2014年3月2日「追い払わなかった」士師記1:22〜36

序−私たちが士師記を学ぶ時、戦争や占領を学ぶのではなく、イスラエルの民がカナンの地を占領して行く過程を通して、過ちや神様の導きなどを学び、私たちの信仰生活への適用とします。神様は、このカナンを占領していく民の姿を通して、私たちに何を問いかけているのでしょうか。

T−愚かな知恵と妥協の結果−22〜26 
 はじめに登場するヨセフ族は、前回のユダ族とともに、イスラエルの中でとても重要な部族でした。22節。ユダ部族が南方で、ヨセフ族は北方を割り当て地としていました。ヨセフ族は、エフライム族とマナセ族を合わせたものです。「主は彼らとともにおられ」たので、ヨセフ族は「ベテルに上って行」きました。私たちは、そのような戦争の話しを通して、霊的な適用を受けます。私たちにとって占領すべき地とは何か、信仰で占領しようとしているだろうか、自分の中から追い出すべきものはないか、占領していないことは何だろうか、と考えてみることが適用です。
 ヨセフ族には、一つの問題がありました。23〜24節。その地を簡単に手に入れるために、カナン人と妥協してしまったということです。ベテルという町が城壁で囲まれており、その入り口がどこにあるか分からなかったので、偵察隊を送って、探らせました。町から出て来る人を見つけて、その人と取引をして、簡単に町を攻め取ることができました。重要なのは、その後です。26節。そもそもイスラエルの民がカナン征服で求められていたのは、完全に征服し、占領することでした。これには、カナン人の悪徳放縦や偶像礼拝を取り除くという霊的意味がありました。しかし、ヨセフ族は、そのような霊的意味を深く考えず、取引してしまいました。その人は重要人物で、近くにまた自分たちの町ルズを立ててしまいました。一つの町を占領したけれども、結果的にはまた一つの未占領地ができてしまったということです。何をやっているのでしょうか。うまいやり方に見えたのですが、妥協するとはこういうことです。
 世は、私たちが信仰で生きて、福音で占領して行くところです。信仰を受けたなら、信仰を適用して行くところです。愚かな知恵に頼ったり、軽はずみな妥協をしたりして行く時、私たちの努力が無に帰することもあります。私たちは、世を信仰で生きて行く目的を明らかにしなければなりません。世をうまく安全に生きて行くことが目的ではなく、信仰をもって世に生きて、世を変えて行くことが目的です。そこに私たちの生きがいがあり、そうして行く所が、祝福のカナンの地となります。
 私たちに必要なのは、世において徹底して信仰で生きてみることです。あえて反抗したりすることではなく、いい加減な信仰は影響力をもたないし、適当に妥協するなら世はそこに真実性を見ないし、結果自分自身の信仰も危うくなるということです。私のためにイエス様が十字架にかかられて救われているのですから、私たちは真実に生きるほかありません。ヘブル2:3, Uペテロ3:11。世に影響力ある信仰に生きなければなりません。
 世を変化させ、世に影響を与えた信仰の人はみな、徹底して神様の御心に従って生きた人々でした。私たちが御言葉の原理で生きて行くなら、独善的だ融通性がないなどの批判を受けることがあるかもしれませんが、福音に真実に生きて行くなら、やがて理解され、受け入れられます。なまじっか妥協したり、肉的な信仰で行くなら、そんな信仰は結構だ、そこに真実はないと見られるだけです。今私たちはどんな姿でしょうか。

