掘り出したようなものです。人は宝探しが好きです。
 最高の価値ある宝は、正しい信仰です。この宝は、他のところにはありません。ただイエス・キリストの中にすべて入っています。イエス様に出会って、救いを得るなら、その時から私たちのたましいは生きるようになります。世には色々大切なものがありますが、最も大切なものは人のたましいです。どんなにお金持ちになったり、出世したとしても、たましいを失ったら、何の益もありません。マタイ16:26。信仰は、空しい人生から私たち自身のたましいを生き返らせてくれます。
 世の何かを宝としたとしても、やがて失われ、滅びに至ってしまいます。聖書は、本当の幸いについて、「イエス・キリストの義によって同じ尊い信仰を受ける」ことだと言っています。私たちが世に生きている間に必ずしなければならないことは、滅亡に向かっている人生を祝福の人生に変えることです。それは、神様が送ってくださった救い主イエス様を信じることです。自分が神様に背を向けていた罪人であり、その罪のためにイエス様が十字架にかかってくださったことを信じることです。ローマ3:23~24。
 その結果、罪の赦しと永遠の命を与えられ、神の子どもとされ、神様の祝福の相続者とされるのです。エペソ1:7。これ以上価値あることがあるでしょうか。これを宝と言わないで何を宝というのでしょうか。大金を払っても買えません。イエス様の犠牲という代価が支払われました。「同じ尊い信仰を受ける」と言うのは、イエス様を信じたなら、誰であろうと同じ素晴しい恵みを受けるというのです。ローマ3:22。本当の幸いは、御言葉を聞いて、信じることです。人の致命的な問題は、神様との関係にあることを知らないことでした。ご自分との関係を回復させて、私たちを生かすために、神様はイエス様を世に送られました。イエス様の十字架を自分のためだと信じることさえすれば、滅ぶことなく、救いの恵みをすべて受けるのです。これが私たちに与えられた最高の価値ある宝です。宝を持っているのに、尊い信仰を得ていることを知っていますか。用いていますか。Uコリント4:7。
 私たちは、こんなに尊い信仰を与えられたのですから、誰の前でも恥じることのなく堂々としていることができます。傷ついたたましいは、神様の御前に出て、御言葉と御力によって癒されます。世の知恵や富や名誉で壊れた自分のたましいを治そうとするのですが、それは不可能です。イエス様の血潮が癒し、尊い者としてくれるのです。

U−神様を知る−2
 ですから、このような救い主を与えてくださった神様を知ることが重要です。2節。私たちが「神様と主イエスを知る」というのは、漠然と神の存在を認めるようなことではありません。私たちが神様を知るようになることは、生き返るようになることです。イエス様を信じることが、神様を知る鍵です。他の方法では絶対に神様を正しく知ることはできません。霊的造り変えを受け、神様と人格的な交わりを持つまでは、多くの方が、神様は遠くにおられる方のような印象でした。しかし、イエス様を自分の主として受け入れる時、神様が自分の御父となり、交わりに入れられます。大好きな私の神様となるのです。「恵みと平安が豊かに」なります。
 ある本に「神様を知ることと神様について知ることは違う」と言っています。「神様について知る」というのは、自分が知識として知ることです。自分が誰か有名人を知っていると言っても、有名人と交わりがあって、知っているわけではありません。神様を知るというのは、関係があることです。人は、神様との関係が切れていただけでなく、敵対的関係にありました。しかし、イエス様を信じた時、神様の存在を知るというのでなく、神様の子どもとなるのです。つまり、神様の愛する対象となるのです。神様との関係が回復するのです。私たちは、もっと神様を知ることを求めたいのです。ホセア6:3,6。
 当時多くの人々が、神が人となって世に来られたということが考えられませんでした。ギリシャ哲学の影響を受けて、イエス様を神様のひとり子だと信じようとしなかったのです。哲学が肉体を蔑視していたからです。しかし、肉体を持った人を救うためには、神の御子が肉体を取って世に来なければならなかったのです。私たちの罪と滅びの身代わりとなるために、御子が人となって世に来られたのです。これが、クリスマスの意味です。
 聖徒は、自分の中に宝があることも分からないで、とんでもない所で宝を見つけようとします。宝でもないものを宝だとして求めます。しかし、イエス様を信じた者は、すでに宝を持っており、素晴しい可能性があります。Uコリント4:7。神様の御力が私たちのうちに入って来て、生き返るようになります。私たちが救いを享受して生きるには、神様の栄光をあらわさなければなりません。
 人は被造物であるにもかかわらず、創造主である神様を知らないで傲慢に生きています。これが罪です。私たちがしなければならないことは、神様の栄光を帰することです。ローマ4:20。自然の素晴しさは、自然を造られた神様の栄光をあらわしています。私たちも、神様の栄光をあらわす人生を生きたいのです。私たちの多くは、私の幸福のために神様が私を救ってくださったと思っていますが、そうではありません。私が神様の栄光をあらわすために、神様は私を救われたのです。ですから、救われた者としてなすべき最高のことは、神様に感謝して、神様の栄光をあらわすことです。もしイエス様を信じたと言いながら、まったく御言葉に従わないで、自分に固執して生きるなら、その人は、本当に信じたとは言えません。
 イエス様を信じた者は、その信仰で自分の考えや感情や体が作動するようになることが重要です。私たちが神様を知るようになって、イエス様を知るようになった時、それまでの色々な疑問が氷解するようになります。それまで人生をさまよっていたけれども、道が見えて来るようになります。神様を知ることが重要なのは、神様を知ることがすなわち、真実な信仰を所有することになるからです。ダニエル11:32。騙されないで、信仰に堅く立つことができます。

