2014年2月2日「罪と滅びから解放されたのに」Uペテロ2:17〜22

序−出エジプトの時、民の荒野の歩みは、聖書の教えの中でも特に引用される箇所です。エジプトでの奴隷の境遇から解放されたにもかかわらず、荒野での困難を通して揺さぶられ、しばしばエジプトに帰ろうとします。はなはだ矛盾した姿なのですが、今日の箇所もそのような姿が課題です。ペテロも、荒野の民を連想しながら、書いているようです。

T−肉の欲に従って歩む人の特徴−17〜18
 よくクリスチャンが様々な問題に出会いながら世を歩むことを、荒野の歩み、荒野の学校と言います。確かに、世の中を生きて行く中で様々な問題や苦難に多く出会い、そこに誘惑や惑わしがあります。当時、肉の思いに従って世的にうまく生きることができると教える偽教師たちがいました。17〜18節。聖徒たちは、信仰が御言葉の基盤の上に立っていないなら、偽りの教えに引かれてしまいます。惑わす者の特徴は何でしょう。
 イスラエルの民は、エジプトから救い出された後、水もない食べ物もない荒野の道を行くことになります。その時、指導者のモーセに文句を言い、エジプトに戻ろうと扇動する人々がいました。民数記14:3〜4。奴隷として苦しんでいたエジプトからようやく解放されたのに、そこに戻ろうとするのです。変ですね。私たちがイエス様を信じたことで、私たちは罪の奴隷から解放されました。そして、解放されたのことに劣らず重要なのは、持続的に正しい信仰の歩みをすることです。信じて救われた後、霊的造り変えを受けながら、イエス様に似た者とされて行くことが大切です。しかし、偽教師は、そんなこと必要ない、肉の思いで歩めというのです。
 荒野を旅する者にとって最も重要なのは、のどを潤す泉です。もし目当ての井戸に着いたとしても、枯れていたならば、のどが渇いて死んでしまいます。確かにエジプトには、水も食べ物も家も多くありました。今も世には、人を魅了するものがたくさんあります。でも、最も大切なのは、心を潤す御言葉の泉です。クリスチャンにとって御言葉の泉がなかったら、たましいは枯れてしまいます。私たちのたましいが生き生きとして行くためには、御言葉の井戸を掘るのを止めてはいけません。
 霧がかかるならば、雨でも降るかなと思っても、突風が霧を吹き飛ばし、乾燥が続きます。私たちが御言葉に聞き従って信仰生活をするならば、聖霊が働きます。出エジプトから解放された民が、モーセに文句を言い、エジプトに戻ろうとしたために、乳と蜜の流れるカナンに入るまで、実に40年間も荒野の訓練を受けなければなりませんでした。荒野という所は、何もありません。このような荒野を神の民が行く理由は何でしょう。
 出エジプトの民が本当の信仰の民になるために、荒野の訓練を受けました。神様に拠り頼んで、御言葉に聞き従って生きる民になるためでした。しかし、民をずっと引っ張っていたのは、エジプトに対する郷愁でした。私たちにとってのエジプトは何でしょう。戻るように誘われ惑わされるものは何でしょう。荒野での訓練に成功する秘訣は、その誘惑と惑わしにどう打ち勝つかということでした。出てきた所に戻るならば、罪の奴隷、滅びの道に戻ってしまいます。神様の祝福をいただこうとするなら、ただ愚直に信じて、御言葉に聞き従うことです。

U−イエス様を信じて、罪と滅びから逃れたのに−18~19
 イスラエルの民が奴隷となっていたエジプトから出て来たように、私たちクリスチャンは、イエス様の十字架の犠牲によって、罪と滅びの囚われからようやく解放された者です。私たちが再び元の道へ戻るなら、罪と「滅びの奴隷」に戻って行くことにほかなりません。18〜19節。神様がくださった祝福を失うことになります。様々な誘惑や偽りにそそのかされて、救われる以前の生き方、考え方に戻ろうとするなら、罪の奴隷に戻り、救いの恵みを失うことになります。それは、まるで火事になった家から逃れ出たのに、何かを惜しんで取りに戻ってしまうようなものです。
 命と品物のどちらが大事なのでしょうか。命より大切なものはありません。ところが、元の道、罪の奴隷、肉の思い中心へ戻ろうとするのです。「ようやくそこから逃れて」来たのに、戻るのですか。愚かしい姿ですが、自分でも知らぬ間にそこに向いてしまうのです。肉の思い中心から抜け出てくだしましょう。神様の御前に立ち返って、御言葉に聞き、分かち合うなら、罪の奴隷に戻ろうとしていたことに気付き、立ち返ることができます。礼拝やセルは大切です。エジプトに戻ろうとすることから立ち返るには、御言葉に取り扱われる信仰生活の習慣が何より大切です。
 「ようやくそれをのがれようとしている人々」というのは、イエス様を信じた後、以前の肉の思い、罪の習慣から解放されたばかりの人々のことであり、罪の奴隷に戻ろうとしている自分に気付いて、肉の思い中心から逃れようとしている人々でもあります。信仰の土台が不安定な人です。そういう人々は簡単に惑わされ、揺さぶられ、肉の思い中心に戻り易いのです。事実、偽教師はそのような人々をねらっていたのです。
 偽教師の特徴の一つは「大言壮語を吐い」ていると言います。これは膨れることで、自惚れ、自慢することです。彼らは敬虔でも真実でもなく、自慢話や成功した話をして、偽りの教えに引き込もうとしました。ですから、私たちが神様の前にどれほど謙遜で、誠実で、経験か、御言葉を握っているかということが大切です。肉の思い中心になると、自慢します。肉のプライドが強いために、妬むこともします。妬みからは、敵対心や憎しみが生じて来ます。彼らは、自由を叫びながら、結局彼ら「自身が滅びの奴隷」となっていました。「人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷とな」ります。ローマ6:16,20。罪と欲の奴隷になるのか、イエス様のしもべになるのかということです。主のしもべになるなら、罪に打ち勝って、誘惑を退けることができます。ローマ6:17〜19,22。
 偽りの教えをする者の最も悪いことは、ようやく罪と滅びから解放された者たちをまた罪と欲の奴隷に引きずり戻そうとすることです。自分たちが肉の自慢と肉の思い中心になって滅びの道に戻るだけでなく、やっと逃れて、救いの恵みを享受して、霊的造り変えを受けようとしている人々を惑わし、騙し、引き戻そうとするのは放っておくことはできません。

