2013年12月29日「主に似た者とされて」Uペテロ1:4〜7

序−現代日本人は自己肯定が低いと言われます。以前よりも多くなってそうです。自分を否定的にとらえ、自分の存在と人生をつまらないものに思うそうです。しかし、私たちは、大きな可能性をもった者になっていることを知らなければなりません。

T−神の品性を与え、神様に似た者として尊い存在に−4
 辛く貧しい境遇にあった当時の聖徒たちも、そのように思い違いをしていたようです。そこで、次のように教えています。4節。私たちがイエス様を信じた時、罪赦されて、滅びから解放され、新しい命を与えられただけでなく、この世を生きて行くために、尊い、すばらしいプレゼントが与えられています。それが、神様のご性質、品性です。神様は、私たちを救うためにご自分の御子をさえ十字架の死に渡されました。ローマ8:32。神様は私たちのためには、何も惜しむことはなされません。何と!神の品性をくださったのです。
 私たちはすごい人になっているのです。「神のご性質にあずかる者」とされているのです。難手術をする医者の技術を神の手と言い、一流選手の高度なプレーを神業と言いますが、神様の品性が与えられて、その品性の人になって行くというのです。私たちがイエス様を信じてまず変わるのは、私たちの性質、品性です。ひねくれた強情な性質が、真実な神の品性に変わって行くのです。
 神様は、イエス様を信じた私たちをご自分の子どもとしてくださったのですから、当たり前なのです。ただ問題は、私たちがその様な品性が身について、神の品性が発揮できないでいることです。イエス様を信じて、神様の品性にあずかる者とされたのに、ある人は、イエス様を信じた後も、品性が変わらず、昔の肉の欲と感情のままでいます。その原因の一つは、そのような者となったにもかかわらず、分かっていないことです。神様の品性をあずかる者となったのに、相変わらず、欠けや弱さを見ては、自分を否定し、人生を空しく感じている聖徒たちがいたのです。
 勿論私たちは神様の品性を全部持つことはできません。でも、この救いのプレゼントを知っているなら、すこしずつ品性が身に付き、霊的造り変えが進んで行くのです。たとえば、以前は色々嘘を言って気分よくしていても、イエス様を信じた後で事実でないことを言うのは、気分がよくないことになります。神様は、どんなに有能な者だとしても、高慢な者をきらわれます。元々持っていた肉の性質、罪の性質では、貪欲で、高慢で、曲がっています。しかし、イエス様を信じた時、神様は人の心の中に、謙遜という品性を植えつけてくださいます。そして、謙遜に生きるようになって行きます。それは、小さな種のようです。
 これが、「神のご性質にあずかった」ということです。この小さい品性をもって神様に祈り、御言葉に生きてなら、神様は私たちをご自分の性質に似た者としてくださるのです。Tヨハネ3:2。それでも、神様のご性質は、世ではほとんど認められないかもしれません。人から、組み易しと侮られ、攻撃を受けるかもしれません。イエス様も、弟子たちを遣わす時、「狼の中に羊を送り出すようなもの」と言われました。マタイ10:16。罪と欲の横行する世にあって、どう生きて行けるのでしょう。見えない神様の御手が私たちを守ってくださいます。強くなくていいのです。私たちが神様のご性質にあずかる者とされている、という信仰の自信をもち、自尊心をもって生きることです。事実、イエス様を信じた者はそうなのです。

