2014年1月26日「肉に従う歩みから正しい道へ」Uペテロ2:10〜16

序−イエス様を信じた人の中には、肉に従って歩むことがなぜいけないのか、肉の思いに従うのが自然ではないか、という思う人もいます。そういう姿が自由でいいように見えるようです。この箇所が答えています。

T−肉に従って歩む姿と対処−10〜12
 人には誰にも欲があります。欲というものがすべて悪いものということではありません。欲というものは、人が生きて行く中で必ず必要なものです。本能的な欲がなかったら、生きる意欲も持つことができません。食欲がなければ、お腹も空かず、食べることをしません。人を愛する感情がなければ、人ともなりえません。病気や薬によって意欲がなくなる場合もあります。しかし、誰でも健康な欲求を持っています。赤ちゃんを見れば、それがよく分かります。自然な欲求をあらわし、成長して行きます。
 しかし、そのような欲が度を越してしまうならば、堕落した人生を生きることになります。10節。これが、神様の御心から離れた不義の者の姿だと言います。「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩」む姿です。度を越した欲は、燃えるというように急速に人を欲望に燃やしてしまいます。たとえば人間関係において、人と比べて妬みの炎を燃やし、評価を得たいと身を焦がし、尊大な者となって人を侮り、そしって、恐れることがありません。肉の思いが基礎となっている姿です。
 人には欲があるのですから、「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩」む危険は誰しもあるということです。「権威を侮る」とか、「栄誉ある人たちをそしって」というように、要は人を軽んじ、否定するだけでなく、主の権威を軽んじ、主を否定していることが原因です。肉の思い中心に生きてしまうならば、神様に背を受け、御言葉の原理から離れ、肉の感情の赴くままになります。その結果、イエス様を信じたと言っても、害毒をまきちらし、信仰を享受することはできず、空しさを感じるようになります。多くの人々は、情欲のまま生きることが自由で楽しいと思っているのでしょうが、これが最も恐ろしいことです。
 そのような肉の思いで神様を侮るような傲慢な姿と対照的に、御使いたちの謙遜な態度を教えています。11節。御使いは、権威があるにもかかわらず、神様の言葉を伝えるだけで、彼らをそしって神様に訴えることはしませんでした。ユダ1:9〜10。「正しくさばかれる方にお任せになりました」Tペテロ2:23。御使いがそうなのですから、私たちが、分かるはずだと思って、いさめても、欲に燃やされ、肉の思いが土台になっている状態の人には「ことばの争い」になるだけです。私たちも、自分の力を過信することなく、謙遜になって、主にお任せすることです。
 なぜ、分からないのでしょう。どうして、通じないのでしょうか。12節。「理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしる」という姿だからです。肉の思い、偽りの教えになっている状態は、あたかも理性のない動物のようだというのです。肉の思いでそしり、ほえるのですから、へたに手を出せば噛まれ、諌めるならば、争いになるでしょう。怒りや妬みにほんろうされているならば、まさに獣のようなのです。古の人が「飽食暖衣、逸居して教うることなければ、則ち禽獣に近し」と言いましたが、イエス様を信じたとしても、神様の御心と御言葉の聞き従うのでなければ、私たちも理性のない動物となりかねません。

U−聖い人生を生きられるのか、人の本当の価値−
 では、肉に従って歩む姿を学びましたが、果たしてこの欲に打ち勝って、神様の喜ばれる信仰の人生をどうしたら、歩めるのでしょうか。私たちが神様に従って聖く生きたなら、どんな益があるのでしょうか。人はまず情欲と戦うことを考えます。そうすると、肉の欲をなくそうと努力します。突き詰めれば、中世の修道院のようになるでしょうか。しかし、人の力と理性で欲に打ち勝ち、聖く生きようとしても、徒労に終わりました。ですから、当時の偽りの教えは、欲を制しようとしても、できないのだから、そのままで生きろというのです。
 そもそも、この問題を解決してくださったのが、イエス様です。イエス様がその血の代価をもって私たちを罪の奴隷から救ってくださいました。イエス様が責任をもって私たちを聖めてくださいました。聖書では、人は土の器だと言っています。Uコリント4:7。私たちがイエス様を信じて、私たちの中に主の御霊と御言葉が入ってくれるので、私たちが聖くされます。ですから、「自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」と言われているのです。Tコリント6:20。人が自分の力ではどうしようもできないことをイエス様が十字架の死でもって解決してくださいました。
 イエス様は、パリサイ人について、外側だけきれいにして内側は汚い器のようだと言われました。マタイ23:25〜26。内にあるものが外に出てけがすと言われています。マルコ7:20〜23。神様の御言葉と御霊で私たちの中を満たすなら、私たちの生活も聖くされます。私たちの人生を導いてくれます。私たちの心に思うことと体の行うことがほとんど一致するようになります。これが、人として最も尊い美しい姿です。妬みや怒りに引き回されることが少なくなって来ます。人を愛して仕えることを考え、行動するようになります。表面だけクリスチャンなんて、無理です。内側から変えられるのです。十字架には、その力があります。福音の恵みに生きてください。

