2013年12月22日「家族を救うために」マタイ1:18〜21,2:11〜15,使徒16:31

序−クリスマスの絵というと、ヨセフ、マリヤと幼子イエス様の三人のものですね。そういう絵を聖家族と言います。最近の調査によると、クリスマスは、家族と過ごすという人が一番多かったそうです。クリスマスは、家族について省みる機会です。クリスマスと家族について学びましょう。

T−家族に来られたイエス様−2:11, ルカ2:16
 救い主として来るのに、色々な姿が考えられるでしょう。大軍勢を引き連れた将軍として来ることもできたでしょう。ここで東方の博士たちが礼拝したのは、ヨセフとマリヤと一緒におられる幼子イエス様です。11節。そして、イエス様誕生の日、羊飼いたちが見たのも、「マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりご」の三人家族でした。ルカ2:16。この光景が聖家族です。つまり、イエス様は家族の中に来られたということです。
 では、イエス様はなぜ来られたのでしょう。何のために神の御子が世に来られたのでしょう。自然の美しさを見れば、それを造られた存在を覚えずにはいられません。自然にできたと言っても、その元になったものがなければなりません。創造主なる神様が、造られたのです。しかし、神様に造られた人間は、その神様から離れて、罪のゆえに滅ぶものとなりました。あわれみ深い神様は、人を愛して罪と滅びから救うために、御子イエス様を世に遣わされました。キリストとは、救い主という意味です。
 「ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になった」マタイ1:18~21。なぜ、こんな方法を取られたのでしょうか。イエス様が私たちを救うため、私たちの罪と滅びの身代わりとなるためでした。Tペテロ3:18。身代わりとなるためには、人とならなければなりません。しかし、人であるならば自分の罪があり、他の人の身代わりにはなれません。罪のない者でなければ罪を負うことはできません。そこで、神が人となって世に来なければなりませんでした。それが、イエス様だったのです。
 家族を救うためにイエス様が来られました。ですから、聖書には、家族についての教えがいっぱいあります。たとえば、短いところですが、コロサイ3:18~21やエペソ6:1~4には、夫婦、親子についてどうあるべきか簡潔明瞭に教えています。まず、「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」と勧められています。「主にある者にふさわしく」ということは、「信仰によって従いなさい」と勧めているのです。妻の従順に対して、夫には「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません」と命じています。余計責任が重くなっています。妻が夫を立てて従うならば、夫はつらく当たらないで愛するでしょう。夫も妻に気を配り、愛するならば、妻が従うようになります。短いことですが、深遠な真理です。
 子どもには、「主にあって両親に従いなさい」と勧めます。ここでも、「主にあって」が鍵です。両親を敬うことについて、信仰の良心上、責められるところがないでしょうか。親に対しては、「子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです」と教えています。「怒らせるな」というのは、「後に残るような怒りを生み出す状況にしてはいけない」と言うことです。子どもが「気落ちして」心に苦い根ができることのないようにするのです。子どもを自分の所有物のように非人間的な教育をするうちに怒りが育ちます。「かえって、主の教育と訓戒によって育て」ます。
 御言葉を行えば、神様が臨んでくださいます。でも、このようなことを実行しようとする時、必ず「相手が…だから、できない」という思いが生じます。聖書は、霊的に精神的に成熟した方がまずしなさいと教えています。そういうことを知っている私たちから、まずしてみましょう。家族の祝福と幸いがかかっています。

