2014年1月19日「偽りの結果」Uペテロ2:1〜9

序−この世に多くの偽物があります。一流ブランド品から日用品にいたるまで多くあり、私たちも騙された経験があるでしょう。偽物に騙されるなら損害を受けます。品物ならお金を損するだけですが、信仰であるならば、人生を無駄にすることになります。何が偽りの信仰なのかを知って、本物をしっかり握って、人生を生きなければなりません。

T−偽りの信仰が現れる理由−1〜2 
 日本には良い品物が多くありますが、それらの品と似せた多くの偽物があります。ブランド品そっくりの偽ブランド品から、一流メーカー品のパッケージに似せた日用品まで様々あります。はたまた経歴詐称から偽資格まで色々あります。品物が偽物の場合は、内容が悪いだけでなく、すぐに壊れて長く使えない、お金も損することが多いです。しかし、人の場合は、それだけに留まりません。偽医者だったり、偽薬だったりしたら、人命に関わって来ます。それよりももっと恐ろしいのは、偽の真理です。偽りの真理に騙されるなら、人生が滅ぶことになります。
 1節。偽預言者、偽教師で何か損害があるのでしょうか。別段損することもないようですが、とんでもありません。「滅びをもたらす」ことになります。サタンは、人が真理をつかんで尊い存在として生きることを妬みます。そこで、偽預言者、偽教師を通して偽りの教えを吹き込み、聖徒たちを騙すのです。
 ここで注意しなければならないのは、今日異端と言われる偽りの教えは、外側にあるものですが、ここでは、「あなたがたの中にも」というように、聖徒たちの中に、教会の中にあったというのです。学者や教師の中には、世の中の教えを取り入れてと思うあまり、聖書の真理を世の教えや肉の思いに換えてしまう人々がいました。聞く側も、自分の肉の思いに合うので、騙されてしまうのです。今日も哲学や心理学を援用するあまり、福音中心でなくなってしまう危険があります。
 結局、偽りの教えを信じる者は、「自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして」しまうようになるというのです。肉の耳に聞こえのいいことだけ言い、神様は愛のお方だからとだけ強調し、肉の耳聞きたくない罪や悔い改めは言いません。でも、罪の悔い改めがなければ、イエス様の十字架の意味はなく、結局主の救いの御業を否定することになります。罪のことは聞きたくない、救ってくれる、愛してくれることだけ聞きたいというのです。福音は、人々が罪の滅びに向かっているのをあわれんでくださった神様が、御子イエス様をその身代わりとして十字架に渡されたことです。
 クリスチャンであるなら、イエス様を否定はしないでしょう。しかし、主の十字架の贖いを否定するような姿となってしまうというのです。罪の認識や悔い改めがなければ、自己中心、肉の思いから、「高慢になり、何一つ悟らず、疑いをかけ、ことばの争いをする病気にかかり、怒り、憎しみ、妬み、争いが生じ、否定的考えで生きる」ようになります。Tテモテ6:3〜5。それは、「自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなこと」をしていることになります。
 本当は、私たちは「イエス様の十字架という代価を払って買い取られたのですから、神の栄光を現し」て生きる者であるはずです。Tコリント6:20。そのような残念な姿では、「真理の道がそしりを受ける」ということになります。2節。「好色」とは、肉の行いということです。罪悔い改めて、真実にイエス様中心に生きて行かないなら、私たちの肉の性質は変わりません。霊的造り変えはないということです。私たちが高慢になり、ことばの争いをし、怒りや妬みを発して、周りの人々のそしりを受けているとしら、素直に悔い改めなければなりません。
 イエス様中心、イエス様の救いに預かって生きるのでなければ、肉の欲に打ち勝つことはできません。肉の思い中心になっていることすら気付きません。イエス様の十字架による救い、この福音を失ってはなりません。