V−戻ろうとする習慣を断ち切る−20〜21
 イエス様を信じれば、それで完成ということではありません。罪と欲の奴隷に引き戻そうとする働きがあるからです。20〜21節。私たちがイエス様を信じたことは、罪の支配の下で生きて来たことを清算して、神様の御心に従って生きることを始めたということです。イエス様を信じたと言っても、霊的造り変えの過程、工事中です。ですから、私たちには、かつての罪の奴隷に、肉の思いに戻ろうとする傾向が残っています。どうしたら昔の習慣を断ち切って、聖い神の民として生きて行けるのでしょうか。まず、御言葉を通して肉の思いがどれほど醜悪で恐ろしいものか悟ることが必要です。罪の奴隷に戻ることは、とても悲惨なことだと知ることです。罪の奴隷に再び戻るなら「初めの状態よりももっと悪いもの」となるというのです。肉の思い中心になって、昔の自分戻ろうとしているのを気付かなければなりません。御言葉と周りの人々の反応が教えてくれます。
 救われる以前の状態に戻るなら、悲惨どころか「自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える」ようだと言われています。ヘブル6:5〜6。イエス様の十字架の犠牲によって罪の奴隷から解放されたのなら、再び罪の奴隷に戻ることは、またイエス様を十字架にかけることになるからです。救い自体を失うことになりかねません。私たちが、イエス様を信じた後、自分の肉の思い中心へ戻ってしまうなら、とても恐ろしいことです。
 真理の道を知って、イエス様に救われて新しい命をいただきながら、罪と欲の奴隷に戻り、自分の肉の思い中心になるなら、何と残念な悲惨なことでしょうか。ですから、その愚かな姿を当時のことわざを引用して強調しています。22節。犬や豚がどうだというのでなく、汚い元の状態に戻ってしまうということが強調されています。箴言26:11。きれいに洗ってもらってもその直後に泥の中を転げまわるという姿は、イエス様を信じて罪と滅びの奴隷から解放されたにもかかわらず、また肉の思い中心になって、罪と滅びの道に戻ってしまうことがどんなに悲惨で、愚かで、残念なことかを知らせています。
 動物がそうするのは、動物には汚いという概念がないからです。でも、私たちがたとえ肉の思い中心になったとしても、悔い改めを覚え、心の痛みを感じて、嫌悪感を覚えるはずです。怒りや妬みを吐き出したままでいられないはずです。そうであれば、それがすでに造り変えられつつある証拠です。もうあのような空しい暗い時代に戻りたくはありません。私たちは、すでにイエス様の尊い血で聖められた者です。ほかに比べることのできない祝福にあずかった者です。自分の救いをもっと大切に考えてみてください。御国に召されるまで、「右にも左にもそれないで」イエス様に救われた福音だけつかんで、この道を行くことを願います。ヨシュア1:7。
 使徒ペテロがここまで言葉をきわめて偽教師を批判し、偽りの信仰になっている人々に注意を喚起しているのは、ひとえに惑わされている人々を憂えてのことです。ガラテヤ5:1。私たちも、神様の御心を痛めさせてはいないか、再びイエス様を十字架につけようとしていないか、真摯に悔い改めて、信仰の成長、霊的造り変えの道を進みたいのです。



Uペテロ
2:17 この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。
2:18 彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、
2:19 その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。
2:20 主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。
2:21 義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。
2:22 彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざどおりです。



民数記14:3 なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
14:4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。

ローマ6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

ヘブル6:5 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
6:6 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

箴言26:11 犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。

ヨシュア1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

ガラテヤ5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

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