U−家族に起こる内憂外患−2:13〜15, 1:18〜21
 家族には、人生途上外からも内からも多くの問題が起こって来ます。この家族も、ヘロデ王から幼子の命をねらわれるという艱難に遭遇します。2:13~15。猜疑心の強いヘロデ王は、自分の王権を揺るがすようなことは、「ユダヤ人の王がお生まれになったので…」という噂でもそのままにして置くことはできません。人が罪を犯して神様と離れた結果、人の考えや感情に疑いや怒りが入り込んで、その人を支配するようになりました。ヘロデ王がまさにそうでした。こうして、イエス様は生まれるや否や、世の攻撃を受けるようになりました。幼子を抱えてのこの家族の逃避行は大変だったと思います。家族が世で生きて行く間にも、様々な世からの問題や事件が押し寄せます。でも、この家族は、神様に導かれ、守られました。私たちも、神様に拠り頼み、神様に導かれて、守られたいですね。
 人の心の中にある罪が、互いに憎ませ、互いを疑うようにさせて、攻撃させ、破壊させるようにします。人々が互いに愛し合い、幸福に生きることができないようにするのです。イエス様が生まれる時、ヨセフとマリヤの間にもその危険が生じました。1:18~21。この時のヨセフとマリヤの状況は、人間的にみれば、不倫だ、裏切りだと誤解させ、不信と憎しみが増大する場面でした。悲惨な結果になっても、不思議でない状況でした。しかし、神様に祈り思い巡らし、状況を信仰によって受け止め、互いを信じ、受け入れ合いました。犠牲も覚悟しました。ただ神様の御心に従順だったので、できました。こうして、信仰によって信じ合う夫婦、受け入れあう家族となって、出発しました。私たちも、事件や問題が、かえって家族の絆をしっかりさせるように、神様の導きを求め、従いましょう。
 言わば、この家族も、イエス様によって救われた家族となりました。罪が増大し、壊れて行く家族を癒し、回復するのは、イエス様を信じる信仰です。信仰は、それほどに大事なものです。家族の基盤に信仰をイエス様の救いを置いて下さい。自分の肉の考えや世の習慣では、罪を基盤としてしまい、家族に傷が生じ、混乱してしまいます。
 世の家族を見ると、夫婦の争い、親子の葛藤、兄弟の相克、親族の欲望があります。イエス様が来られた目的は何でしょう。イエス様はなぜ十字架にかかられたのでしょうか。私たちを罪とその結果の悲惨から解放し、イエス様と共に価値ある尊い存在として生きるようにするためです。この混乱した時代、危機に瀕した社会において、なによりも崩壊している家族の回復が急務です。育った家族がどうであれ、今の状況がどうであれ、まず自分が悔い改め、自分がイエス様の十字架を自分のためだと信じて救われ、自分が癒され、その信仰を通して家族が癒され回復されることが必要です。私たちの救いから、家族の救い、回復が始まります。

V−信仰が家庭の中に、家族の絆に−使徒16:33,1:23
 信仰を持って家族の救いを願う多くの聖徒たちが、拠り頼む御言葉があります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という有名な御言葉です。使徒16:31。救いの対象は一人一人であると共に、家族です。一人の救いに留まりません。私たちの救いは、家族の救いの始まりです。私たちの幸いと平安は、家族に平安と幸いが与えられてこそ、享受できるものです。
 ただし、多くの人々がこの御言葉に期待と希望を寄せて祈りますが、家族が頑なで難しいと言います。しかし、ここに思い違いがあり、家族の救いを遠ざけてしまう要因があります。この言葉は、自分が信じれば、自動的に家族も信仰へと導かれるということではありません。原語的には、「信じなさい」とうい命令も、「救われます」という約束も、等位接続詞でつながっており、動詞の変化形はともに二人称単数形です。つまり、看守に向かって語られているわけです。そしてその文の最後に「あなたの家族も」と付け加えられています。使徒パウロは、その現場にいなかった看守の家族にも心を配って、看守と同じように家族も主イエスを信じれば、家族も救われる、と告げたのです。その後、家族にも福音を語りました。
 「あなたの家族も」というのは、看守の信仰が彼の家族を救うという意味ではなく、彼の身に起きたのと同じことが家族にも起こるチャンスが開かれたという意味です。「私の身にも起こった神の救いは、同じように家族にも実現可能だ」と、家族の救いの実現可能性を信じるのです。獄舎の扉がすべて開き、残される道は自害のみ、と追い詰められた看守は、パウロを通してイエス様に救っていただきました。彼は強い恐れと感謝を覚え、自分の救いだけでなく、家族の救いも切実に願いました。何の躊躇もなく使用人を含めた家族全員を集め、自分の見たこと聞いたことすべてを語ったことでしょう。熱心に、真剣に福音を語ったでしょう。そして、彼の家族も信じて救われました。
 ですから、信仰を伝える人が必要です。それも、伝える自分がどれだけ信じているかが問われています。家族の頑なさや反発は問われていません。自分がどれだけ神さまを信じているか。しかも、頭だけの理解ではなく、実際にどんな場面でも神に信頼して生きているかということです。この信仰が家族の救いにつながるのです。自分の信仰と生き方の影響が家族に及び、結果として家族も救われることになるのです。この御言葉を自分に対する神様の約束と信じて神様に訴える人は、ただ自己主張を繰り返し、不満を言うのでなく、信頼できる夫として、尊敬できる父として、優しい母として、素敵な妻として、親を敬う子どもとして、家族との絆をしっかり再生して行く働きをすることが必要です。クリスマスの主イエス様が私たちの心に来てくださったのですから、この恵みに応えて。使徒16:31。


マタイ
マタイ1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。
2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
2:14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と言われた事が成就するためであった。


ルカ2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

コロサイ3:18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
3:19 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。
3:20 子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。
3:21 父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。

Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

使徒16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。

エペソ6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。
6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

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