2014年1月5日「信仰の基本」Uペテロ1:8〜11

序−信仰は、私たちの人生に素晴しい幸いを与えてくれるものですが、信仰を持っているにも関わらす、その恵みを享受することなく、周りの人々を巻き込みながら、空しさや不平不満の中で揺れ動いている人もいます。そういう人々に対して書かれています。どうしてそうなるのか、どうしたら信仰を享受して生きることができるのか、御言葉から学びます。
 
T−主イエス・キリストと個人的に出会う−8
 私たちは、以前は、生きる目的が分からず、罪に囚われて空しく生きていました。しかし、イエス様の十字架を信じることによって、罪と滅びから救い出されました。信仰は神様の素晴しいプレゼントです。その素晴しい信仰の恵みを享受するには、どうしたらいいでしょう。イエス様を知ることです。8節。「主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません」と言っています。イエス様を知ったからこそ信じたのに、というでしょう。
 ここでは、農業にたとえています。「役に立たない」というのは、「怠ける」という意味です。作物を育てることを怠れば、成長せず、実りません。神様の品性を身につけて、霊的に造り変えていただこうとしない、自分が霊的に変えられることを怠るということです。神様は、私たちに信仰の種をくださいました。蒔いて、育てれば、多くの実を実らせます。有意義な力ある信仰の生涯を過ごそうとするなら、熱心に御言葉に聞き従い、素直に変えられなければなりません。
 霊的造り変えられ、イエス様に似て行くために重要なことは、「主イエス・キリストを知る」ことです。自分の肉の思いで教会を迫害していたパウロは、イエス様に出会って回心しました。使徒9章。パウロは、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことをちりあくたと思っています」とさえ言っています。ピリピ3:8。イエス様を知る、イエス様に出会うということは、それほどに素晴しいことです。まるで目の見えない人が見えるようになるようなものです。
 私たちも、空しい生き方から救われました。しかし、頭では信じていても、教会生活はしていても、救い主イエス様と個人的な、人格的な出会いがなかったならば、本当に「イエス様を知った」とは言えません。聖書の知識もあって、奉仕も多くしても、人格的に主を知ることはできません。肉の価値観と自己中心のため、劣等感と高慢を行き来して、空しく葛藤しなしながら歩んでいる人もいます。ところが、この惨めであわれな自分のためにイエス様が十字架にかかってくださったのだな、と深く感謝し、そして、神様の子どもとされ、自分は本当に大切な存在となった、ということを悟る時から、私たちは新しい人生を歩むようになります。
 人格的にイエス様と出会うことがなければ、種が成長することができません。本当にイエス様の十字架の御前で肉の自分が砕かれ、悔い改めて素直になった時、イエス様の深いあわれみと慈しみがじわじわと感じられ、ただ神様の子どもとされた自分を素直に喜べるようになります。そうしたら、多くの実を結ぶ人生とされたことを知るようになります。信仰は生きたものとなります。恵みによって救われたのですから、それにふさわしく歩むことが必要です。エペソ4:1。

U−救いの恵みを忘れないで−9
 イエス様を知るには、まずイエス様の御業を知ることが必要です。私たちの信仰の基礎がイエス様の御業にあるからです。イエス様の救いの御業とは、身代わりの犠牲、贖いです。自分の罪と滅びのためにイエス様が十字架に死なれたことを信じる時、イエス様が自分の救い主となります。自分の中の古い自分が死んで、イエス様が自分の中で生きるようになり、イエス様を信じる信仰に生きるようになります。ガラテヤ2:20。
 聖徒たちは、「私たちを救うために、神の御子が人となって世に来られ、私たちの罪と滅びの身代わりとなって十字架にかかり、苦しみ、死なれた。そして、よみがえって天に昇り、私たちのために執り成しをしておられる。イエス様を信じた者には、聖霊が注がれて罪と悪に打ち勝つようにしてくださった」ということを信じるのです。それなのに、イエス様を信じてもなお、イエス様を知らないかのように、自分の肉のままで歩んでしまう人々がいます。それは、どんな人だと言われていますか。9節。
 「近視眼であり、盲目」というのは、何でしょう。目は開いていても、神様が見せようとするものを見ないで、大事なものが見えなくなっているということです。自分の思いに執着するようになるならば、神の御心も御言葉の原理も目に入りません。その信仰は成長せず、肉の思いに翻弄されるでしょう。自分の願うように事が動くか、自分の高慢を満足させるか、周りの人が自分の思うようになるかなどばかりに思いを向け、満足したり、不満を爆発させたりするのです。
 神様の御心に思いを馳せたり、御言葉の原理に聞こうとしたりしない姿であるならば、神様の恵みに無感覚となり、不平不満でいっぱいになり、怒りや憤慨を周りに噴出すことになります。私はしっかりしている、私は知識を持っている、私は見えるという人が霊的盲目だと聖書は言っています。ヨハネ9:39〜41。霊的洞察力を身につけると、信仰は力強く成長し、実るようになります。ピリピ1:9〜11。信仰を持ったのに、大事なものが見えていないというのは、何ともったいないことでしょうか。素直に悔い改めて、心の目が見えるようになりたいのです。黙示録3:17〜19。
 近視眼は、祝福だけに関心があり、苦難や試練については考えることをしない信仰です。イエス様を信じれば何でもうまく行く、思いとおりになると教える人がいるのか、自分でそう都合よく思ってしまうようです。試練が来て、問題が起こる時、このような信仰は挫折してしまいます。むしろ、信仰の中で受ける試練について学んでいるなら、試練を通して見えるようになり、大きな恵みを受けるようになります。エペソ1:18〜19。
 