U−神の品性は成長しなければならない−5,7
 自分がそんな素晴しい品性の者になっているのに、低いセルフイメージのままでいる理由は、イエス様を信じた時受けた神の品性は、はじめはとても小さい種のようだからです。でも、種は成長します。イエス様は、信仰を植物のからし種にたとえて説明しておられます。からし種は、どんな種よりも小さいのですが、成長すると、鳥が巣を作るほどになります。マタイ10:31~32。種の成長は、蒔かれる土地も関係しています。良い畑に蒔かれた種は、成長します。マタイ13:8,23。芽が出ない土地もあり、芽が出ても成長できない土地もありますが、良い地では成長し、多く実ります。良い地とは、御言葉を悟る心だと言っています。イエス様を信じた後には、信仰の成長が必要です。
 信仰の成長は、こう言われています。5節。おそらく、信仰を持っても、そのまま肉の欲と感情で生き続けているために、救われた喜びも再生も感じることができず、周りにも毒を撒き散らすようになっていた者たちもいたようです。「あなた方は、罪と欲のまま生きていたら滅びに至っていたのに、イエス様の十字架を自分のためだ信じたことで救われましたね。それで、神のご性質にあずかる者となったのですよ、神様の品性という種がすでにあなた方に植えられたのですよ」と確認させています。そして、種は成長しなければならないというのです。
 私たちも、このような約束とプレゼントを忘れて、自分の肉の思いで生きようとしているかもしれません。何事も自分中心で考え、自分の肉の思いが満足できないために、平安や感謝がなく、周りに怒りや不満をぶつけてしまいます。うまく行かない、面白くないと不平不満でいっぱいになり、自分を否定し、妬みと恨みの中に陥りながら過ごしてしまいます。
 自分の努力でする律法を押し付けているのではあいません。イエス様の尊い犠牲によって、すでに「神のご性質にあずかる者」となったのですから、その恵みに応えて「あらゆる努力を」というのです。イエス様を信じて救われたのなら、その病んだ肉の性質が癒されて、変えられて、成長して行く者とされたのです。神様の品性で生きて行く者になったのです。私たちがイエス様を信じて神様の品性という恵みをいただいた時、主に似た者となる可能性が蒔かれています。
 私たちの人生は、二つに分かれます。一つは信仰の種が蒔かれているにもかかわらす、低いセルフイメージのままで、成長も実りもなく、喜びも満足もない歩みです。自分の欲と肉の思いを満足させることに汲々とするものです。もう一つは、信仰の種が成長して、主の品性に生きてように変えられて、祝福の可能性が開いている歩みです。私たちが一緒に集まって、賛美して、祈って、御言葉を聞くことは、共に成長し、変えられて行くためです。天の祝福が私たちの人生に注がれることになります。
 植物の成長には時間がかかるように、信仰の成長も時間がかかるかもしれません。少しずつ育ちます。成長しないと悲観したり、諦めたりしてはなりません。神様の約束、プレゼントですから、私たちが素直に信頼して恵みに応えていくなら、必ず成長し、品性が実ります。

V−信仰で生まれた実−5〜7
どんな過程で育っていくのでしょう。5~7節。はじめに、イエス様を信じる「信仰」が出発です。私たちが御言葉の福音を聞くなら、信仰が生じるようになります。ローマ10:17。御言葉を聞くことが、最も重要な基礎です。御言葉を聞くことを怠れば、たましいは病気になります。信仰には「徳」です。道徳の徳ではなく、この徳は「熱心」の意味です。モラルの力です。私たちの信仰が生きている信仰であるなら、熱心に御言葉に生きようとする情熱が生じます。私たちの心に情熱があれば、何でもできます。Uコリント13:8。徳には「知識」です。信仰には知恵が必要です。この知恵は、御言葉から生じるものです。御言葉を体系的に学ぶならば、多くの試行錯誤を減らすことができ、はるかに益の多い信仰生活をすることができます。この知恵は、分別力のある知恵です。ヘブル4:12。
 知識には「自制」です。私たちに知恵や力を発揮できると、高慢になり易くなり、罪や妬みが生じるようになり、誘惑にも陥ります。自制心のある人は、自分自身との戦いに勝つことができます。そして、御霊の力あらわれるようになります。自制には「忍耐」です。イエス様は、私たちの救いのために十字架に至るまで忍耐してくださいました。それが模範であり、私たちの忍耐の力となります。Tペテロ2:20~21。自制して行くには、忍耐が必要です。忍耐には「敬虔」です。御言葉どおり神様の御心に従うのが敬虔です。信仰によって忍耐して行くなら敬虔が養われます。
 敬虔には「兄弟愛」です。友愛とも訳されることばです。兄弟愛には、「互いに愛する」ことが伴っています。ローマ12:10。敬虔な信仰の具体的な姿が、近くにいる信仰の友、兄弟姉妹を受け入れ、仕えていくことです。肉の思いは、自我に固執するために、他の人を認めたり、受け入れることができません。傷を受けやすいのです。兄弟愛は、英訳では、アフェクションとなっています。「結婚するまではラブでいいけれど、結婚後に幸せな家庭を築くにはラブは アフェクションにならなければならない」と言われています。長く良い関係を持つには兄弟愛が必要です。
 まとめは「愛」です。この愛は、人の尊厳を認め、その人を尊い者として仕えることだといいます。イエス様は、仕えるために来られ、私たちの救いのために十字架にかかられ、命を与えられました。マルコ10:45。ここに神の愛があります。Tヨハネ4:10。私たちは、この神の愛に押し出されて、兄弟姉妹に、家族に仕えて行くのです。イエス様を信じたなら、神の品性にあずかるに者とされ、主に似た者とされるのですから、感謝して、喜んで、神の作品として自信をもって生きていきましょう。



Uペテロ
1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
1:5 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、
1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。



ローマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ローマ12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

ローマ10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

Uコリント13:8 私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。

ヘブル4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

Uテモテ3:12 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

Tペテロ2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

ローマ12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

マルコ10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

Tヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

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