2014年2月9日「純真な心を奮い立たせるため」Uペテロ3:1〜7

序−「愛する人たち」と呼びかけています。これまで偽教師を批判して来ましたが、偽りの教えに揺さぶられている聖徒に愛をもって直接語りかけています。揺れ動く聖徒たちがどんなことで信仰が揺らされているか教え、励まして、はじめの信仰を思い起こさせています。

T−再臨を嘲る者、信仰の覚醒の必要−1〜4
 手紙の目的が記されています。1節。ペテロが、この第二の手紙を書いた理由は、偽教師たちによって、御言葉で言われていないことが教えられ、聖徒たちの信仰が揺さぶられていたからです。その具体的なものの一つが、主の再臨問題でした。3節。初代教会の人々の大多数は、自分たちが生きている間に主の再臨があるだろうと思っていました。それゆえに、世の誘惑に倒されないで、尊い信仰を持ち続け、迫害や苦難に耐えていました。彼らは、互いに「マラナタ」(主は再び来られる)という挨拶を交わしながら励ましていました。Tコリント16:22。
 しかし、次の世代になろうとしていたこの時代、主の再臨はまだありませんでした。それで、聖徒たちの気持ちが緩み始めたのです。主は来られないのか、という疑心が起こりはじめました。そこへ偽教師たちがあらわれて、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。創造の初めからのままではないか。」と言って騒ぎたてるので、聖徒たちの望みが揺れ動いていたのです。4節。私たちの信仰が揺らぐのも、この点です。「望みを持っても、何も変わらないじゃないか」と、不安や疑心が生じて来ます。肉に思い中心に戻ろうとしてしまいます。
 そこで、聖徒たちのはじめの純粋な信仰の「記憶を呼びさまさせて」御言葉に従おうとする「純真な心を奮い立たせ」ようとしました。はじめに主の教えを受けたあの純粋な心を取り戻す、ということです。ユダ1:17。彼らは、信じた時には主の再臨を間近に感じて、緊張感を持って生きていました。イエス様にすぐに会いたいと願い、すぐにでも来られるからと迫害や苦難にも耐えられました。いつでもイエス様に出会う準備ができていました。これが、初代教会の霊的力、信仰の姿となりました。
 今日、マラナタ「主は再び来られる」と挨拶していた初代教会から2千年の歳月が流れました。今多くのクリスチャンが、イエス様が再び来られるということを意識していません。いや、再臨などないとさえ思っています。これが、今日のクリスチャンの信仰を形骸化し、命を失わせています。救ってくださったイエス様に対するはじめの愛がなくなってしまいます。黙示録2:4。そして、肉の思いに戻って、生きるようようになります。
 でも、本当に主が今再び来られるなら、どうなりますか。肉と欲の思いのまま生きて来たすべてのことが裁きを受けることになります。主に会う備えはありますか。主が長い間来られないので、私たちの再臨を待つ信仰も弱くなっているのではないでしょうか。主がすぐにでも来られるという緊迫感が、初代教会の聖徒たちの信仰を純粋にし、迫害や苦難にも耐えさせましたが、主の再臨がないかもという思いは、信仰そのものを揺さぶり、純粋さを失わせることになります。私たちは、どうですか。

U−再臨を待つ姿勢,−1〜2
 主の再臨の緊張感を失い始めていた聖徒たちに、偽教師たちが御言葉をあざけりながら、肉の思うままに生きるように誘っていました。3〜4節。彼らは、聖徒たちに対して、「この世を思うままに生きればいいじゃないか、来もしない主を馬鹿みたいに待っているなんて」とあざけっていたのです。イエス様が再び来られるというなら、私たちは、どのようにしながら過ごさなければなりませんか。いつ再臨されるか分からないなら、何もしないでいいのではというのは誤っています。
 再臨は聖書が言っているので必ずあります。しかし、それがいつなのかは分かりません。マタイ24:36〜39。分からないから、私たちは霊的緊張感を持って主の再臨を待ち望むのです。もし再臨がないなら、世の人々と違って生きる理由がなくなります。確実に主の再臨を待ち焦がれていた人々は、苦難と迫害を受けていた人々です。彼らは、再臨の信仰のゆえに世の虚しさを知り、苦難の仲でも御言葉の約束を堅く信じることができました。
 神様は、ノア時代大洪水起きた後、再びこの世を洪水で滅ぼすことはしないと約束されました。これは、洪水のような災害が起きないという意味ではありません。世の終わりの時までは守ってくださるという意味です。そして、結局この世の終わりは、イエス様が再臨される時です。その時、イエス様を信じている人々はイエス様と一緒になります。その時までは、この世は私たちイエス様を信じる者にとって言わば訓練場です。イエス様を信じる者がこの世において純粋な信仰に変えられ、世の人々は私たちを訓練させる役割を果たします。世は私たちが信仰を生かす現場です。ある人は真理を発見して、ある人は苦難を信仰で克服して、ある人は偉大な愛を分けてあげます。
 お金だけ多く稼いでも、世に有名になったとしても、偉大な最高の人生だとなりません。私たちは、世に流されて無為に生きてはなりません。信仰を用いて、偉大な最高の人生を生きなければなりません。アブラハムやモーセのような人は、御言葉に導かれて偉大な人生を生きました。ヨセフやダニエルも苦難の中で最高の人生を生きました。パウロは、ただ神様から賞を受けるために、最善を尽くして自分の人生を走りました。Uテモテ4:7,Tコリント9:24。
 世で肉の思いのまま生きたとしても、それは人生を乱費したことになります。私たちが世に生まれたことは素晴しい特権であり、責任もあります。イエス様に救われた私たちは、自分が生きる目的を知って、神様を感動させる最高の信仰の生涯を生きなければなりません。そのために、再臨の主に会う備えをもって、生きるのです。イエス様は、終わりの時は盗人のように来るといわれました。黙示録3:3。来ないだろうと思っている時に来るということです。ですから、罪と肉の思いの中に陥ってはなりません。いつも目を覚ましていなければなりません。Tコリント16:13。いつも、今イエス様が来られてもよいように、霊的緊張をもって生きるのです。