U−偽りの教えの特徴−3 
 当時聖徒たちの信仰を揺るがしていた偽りの教えは、どこが違うのでしょう。3節。福音だと叫びながらも、裁きは言いません。罪も言いません。結局、イエス様の贖いの死も、伝えないことになります。イエス様が命を犠牲にされたと言いながら、何のための犠牲か認識していないのです。真実にイエス様の犠牲を思うなら、十字架の前に立って自分がどんな姿か省みるはずです。どんなに罪の姿なのか、どんなに肉の思いで生きているか、恥ずかしくなって、イエス様に申し訳なくなって、涙を流して悔い改めざるを得ません。主の御思いに思いを馳せ、御言葉に素直に聞き従って行こうするのでなく、自分の肉の思いが中心になっているなら、私たちは、キリスト教ではなく、自分教になっています。
 偽教師は、「作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします」と言っています。肉の耳にいいことを言って、救いから遠ざけてしまうのです。たとえば、「そのままでいい、神様は愛だから」と言う人がおり、「信じてもこのままで、私は変わらない」と聞く人がいます。聖書は、造り変えられたら救われるとは言っていませんが、罪を悔い改めて信じるだけで救われると言います。そして、信じた後造り変えられることを期待しています。イエス様について来た罪人たちは、悔い改めた人々でした。
 どうしてこのような偽りの教えが、キリスト教の中に入って来るのでしょうか。その張本人は世の学問を学んで人々でした。当時の知識人にとってプラトンなどのギリシャ哲学は絶対的なものでした。その人間の知恵からすれば、イエス様の十字架の代価などは、くだらないものだと考えるのです。いわば、人間の知恵を神とするようなものです。知識があることを誇り、人の力で信仰生活ができると思い込みます。まさにパリサイ人の姿となのです。
 人は本当の主人がいるのに、それを考えることもなく、肉の思いのまま生きるようになります。しかし、これは間違っています。造り主なる主人が厳然としておられます。ただ、人は自分が主人となって、肉の思いで歩みたいために、神を否定するのです。神様は、それに対して何と言われていますか。御怒りを持たれ、裁きを宣言しておられます。エペソ2:1~3。しかし、これが、イエス様の福音です。エペソ2:4〜5。裁きを免れるには、イエス様の十字架による身代わりの死、代償を信じるほかありません。

V−偽りの結果と義の人−3〜7,8〜9 
 信仰が曲がって、自分なりの信仰になっている人々の誤りを目覚めさせるために、偽りの教えの結果の例を三つ記しています。4〜9節。罪を犯した御使いに対するさばき、ノアの洪水、ソドムとゴモラのさばきです。4節に「罪を犯した御使いたちを、地獄の暗やみの穴の中に閉じ込めて」とありますが、「地獄」と訳された原語は、ギリシャ神話のタルタロスです。神々に反逆した邪悪な神々、特にタルタロスのような者が送り込まれて、永劫の罰を受ける牢獄のことです。よくイメージできる言葉です。美しい御使いも、高慢になって、反逆したために、落とされました。私たちも、美しく造られた者なのに、肉の思いになって、神様に背を向けて高慢になり易い者です。注意しなければなりません。
 5節に「昔の世界」とは、ノアの洪水以前のことです。「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」ので裁かれました。創世記6:5。人間の力を誇り神様を忘れた文明は滅び、正しい信仰を証ししたノアたちだけが救われました。神様は、己の知恵や力を頼む者ではなく、ただ神様の御心に従う敬虔な者を惜しまれるのです。6節に出て来る「ソドムとゴモラ」という地は、滅亡する以前は、美しく肥沃なところでした。しかし、その地の人々があまりにも堕落したために、灰燼と化してしまいました。
 神様が最も嫌われるのは、私たち人間が己の分を越えて、肉の思うままに放縦することです。それが、不敬虔です。御使いのようなものであっても、どんなに能力や知恵があるものであっても、高慢で、肉の思い中心になるなら、惜しまれません。
 ここでノアとロトは、義人と言うのですが、ノアが積極的な義人で、ロトは消極的な義人と言う違いがあります。ノアはその信仰生活を通して神の義を証しし、周りの人々が不義に走って行く中で彼らの不義を指摘しました。創世記6:8〜9。ノアの時代の人々はすべてしたい放題にして生きていました。神様に従っていたノアは、無視され、侮辱されながら、家族と船を造りました。それが、洪水から彼らを救っただけでなく、裁きから守りました。私たちも、この世で神様の御心に従って生きるのです。
 でも、ロトはとても消極的な義人でした。彼は、ソドムの人々の悪の言動を見聞きして心痛めましたが、彼らの不義を指摘できませんでした。ノアのように裁きと救いを伝えることができませんでした。私たちはどうでしょう。勿論、聖書が私たちに望むことは、私たちがロトのように消極的な信仰に止まらないことです。これらの例は、偽りの教えの結果を示しています。神様が惜しまれるのは、敬虔な心を持った者たちです。主の救いの御業に拠り頼み、神様の御旨に聞き従う者を神様は愛してくださいます。私たちは本物を証しして生きるのです。エペソ4:29〜32。



Uペテロ
2:1 しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。
2:2 そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。
2:3 また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。
2:4 神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。
2:5 また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。
2:6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。
2:7 また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。
2:8 というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。
2:9 これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。



Tコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

Tテモテ6:3 違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、

6:4 その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、
6:5 また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。

エペソ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──

エペソ4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

創世記6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
6:8 しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。
6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

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