2014年1月12日「最も確実な基礎」Uペテロ1:12〜21
              (※デボーションの時に用いて下さい。)
序−私たちは、新しい年を歩み出しましたが、私たちは、どこに基礎をおいて生きているか考えてみなければなりません。私たちがこの一度の人生を最高に美しく生きるためには、世の流行や自分の肉の思いに基礎を置くのではなく、最も確実なものに基礎を置くことです。
 
T−すでに与えられた御言葉、繰り返し思い起こせる−12〜15
 なによりもまず、今私たちが信じている者がどこに立っているかを明らかにしています。12節。「現に持っている真理に堅く立って」とは、私たちが立っている基礎は、神様の御言葉だということです。神様の御言葉は、全世界を創造し、私たちを救ってくださったものです。イエス様を信じた者は、この御言葉の上に立っているのです。自分は、今どこに立っているのでしょう。自分は何を基礎に生きているのでしょうか。
 イエス様は、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」と言われました。マタイ7:24~25。人生の嵐が押し寄せても、倒れません。御言葉の真理に立つならば、神様から祝福や導きが供給されます。祈り求めるなら、神様から慰めや励ましが来ます。もし、私たちが自分の肉の思いに基礎を置いているなら、これは大変です。妬みや怒りに振り回され、不安や恐れにとらわれます。「砂の上に自分の家を建てた」人生は、嵐に揺らされ、倒れていまします。マタイ7:26〜7。
 なぜ、信仰を享受できないのでしょう。どうして感謝を忘れてしまうのでしょう。信じたのに、心配は尽きません。世で様々な試練に出会うからです。私たちは、ちょっとしたことでも、自分の思うようにならなければ、問題や事件が起これば、心が揺れ動きます。でも、イエス様を信じたならば、私たちの立っているのは動かない岩です。私たちと一緒には動かない磐石の上に立っているのです。ですから、自分がこの「御言葉の真理の上に堅く立っていることを」覚えていなければなりません。
 ペテロは、心が揺れ動いている聖徒たちに対して、神様の生ける御言葉という磐石の上に立っていることを「思い起こさせようと」しています。私たちも、自分の肉の思いを基礎としてしまうなら、砂のの上に人生を建てることになります。人は自分の持っているものを忘れてしまう者です。ペテロは、自分が生きている限り、聖徒たちにこのことをイエス様を信じて、素晴しい磐石の救いを与えられたことを思い出させています。13節。信仰の恵みを思い出させて、信仰を奮い立たせなければならないと言っています。そのために、この手紙を聖徒たちに書いています。
 ペテロは、自分の人生が終わりに近づいていることを知っていたようです。14〜15節。「幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っている」というのは、「幕屋」とは肉体のことで、地上の生涯の終わりに近づいているということです。ペテロの遺言のようです。せっかくイエス様を信じて救われていながら、自分の肉の思いを人生の基礎として、揺れ動いている聖徒たちにせつせつと語っています。
 私たちが価値ある人生を送るには、御言葉が必要です。もし、私たちが御言葉を基礎としていなければ、肉の思いやサタンに囚われてしまいます。人をさばき、妬み、受け入れず、自分の境遇を嘆き、周りの人のせいにし、争います。Tテモテ6:4~5。イエス様を信じていながら、信じていない者のようになって、敵として歩んでいるのではないでしょうかと、使徒パウロも涙をもって書いています。ピリピ3:18。このペテロやパウロの涙は、反抗を繰り返す子どもを投げ出さないで、涙を流しながら育てる母親のようです。
 私たちがイエス様を信じたなら、生きる目的が変わります。自分に対する主の御心、すなわち御言葉に聞き従って生きることです。御霊の原理で生きるのです。ローマ8:2~5。自分の肉の思い、欲を満足させることではなく、人々を助け、人々に仕え、神の栄光をあらわして生きることです。イエス様がそのために私たちの罪と滅びの身代わりとなって十字架にかかられました。マルコ10:45。罪赦された恵みを忘れていませんか。この神様の愛を忘れて、自分の肉の思いに囚われて生きている罪の姿を見て、使徒たちは涙を流しながら書いたのです。責めているのではありません。ペテロ自身が、イエス様を否定した経験を持つからです。ルカ22:32。ですから、信仰を奮い立たせることが使命、恵みを思い起こせることが私の努めだと言っています。13,15節。私たちもこの使命で人々に取り組みます。