U−信仰の不徹底、不従順、欲心の結果−27〜30
 結局、中心部族のヨセフ族が神様の御心に徹底しなかったという姿は、他の部族に影響を与えずにはおきませんでした。他の部族は、ヨセフ族よりはるかに弱く小さい部族でした。彼らは、割り当て地の多くを占領することもなく、カナン人を追い払うことをしませんでした。27〜28節。霊的な意味は、悪徳放縦、偶像礼拝を取り除かなかったということです。家の側に飲み屋街や歓楽街があったとしたら、影響はどうでしょうか。
 結果、「カナン人はその土地に住みとおした」ということです。占領しなかった村々の名前が列挙され、それ以外の土地にイスラエル人は住んだということです。1章の後半は、「カナン人を追い払わなかった」「カナン人は彼らの中に住んだ」という文が、繰り返し出て来ます。ヨセフ族の不徹底が進んで、多くの地を占領も追い払うこともしなかったのです。
 ヨシュア記12章を見ると、これらの地域で戦いにすでに勝利して、その王たちを討ち取りました。もう力はなかったはずです。それにもかかわらず、イスラエルの民は、追い出すことをしませんでした。その地の人々の性格が獰猛で、体格も大きいために恐れたからです。40年前の先祖たちと同じく、彼らに比べたら自分たちはいなごのようだという「いなごコンプレックス」に陥りました。民数記13:33。
 彼らは、果たして何を重要だと考えていたのでしょうか。それまで荒野での生活は、与えられたマナを食べ、ただ神様を信じるだけしかありませんでした。ところが、カナンの地に入って行くと、自分たちの土地を得て、食料を生産し、採集しなければなりません。それが優先順位となり、カナン人との戦いを後回しにしたのは、魂のことを後回しにしたことです。いくらその地の民が獰猛で巨人だとしても、自分たちが力を合わせるならば、ユダとシメオン族のように打ち勝てたはずです。一人一人が、自分の食べて行くことだけに集中して、力を合わせることをしなかったのです。
 これは、私たちへの大切な教訓です。私たち一人一人では、世に影響力を与えることは困難です。反対に悪影響を受けて、罪を犯しながら生きることになりかねません。しかし、私たちが一緒に礼拝をささげ、恵みを分かち合いながら、信仰で生きて行くなら、思う以上にもっと影響力の強い者となって生きて行けます。確かにヨセフ族がまず高地であるベテルを攻め取って、前進基地としょうとしたのはよかったのですが、神の民は、御言葉によって造り変えられなければなりません。そうでなければ、悪影響を及ぼします。私たちは互いに霊的影響力を持っているのです。
 その地の住民を追い出せなかったのは、武器も力も戦略も足りなかったためなのですが、最も重要なことは、カナンの富に欲心をもったためです。それで、神様に従わなくなったということです。カナン人から富を得て、労働力として使い、彼らの富や力に頼るようになりました。イスラエルの民は、定着するようになってから、欲心に左右されるようになり、神様に対する情熱、純粋な信仰を失って行きました。これまで武器も力もなかったのですが、懸命に神様に拠り頼んで、守られて来ました。私たちが、欲心に振り回されると、信仰の熱心の火が消えかかります。肉の思いを満足させることが優先させると、肉の原理に戻ってしまいます。怒り、憎しみ、妬み、自己中心などが追い出されず、信仰生活はひどくなります。