V−いのちと敬虔に関すること−3
 世には多くの良いことがありますが、共通している致命的なことは、長く続かないということです。すべてやがては朽ちて行きます。どんなに美味しい果物もしばらくしたら腐ってしまいます。私たち自身の精神も腐り、感情も腐敗します。最も腐敗するのが、人の心です。人の心が腐れば腐るほど、外側は整えるので、よく分からないだけです。社会が腐れば腐るほど、もっと派手になります。世は混乱と腐敗があふれたところです。
 ですから、必要なことは、世が腐らないように新鮮にする人々の存在です。イエス様を信じる人々に、その働きと力を与えられました。3節。神様は、私たちに不思議な力を与えられました。それは、「いのちと敬虔に関する」力です。「いのち」ということは生きているということです。神様は私たちを生かして用いるために、いのちが約束された敬虔をくださいました。Tテモテ4:8。使徒パウロは、はじめ自分は死んでいたのだということを発見しました。ローマ7:24。「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫んでいます。イエス様に出会った時、すべての汚れがイエス様の血潮によって拭われました。
 神様が私たちにくださったのは、霊的ないのちと敬虔の力です。神様の力が継続的に私たちに注がれます。「敬虔」は、罪の勢力を追い出す力です。私たちの体に免疫性があって、体に病原菌が入って来ると追い出すように、イエス様を信じた者には敬虔の力が与えられており、罪が入って来るならば、追い出します。テトス2:3。霊的病いに陥るなら、御言葉の注射を打って、回復されます。
 神様は、「私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった」と言っています。救いは神様のイニシヤチブによる召しです。エペソ2:8。それだけイエス様を信じた私たちは、尊い存在とされているということです。神様の栄光と徳をあらわす者となっています。世では、本当に真実で聖い存在なのです。イエス様を信じた者には、すでにそういう存在のために、神様の御力と祝福が注がれています。イエス様を信じることで、すでに体質が変わったために、罪が入って行きにくいのです。聖潔を得させるために、救いに召されています。Tテサロニケ4:7。今日混乱して腐敗いる社会を生き返らせるのは、いのちと敬虔に関する力を与えられた聖徒たちであり、聖徒たちの集まった教会です。私たちは、イエス様によって救われ、尊い信仰を与えられた者として、神様の栄光をあらわして生きたいのです。



Uペテロ
1:1 イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。
1:2 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
1:3 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。



テトス3:7 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。

Uコリント4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

ローマ4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

ダニエル11:32 彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行う。

ローマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

ローマ3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

エペソ1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

エペソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

Tテモテ4:8 肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。

Tテサロニケ4:7 神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。

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