2014年2月16日「主の恵みと知識において成長しなさい」Uペテロ3:8〜18

序−当時主の再臨について、すぐにでもという思いがあったのですが、再臨の約束に疑いが起こって来ました。それは、再臨に対する思い違いから起きて来た問題でした。そうして、その信仰が揺れ動き、生活が乱れて来たのです。偽教師の教えや惑わしはきっかけに過ぎませんでした。

T−一日は千年のように−8
 人生は長いと思っていても、人生を過ごしてみれば、とても短いことを悟ります。8節。それに悲しいことには、その短い人生において価値あるものを何か残せるのかということです。聖書は、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のよう」だと言っています。神様が時間を造られた方、私たちの人生の主人公は神様だということです。詩篇94:9。
 神様は人々の人生の評価をされる方です。神様は、本当に価値ある人生を生きている人を求めておられます。神様は、人々の人生を見ながら、その中に価値ある人生を探そうとしておられます。イエス様の十字架という尊い犠牲でもって救おうされたのですから、人がどう生きるのか期待されるのは、当然です。私たちが助け、労苦した人についてその行く末を見守り、どう生きるか期待するでしょう。私たちを愛し、犠牲を払われた神様も、私たちが価値ある人生を生きることを求められるのです。
 私たちが時間を計算する時、何十年という与えられた時間を考えますが、神様は価値ある時間を見ておられます。たとえ80年、90年生きたとしても、神様の前にただの一日も価値のない、詰まらない人生を生きる人も多いでしょう。しかし、長い人生を生きることはできなくても、神様の前には千年のように価値ある人生を生きる人もいます。
 では、どのようにすれば、神様の求める価値ある人生を生きることができるのでしょうか。本当に神様の御前に宝石のように輝く人生となろうとするなら、私たち自身が神様の御言葉で造り変えられなければなりません。主の救いの恵みで生きなければなりません。この御言葉をつかんで生きるなら、一日も千年のように生きることができ、千年を一日のように生きることができます。つまり、時間の制約を乗り越えて、永遠に価値ある人生を生きることができるのです。他のことは何も残りませんが、神様の御言葉は永遠に残ります。御言葉に生きた価値ある信仰の生涯は、残ります。

U−主の再臨が遅れる理由−9
 先週学んだように、初代教会の聖徒たちの多くは、自分たちの生きている間に、イエス様が再び世に来られるという考えをもっていました。言うなれば、イエス様にすぐにでもお会いできるのだという霊的緊張感をもって生きていたわけです。そのために、迫害にも耐え、真剣に証しし、宣教的教会を形成していました。彼らは、互いに「マラナタ」(主は再び来られる)という挨拶を交わしていたくらいです。
 しかし、次の世代になろうとしていたこの時代、主の再臨はまだありませんでした。それで、聖徒たちの気持ちが緩み始め、主は来られないという疑いが起こりはじめました。そこへ偽教師たちがあらわれて、そんな期待は捨てて、もとに肉の原理に引き戻そうという惑わしていたのです。Uペテロ3:4。初代教会から2千年後の今日、多くのクリスチャンは、イエス様がすぐにも来られるという意識はなく、再臨などないとさえ思っています。これが、今日のクリスチャンの信仰を形骸化し、命を失わせています。救ってくださったイエス様に対するはじめの愛を失っています。
 それについて、聖書は重要な神様の御心を教えています。9節。イエス様は来られないとか、怠けて遅れているかではなく、神様が、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを願っておられる」からだというのです。イエス様のぶどう園のたとえも同じです。マタイ20:1〜9。ぶどう園の主人が朝市場へ行って労務者を雇い、午前9時にも行って雇い、昼にも、午後3時にも、午後5時さえ行って雇いました。その理由は、イエス様が最後の瞬間まで、一人でも多くの人を救おうとされておられるということです。
 ですから、私たちは、それぞれの年代で最善を尽くして、価値ある信仰生活をしなければなりません。子どもは子どもとしての主の前に価値ある人生があり、老年は老年として生きる美しい人生があるということです。ところが、神様をまったく無視して、肉の思いを遂げることだけに時間を費やすならば、価値ある人生も、美しい日々もないことになります。神様に対する情熱を燃え上がらせなければなりません。信仰の情熱がない人生は、エンジンが止まっているようです。美しく輝くことはありません。
 主は、人々が滅びないで、一人も多くの人が救われるようになるために、待っておられるのです。救いを受ける人が一人でもいるかぎり、待っておられるというのです。私たちがすべきことは、神様が待っておられる間に、悔い改めて、価値ある人生を生きることであり、その間に懸命に証しして、人々を救いに導くことです。
 主の再臨は、盗人のようにやって来ると言われています。10節。泥棒は予告して来るでしょうか。隙をうかがって、誰もいない時に侵入します。主もそのように突然来られるということです。その理由は、私たちの普段の生活の中に来られるということです。主に会う備えがありますか。
 その時、世に頼りにしていたものがすべてなくなります。私たちクリスチャンは、主の再臨を知る者として、どのような人になることが望まれているのでしょうか。11節。「聖い生き方をする敬虔な人」になることです。世の終わりがあり、私たちの地上の生涯に限りがあるならば、どれほど聖く敬虔に生きなければならないことでしょうか。考えてみましょう。