V−神様の対応、状況の悪化−31〜36
 そのように、神の民が神様の御心をなさず、神様に対する情熱を失って、勝手に進むなら、さらに悪化します。31〜33節。ナフタリやアシェル族は、カナンの地で最良の地を割り当てられながら、かなりの地を得ることはできず、悲惨な状態となりました。「カナン人が彼らの中に住んだ」のではなく、「彼らがカナン人の中に住みついた」ということになってしまいました。立場は逆転してしまったのです。
 カナン人が強いからでしょうか。イスラエル人がカナン人に隙を見せたからです。彼らがいのちをかけて占領を進めるなら、カナン人が他の所に移って行ったことでしょう。しかし、その意志がなければ、カナン人の方が強く出て来て、攻勢をかけることになります。34〜35節。哀れなダン部族にいたっては、圧迫されて、割り当て地に入ることさえできませんでした。神の民が不徹底、不従順、いい加減な信仰という隙を見せていたためです。私たちの信仰が真実なら、人が私たちを見くびることはありませんが、不徹底ないい加減な信仰なら、人もサタンも付入って来ます。
 なぜ、神様は民を強くして、戦いに勝つようにされなかったのでしょう。34,36節。エモリ人の方が、神の民よりも圧倒的に強くなりました。彼らの怠惰と欲心、偶像崇拝への無頓着、神様の御力と約束信じない不信仰が、彼らから幸いと繁栄を失わせ、危害を受けるようにさせたのです。これが、神様の応答でした。言うことを聞かないのでいじめたわけではありません。彼らの望むようにさせて、困難の中から神様に立ち返って来ることを願われたのです。この北方の割り当て地は、後に北イスラエルとなり、その不信仰のゆえにアッシリアに捕囚となって、国も民も消えてしまいます。その始まりがすでにここにあることを見せられます。
 私たちの信仰は、イエス様がいのちを代償として与えられた救いです。占領すべき宣教地、占領すべき仕事や学びは、そのままでいいのでしょうか。主のものとなった自分から、争い、敵意、憤り、妬み、党派心等追い出さないでいいのでしょうか。ガラテヤ5:19~21。私たちがそのままにするのなら、もっと囚われ、もっと悪くなるでしょう。それは、私たち自身が選んだことになります。しかし、神様の御言葉に従順になるなら、肉の思いを追い払うことができ、御霊の実が育ちます。ガラテヤ5:22〜23。イエス様が与えてくださった信仰は、世に勝つ信仰です。Tヨハネ5:4〜5。学びや仕事においても信仰で占領していけます。宣教の地をイエス様の救いで占領できます。世に勝利して、地の塩、世の光として生かされます。



士師
1:22 ヨセフの一族もまた、ベテルに上って行った。【主】は彼らとともにおられた。
1:23 ヨセフの一族はベテルを探った。この町の名は以前はルズであった。
1:24 見張りの者は、ひとりの人がその町から出て来るのを見て、その者に言った。「この町の出入口を教えてくれないか。私たちは、あなたにまことを尽くすから。」
1:25 彼が町の出入口を教えたので、彼らは剣の刃でこの町を打った。しかし、その者とその氏族の者全部は自由にしてやった。
1:26 そこで、その者はヘテ人の地に行って、一つの町を建て、その名をルズと呼んだ。これが今日までその名である。
1:27 マナセはベテ・シェアンとそれに属する村落、タナクとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、イブレアムの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落は占領しなかった。それで、カナン人はその土地に住みとおした。
1:28 イスラエルは、強くなってから、カナン人を苦役に服させたが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。
1:29 エフライムはゲゼルの住民カナン人を追い払わなかった。それで、カナン人はゲゼルで彼らの中に住んだ。
1:30 ゼブルンはキテロンの住民とナハラルの住民を追い払わなかった。それで、カナン人は彼らの中に住み、苦役に服した。
1:31 アシェルはアコの住民や、シドンの住民や、またマハレブ、アクジブ、ヘルバ、アフェク、レホブの住民を追い払わなかった。
1:32 そして、アシェル人は、その土地に住むカナン人の中に住みついた。彼らを追い払わなかったからである。
1:33 ナフタリはベテ・シェメシュの住民やベテ・アナテの住民を追い払わなかった。そして、その土地に住むカナン人の中に住みついた。しかし、ベテ・シェメシュとベテ・アナテの住民は、彼らのために苦役に服した。
1:34 エモリ人はダン族を山地のほうに圧迫した。エモリ人は、彼らの谷に降りて来ることを許さなかった。
1:35 こうして、エモリ人はハル・ヘレスと、アヤロンと、シャアルビムに住みとおした。しかし、ヨセフの一族が勢力を得るようになると、彼らは苦役に服した。
1:36 エモリ人の国境はアクラビムの坂から、セラを経て、上のほうに及んだ。



Uペテロ3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

ヘブル2:3 私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、

ガラテヤ5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません

Tヨハネ5:4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

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