V−神様の御言葉の力に聞き従って−5〜7
 偽教師たちは、聖書の一部を用いて自分たちの勝手な主張をするので、ペテロは、聖書全体から教えました。5〜7節。偽教師たちは、世は創造のまま変わらない、イエス様が再び来るなんて約束はないと教えていたのです。しかし、聖書全体を見れば、そんなことはありません。聖徒たちも、御言葉をしっかり握っていないため、主の再臨を待ち望む思いがにぶって来ていたようです。世のすべては、神様の言葉によって造られました。創世記1章。そして、今この世も御言葉の力によって支えてられています。ですから、私たちが神様の御言葉に聞き従って生きるなら、どんな境遇でも生きて行くことができます。
 偽教師は、「何事も創造の初めからのまま」だと言いますが、ノアの当時の世界は洪水によって覆われ、滅びてしまいました。ノアの洪水は、ただの洪水ではなく、神様の御言葉がこの地を支えるのでなければ、地は水に沈んでしまうということを教えています。ですから、御言葉を握っていることは、どれほど堅固なことが分かりせん。人は、世の良いもののように見えるものを土台として生きようとしますが、いつ沈んでしまうか分かりません。私たちが、御言葉を握っているなら、堅固な土台に人生を築いていることになります。
 この世は、どのようになるのでしょうか。すべて「火に焼かれるためにとっておかれ」ていると言っています。すべてのものは燃えてしまえば、何も残りません。結局残るものは、信仰です。純金のような信仰は、どんな火にも残ります。Tペテロ1:7。最後に残るのは、神様の御言葉と御言葉に従った聖徒たちの人生です。この世の行く末は、世の人々が期待しているようにそのままあるのではなく、この世は、私たち信じる者たちの人生の訓練や養いのために残されているのです。訓練や養育が終わば、撤去されてしまいます。
 神様が造られた世界を見れば、神様の奥深い御心を悟ることができます。世のものは、すべて私たちのためにあるのですから、私たちは世に生きている間すべてのものをしっかり信仰によって用いるなら、良く用いることができます。知識もお金も職業も才能も、御言葉によって用いるなら、有効に用いることができます。しかし、世のつかんでいなら、何も残りません。肉と欲の思いになって生きるなら、人生は虚しくなります。
 信じたばかりのあの純粋な信仰を「思い起こして」ください。御言葉に素直に聞き従おうとしていた「純真な心を奮い立たせ」てください。私たちの信仰が純金のようになるように、熱心になることを願います。どうか御言葉にしっかり聞き従って生きて、勝利した人生を生きることを願います。Tヨハネ5:2〜5。主の再臨がいつ来るか分からないから、来ないと思って肉の思いのまま生きることは大変愚かな危険なことです。主の再臨がいつ来るか分からないからこそ、いつでも主にお会いする思いで、霊的緊張感をもって、御言葉に聞き従い、しっかり信仰で地上の生涯を生きて行くのです。主の栄光をあらわしながら、主を待ち望んで生きたいのです。「主イエスよ、来てください。」黙示録22:20。



Uペテロ
3:1 愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。
3:2 それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。
3:3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
3:4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
3:5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
3:6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。



ユダ1:17 愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。

黙示録2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

マタイ24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

Tコリント9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

黙示録3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

Tコリント16:13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。

Tヨハネ5:2 私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
5:3 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
5:4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

黙示録22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

戻る