V−バラムの道、狂った振舞いから正しい道へ−13〜16
 ここに昔の偽教師、偽預言者バラムの例が引用されています。13~14節。偽りの教えをする人々は、「飲み騒ぐことを楽しみと考え」、聖徒たちをだまして、引き込もうとします。「心の定まらない者」を誘惑するようになります。世の人々が普通に行っていることなので、そそのかされてしまうのです。バラムは、イスラエルの民を恐れたモアブ王バラクからイスラエルの民をのろって倒すように委託されました。
 それで、バラムはイスラエルの民を誘惑させました。イスラエルの民が、モアブの国を通る時、モアブの女たちが、民を宴会騒ぎと不品行に誘って、偶像も拝ませました。誘惑されたイスラエルの民も、御言葉で自分たちを整えることがなかったので、誘惑にかかって、罪を犯しました。そのために約束の地を目指していたイスラエル全体が大きな痛手を被ることになり、裁かれました。民数記25:1〜3,31:8,16。
 この世で最も悲惨な人々は、情欲に負け、肉の思いに従って歩む人です。彼らは、サタンに騙されて、一時的に望むものを手にし、欲の赴くままに生きます。しかし、後にはそれらを失います。バラムは買収されて、イスラエルをのろいに行くのですが、途中で御使いが剣をもってその道をふさぎましたが、見えません。民数記22:22〜30。何度も道をふさがれても、気付くことなく、立ち止まるロバをたたくだけでした。ついには、ロバが声を発してバラムを制しても、聞きませんでした。肉の思いが中心になってしまうと、その自分の状態に気付きません。周りから言われても耳に入りません。神の声を聞いて、やっと気付きました。民数記22:31〜34。
 結局、私たちは神様の御言葉を聞くしかありません。しかし、神様のみこころを知りながら、欲と肉の思いに従ってしまったのが、「バラムの道」です。15〜16節。この「罪」と訳されたのは、普通の罪とは違うパラノミアということばです。「違反」という意味です。神様の御心に反しているとバラムは責められました。「狂った振る舞い」と訳されたパラフロニアも、行動が認識のわきにある、気付いていないということです。それで、ロバが物を言うことによって、気付かせようとされました。御言葉に素直に聞き従えば、肉の思いに燃えている自分に気付かされます。ロバならぬ、周りの人をたたいていることに気付くでしょう。御言葉が、肉の思いという情欲の火が消して、私たちを「正しい道」に導いてくれます。私たちの内なる人が造り変えられ、私たちの人生が美しく変えられます。
 イエス様が教えてくださった主の祈りにも、「試みに会わせないで、悪からお救いください」とあります。マタイ6:13。内に外に私たちを肉の思いや欲へと誘う試みがあります。それらに打ち勝つ道は、ただ神様の御言葉の導く道を行くほかありません。十字架にかかられたイエス様ただお一人が、救いの道を開いてくださいました。イエス様が私たちの罪と滅びの身代わりとなって、十字架に苦しみ、死んでくださいました。イエス様が「道であり、真理であり、いのちです」ヨハネ14:6。
 私たちは、イエス様の十字架を信じて、この道に入りました。私たちは、尊いイエス様の犠牲によって、滅びの道から救いの道に入れられたのですから、この道を歩まなければなりません。私たちは、イエス様の救いの恵みをいつも新たにしていないと、いつの間にか自分の思いに満ちて、肉の欲を満足させる道にそれて行きます。バラムは、いったんは神様の声に聴き従ったものの、結局は欲に負けて、自分の肉の思いに従い、滅びの道に進みました。
 私たちも、神様のみこころを知りながら、自分の肉の思いを燃やし、肉の思いを中心にしていないでしょうか。御言葉が与えられているにもかかわらず、バラムの道を歩んでいないでしょうか。周りの人々を言葉や態度で打ちたたいていないでしょうか。私たちは、「地上の残された時を、肉の欲のためではなく、神のみこころのために過ご」したいのです。Tペテロ4:2〜3。悔い改めて、イエス様を心の王座に迎えて人生を歩みます。



Uペテロ
2:10 汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。
2:11 それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。
2:12 ところがこの者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。
2:13 彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。
2:14 その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。
2:15 彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。
2:16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。



Tペテロ2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

Uコリント4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

Tコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

マルコ7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

民数記22:32 【主】の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。
22:33 ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」
22:34 バラムは【主】の使いに申し上げた。「私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

Tペテロ4:2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
4:3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。

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