V−福音の確信−10〜11
 信仰の成長がなく、信仰を享受できないのは、信仰の基本が理解されていないからです。私たちがイエス様を信じて神様から与えられた知識や祝福は、到底言い表すことのできないほどですが、そのうちで最も重要なことだけ握っていれば成長できます。それは、イエス様の血によって罪の聖めを受けたことです。9節。イエス様が私の代わりに十字架で血を流して死なれたことによって、私は罪赦され、天国への命を与えられ、神の子どもとして祝福を受ける者となったという救いの知識は重要です。ところが、信仰の恵みが享受できない人は、「罪がきよめられたことを忘れてしまった」かのようだというのです。
 イエス様を信じた者は、罪が聖められるという信仰の基本を知っているはずです。でも、忘れてしまったかのように生きているというのです。罪を犯した女を石打ちにしようとしていた人々に対してイエス様が「罪のない者が先に石を投げなさい」というと、老人から去って行き、誰もいなくなったという話があります。ヨハネ8:4〜9。自分も罪赦されるべき者であることを忘れたかのように、人々はその女を断罪していたのです。同じように、罪赦された者であるのに、人を赦すことができなくて、人を裁いて、人も自分も傷ついている人もいます。罪赦されて新しい人になったのを忘れたかのように、相変わらず古い人として肉の原理で生きるのです。
 ですから、御言葉によって養育され、霊的造り変えを受け、信仰が真に成長することがとても大切です。もし信仰が成長しないまま、肉の原理で生きるならば、その人が信仰の恵みを享受できないばかりか、自分も周りも傷つけ、周りの人を救いから遠ざけることになります。神様は、私たちを罪から救うために御子を十字架に渡されたのですから、罪赦され、聖められることが、どれほど力ある重要なことでしょうか。
 ですから、「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」と言っています。10節。神様が私たちを救いに選んで、救いに召されたということです。けれども、私たちが御言葉を聞いて信じて、召しに応じた時、選びが確かになります。エペソ1:4〜5。信仰は自分の判断や力でなく、神様の一方的なあわれみと愛だということです。ですから、ただ恵みに応答することが、救いを確かなものにします。
 神は救いに召してくださっただけでなく、義と認めた人々には、天国という栄光をお与えになります。ローマ8:30。一人一人が個人的に主と出会い、変えられるならば、御国に至ることができます。11節。信仰的な成功とは、終わりまで信仰で生きることです。イエス様を信じた者には、地上の生涯を終えるなら、天国の門が開かれています。
 私たちはこんな素晴しい宝物である信仰をいただいているのですから、信仰を享受しなければなりません。「ますます熱心に」と強調し、嘆願しています。信仰の基本に生きていれば、躓くことはありません。この信仰に生きないで、自分の肉と罪に生きて何になるのでしょう。神様がイエス様の血潮によって一方的に救ってくださった、という恵みに応答することが大切です。恵みに応えて、素直に御言葉によって造り変えられましょう。私たちがイエス様の十字架の御業を信じて救われているということは、最高の幸いです。さまよい、揺れ動く生活ではなく、信仰の基本を確信して信仰の恵みを享受しながら生きましょう。



Uペテロ
1:8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。
1:9 これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。
1:10 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。
1:11 このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。



ピリピ3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

エペソ4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

エペソ1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

黙示録3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

Tヨハネ 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

エペソ1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

ローマ8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

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