V−価値ある人生を生きるために−
 私たちが神様の民として価値ある人生を生きようとするなら、正しい目標を定めなければなりません。肉の思いを満足させることを人生の目標とするなら、その人生は失敗に終わるほかありません。肉の思いを遂げるために多くの罪を犯し、罪の言動に及んでしまうほかないからです。イエス様は、「宝を地上にたくわえるのはやめなさい」と言われました。この世にあるものは、結局すべて朽ちて、燃えてしまうからです。マタイ6:19〜20。世で永遠に朽ちないものは、神様の御言葉だけです。私たちの人生のすべてを御言葉に寄るならば、朽ちることはありません。
 ですから、人生において「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい」と命じています。14節。シミやホクロが多いから私はだめなかなどと思わないでください。ここでしみや傷と言っているのは、「しみや傷のようなもの」と言われた偽教師と対照的に、「傷もなく汚れもない」イエス様に似た者に造り変えられるようにと言っているのです。Uペテロ2:13,Tペテロ1:19。そのためにイエス様が十字架にかかって私の罪を負ってくださいました。イエス様の十字架を信じて、救われたことをしっかり覚えて、肉の思い中心から抜け出さなければなりません。
そのためには、まず神様の御言葉を聞いて、信仰が成長することを目標とすることです。御言葉は両刃の剣のように私たちの心の中を切り出し、悔い改めと造り変えを促してくれます。そうして、御言葉の導きに聞き従って、最善を尽くして生きるのです。そうすれば、しみや傷のない、価値ある人生を生きることができます。
 初代教会の時現れた偽りの信仰は、「恵みの乱用」です。救いは、行いによるのでなくて、「ただ恵みのゆえに、信仰によって救われた」と使徒パウロも教えていました。エペソ2:4〜8。それを誤解して、いや曲解して、滅びに向かう人々がいたのです。15〜16節。恵みによって救われたのだから、その後は肉の思うまま生きても地獄に行くことはないと勝手に思っていたのです。続くエペソ2:10を見れば、「私たちは神の作品であって、良い行いに生きるように造り変えられた」者だと言っています。
 使徒パウロの教えの核心は、「ただ恵み」ということです。エペソ1:7。確かに、誰でもイエス様を信じれば、救われます。もう罪に定められることはありません。これが、福音です。ところが、これを免罪符のように考えて、肉の思いのまま生きる人々がいました。それが、「無知な、心の定まらない人たち」でした。今日も、心の定まらない、感情の赴くまま、肉の言動に及んでしまう人がいます。主の十字架の犠牲のゆえに恵みによって救われたのなら、その恵みの応えて生きたいと願わないでしょうか。
 救われた私たちが御言葉に聞き従わないで、恵みだけ主張するなら、自分を欺いていることにならないでしょうか。17節。信仰の「堅実さを失うことにならないように」と願います。神様はイエス様を信じる者の罪を赦し、救ってくださいましたが、罪と肉の欲は残っています。怒りや妬みがすぐに生じてしまいます。日々御言葉によって生きて行きましょう。
 最後に、「イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と命じています。18節。これは、イエス様の十字架の犠牲によって救われたという恵みと神様の御言葉によって、人生を生きなさいということです。これが、私たちが人生行路を行く原動力です。そうすれば、世の「無節操な者たち」に惑わされることはありません。御言葉にある力と祝福を得ることができます。これが、私たちの短い人生を浪費しないで生きる道です。一度限りの人生を虚しく浪費しないでください。御言葉をつかんで価値ある人生を生きてくださることを願います。ピリピ3:13〜14。



Uペテロ
3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
3:14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
3:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
3:16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
3:17 愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身
の堅実さを失うことにならないようにしなさい。
3:18 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。



詩篇94:9 耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。

マタイ6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

Tペテロ1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

エペソ2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

エペソ1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

ローマ2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

ピリピ3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

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