U−イエス様との出会い、恵みの体験−16〜18
 私たちがこの世で信仰を享受して生きる秘訣は、イエス様を信じることです。そして、その御言葉をつかんで、世の終わりまで生きることです。ただ、それは目に見えません。そこで、ペテロはイエス様のことを証ししています。16〜18節。ペテロは、イエス様と一緒に高い山に登ったことがありました。その時、イエス様が栄光の姿に変わられたことを見ました。マタイ17:1〜8。ヨハネとヤコブも一緒でした。そこには、モーセとエリヤのまぼろしもあらわれました。律法の立役者と最大の預言者が、イエス様こそ待望された救い主だと示しているのです。旧約聖書において預言されていた救い主はイエス様だと示しているのです。
 そこで大事なことは、「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」という神様の声を聞いたことです。イエス様が御子であることを、最終的に神様が宣言された、ということです。この危険極まりない世にあって、他の声に引き回されて、惑わされてはなりません。神様の御声、御言葉に従わなければなりません。この変貌の山での一切が、イエス様こそ救い主、この方以外に救われるべき道はない、と宣言しているのです。手紙を読む聖徒たちも、イエス様を信じて、救いの恵みを体験したはずです。それを思い出させています。
 変貌の山で驚くべき体験をした使徒たちも、山をおりれば困難や問題が待っていました。イエス様を信じても、恵みに応えないで、肉の思い中心でいるなら、不平やつぶやき、怒りや妬みにとらわれます。私たちは、恵みを受けた後、問題多い世に戻って行って、神様から与えられた使命を成し遂げなければなりません。ヘブル3:14。変貌の山のような霊的恵みの体験は、世での証しの生活と困難な問題に取り組む勇気と力を与えてくれるためです。週のはじめの礼拝も、臨在される神様と交わり、御言葉に恵まれ、癒しと導き受け、神様の栄光に触れるためです。それによって、その週も多くの問題に信仰をもって取り組み、神様の栄光を現して生きて行けるようにされるのです。恵みの体験をもって、世に生きるのです。
 イエス様は、私たちの磐石な基礎です。私たちはイエス様を信じて、救いを確信しています。肉の思いにとらわれないでください。サタンの罠や惑わしに陥らないでください。私たちも、内なる声を聞くことでしょう。心を頑なにしてはなりません。肉の思いになって神様の御心から離れてはなりません。ヘブル3:12〜15。私たちには、すでに驚くべき真理が与えられているからです。

V−もっと確実な御言葉−19〜21
 ペテロにとって、変貌の山の体験は、確信を与えた体験でした。しかし、もっと確実なことがあります。それは、聖書の御言葉です。19節。真っ暗な夜には、何も見えません。御言葉がないなら、世は真っ暗です。中世のヨーロッパは暗黒時代と呼ばれます。御言葉が隠されていたからです。宗教改革時代になって、人々は御言葉を直接読むことができるようになりました。御言葉が読める、聞けるということは何と素晴しいことでしょう。
 5旬節の聖霊降臨の時、聖霊が弟子たちにくだり、弟子たちが御言葉を御言葉を悟って、語れるようになりました。使徒2:1~4節。イエス様の復活を知らないまま、失意のうちにエマオ村に行く二人の弟子の心は、真っ暗でした。その時、旅人のようにイエス様が二人に近づいて来て、御言葉を教えてくださいました。そして、イエス様がなぜ十字架にかからなければならなかったか考えた時、彼らの心が開かれ、イエス様を見ることができました。ルカ24:17~31。
 御言葉は、私たちが人生を歩むためのともしびであり、光です。詩篇119:105。御言葉よりも自分の肉の思いに囚われているなら、心は暗くなり、人生は闇の中を歩くようになります。20節の私的解釈は、御言葉を知ってはいても、自分の都合のよいように使うことと言えます。自分勝手に都合のよい御言葉だけ聞き、悔い改めや罪を思い出させる御言葉は聞き流してしまうことです。御言葉は心に留まらす、御言葉を聞きながら変わることなく、つぶやきや否定的思いに囚われます。
 21節。聖書は、弟子たちが自分の思いを書いたものではありません。「聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」ものです。ですから、私たちも聖霊の導きを求めながら、御言葉に聞なければなりません。聖霊が教えてくださいます。聖霊を受けているのですから、私たちは、神様の御言葉を通して神様の御旨を知ることができます。聖書には、神様の祝福がすべて入っています。誰でも御言葉の中に入って行くならば、祝福を見出すことできます。ゆっくりだとしても、御言葉が私たちの人生の基礎とされるならば、問題や試練はあっても倒されることなく、美しい信仰の生涯を生きて行くことになります。



Uペテロ
1:12 ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。
1:13 私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。
1:14 それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。
1:15 また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。
1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
1:17 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
1:18 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。
1:19 また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
1:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

マタイ7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

ピリピ3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

マルコ10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

Tテモテ6:4 その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、
6:5 また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。

ヘブル3:14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
3:15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。

詩篇119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

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